Tomorrow is Another Day
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気持ちの行き場がなくなって。
涙さえ出ないのは、きっと俺の気持ちがあっちこっち切れて、うまく繋がってないせいなんだろう。
「……戻らなきゃ」
またフロアに戻って、愛想笑いをして。
客のタバコに火をつけて、キスをして。
「……なんか、ダルいよなぁ……」
急に全部が面倒になって、このままサボって公園に戻りたくなった。
それでもゆるゆる立ち上がって部屋を出ようとしたら、ドアに寄りかかってこっちを見てるヤツがいた。
「……珍しいね……どうしたの……?」
こんな時に会いたくなかったのに。
中野は俺の独り言を聞き流して、辺りに散らばった灰を見下ろした。
「随分といいご身分になったもんだな。ハシタ金に用はないか」
いつからいたんだろう。
抱かれてる時も近くにいたんだろうか。
「……そんなんじゃないよ」
感情のあちこちが切れていて、泣きたいはずなのに笑いがこみ上げた。
視界の隅に移った中野の眉間にシワが寄って。
擦り切れたはずなのに、また、気持ちが痛む。
「……ね、中野……北川に、俺がサボって帰ったって言っておいてよ」
もう、ダメだって思ったから。
「どこへ行く気だ?」
「公園」
逃げ出すことしかできなかった。
相当酒も入ってる。どんなに寒くても眠れそうな気がした。
「じゃあ、よろしくね」
もう何も考えたくない。
手を振って脇を通り抜けようとしたら、腕を掴まれた。
「待てよ」
いつも思う。
俺のことなんてどうでもいいくせに。
なんで、ここにいるんだろう。
「凍死するぞ」
顔を上げたら、泣いてることに気づかれてしまう。
ここでまた鬱陶しいなんて言われたら、立ち直れそうになかったから。
「……それもいいかも」
中野の手を振り払って裏口から外に飛び出した。


全速力で公園まで走って、冷たいベンチに寝転ぶ。
さすがに寒くて人影もない。
思い切り吸い込んだ冷たい空気が咽喉と肺を直撃する。
酒は体中に回っていて、感覚がいつもと少し違っているみたいだった。
「……だる……」
ゼイゼイ言いながら丸くなって、目を閉じた。
このまま眠ったらどうなるんだろう。
結果なんて考えるのも面倒で、後のことは全部放り出した。
「……いいことないなぁ……」
表通りのざわめきが耳に流れ込んでくる。

このまま眠って、朝になって。
また明日になったら誰かに買われて。
眠って、朝になって。
ただ繰り返していくだけ。
何も考えなければいい。
自分の価値とか真っ当な人生とか。
それから、中野のことも。
全部どこかに追いやってしまえばいい。


そう思ったのに。


「本当にここで寝るつもりか?」
聞き慣れた声はやっぱり不機嫌そうで。
薄く目を開けたら、本当に面倒くさそうに立っていた。
だったら、声なんかかけなきゃいいのに。
俺が滅入ってる時に限って、いつもいつも目の前にいて。
だから、忘れられなくなるのに。
「……そうだよ……悪い?」
ライターのカチッという音とタバコの匂い。
中野からの返事はなくて、クラクションが聞こえて。
また、涙がこぼれた。
「ったく……鬱陶しいヤツだな」
結局、言われたなって思いながら。
「……そんなこといちいち言わなくてもいいじゃん」
ぐるぐるといろんな事が巡って。
「もう俺のこと構わないでよ」
泣きながら、目を閉じた。
寒さと気だるさと。アルコールの匂いと目眩と耳鳴り。
でも、すぐにそれも感じなくなった。


夢の中。
空を見上げて突っ立っていた。
浮いているような、沈んでいくような奇妙な感覚だけが体に残る。
わずか数ヶ月。
なのに、もう何年もこんな生活をしているような気がした。



頭がぼんやりしていて、はじめはどこにいるのか分からなかった。
ただ、タバコのにおいがして。
だからようやく中野のベッドの上だってわかった。
起き上がろうとして気づいたことがもう一つ。
俺はもう抱かれたあとだった。
「……ん、っく……」
気だるさの中でチラリと視線を投げたら、テーブルの上に一万円札が5枚乗っていた。
みんな同じ。
岩井が差し出した銀行の封筒。
客に渡された千円札2枚。
ぐるぐると回っていった。
朝になったら、それを持ってここを出る。
結局、それだけのこと。
そう思った時、自分が溜め息をついたかどうかもわからないまま。
視線を移したら、中野の手が見えた。
面倒くさそうにタバコを咥えて、ライターに手を伸ばした。
まだ、起きてたんだ……ってぼんやりと思いながら。
中野よりも早くライターを取った。
北川に教わった通りに火をつけようとしたけど。
「余計なことをするな」
ちょっとキツイ口調で俺からライターを取り上げた。
なんでか分からないけど、中野は真面目に怒ってた。
「……けどさ、お金もらってるんだから、中野だって俺の客だろ?」
その言葉に中野の眉がピクッと動いて。
それから。
白い煙を吐き出しながら、バカにしたように俺を見下ろした。
「そんなことさせるために金出してんじゃねえよ」
それだけ言い放って新聞を広げた。
「ふうん……そうなんだ。何かしてあげるの、嫌いじゃないんだけどな……」
ついでに話したり、笑ったりできるんじゃないかって思うから。
でも、中野にはそんなもの必要ないんだ。

俺じゃなくても。
誰でもいい。
ただ抱く相手が必要なだけ。

ため息のあと、ベッドを抜け出して、落ちている服を拾い集める。それを適当に着込んで中野に背中を向けた。
「俺……やっぱり戻るね」
ずっと側にいたいと思うけど。
一緒にいたらどんどん辛くなりそうだから。
「おやすみなさい」
振り返る気力もなくて、とぼとぼとドアに向かう。
どうせ中野からの返事なんてない。
そう思った時に。
「……灰皿」
短い言葉が飛んできた。
振り返ってみたけど、灰皿は中野が手を伸ばせば届くところにあった。
でも、滅多にしゃべらない中野がわざわざ口に出して言うくらいだから、俺に持ってこいってことなんだろう。
ベッドまで戻って、サイドテーブルに乗せてあった灰皿を手渡した。
中野は当たり前のように長くなった灰を落として、また煙を吐いた。
あとは何も言わなくて。
それ以上、用なんてなさそうだったから、俺はまたドアに向かった。
まだ2歩くらいしか歩いてないのに、
「落ち着いて座ってろ」
タバコを咥えたままのくぐもった声が降ってきた。
中野は相変わらず俺の方なんか見てないのに。
「……中野ってさ、」
振り返った俺の目には背中しか見えない。
「後ろにも目がついてんの?」
そしたら、チラッと振り返って、
「少し黙ってろ」
いつもの冷たい口調で返事があった。


別に何をするでもなく。
ベッドの端っこに腰掛けて、真夜中に寝転んだまま新聞を読んでいる中野を見ていた。
ぼんやりと壁に寄りかかってたら、俺はいつの間にか眠ってしまった。
新聞をめくる乾いた音だけがいつまでも耳に残ってた。



薄く意識が戻ってきた時にはちゃんと寝かされてて。
隣りに視線を移すと中野の背中と薄青くなっていく夜明けの空が見えた。
子供の頃も、こんなふうに色が変わっていく風景を眺めてた。
水商売をしてた母親が帰ってくる時間。
だから、朝になるのが嬉しかった。
ひとりでいっぱいいっぱいに生活している時は絶対に思い出さないけれど、こんな風に中野のそばにいるといろんなことを考える。
母さんだって大変だったんだろうな、とか。
中野は窓の外に何を見てるんだろう、とか。
今までのこととか。
この先のこととか。
「……やば……」
ぜんぜん悲しい事なんて考えてないのに、急にポロポロ涙がこぼれてきて止まらなくなった。
でも、中野が起きる前に泣き止まないといけないと思って、グズグズしながらトイレに行った。

肌寒い狭い空間で床に座り込んでひざを抱えた。
どれくらいそうしていたか分からなかったけれど。
ようやく涙が止まって、少し落ち着いた時にはもうすっかり明るくなっていた。
そっと寝室に戻ったら、中野がタバコをふかしていた。
「……おはよ。早いんだね」
声なんかかけても、相変わらず視線は窓の外。
俺の言うことなんて少しも聞いてないくせに。
でも、ベッドに戻ったらタバコを消して。
中野の手がまだ乾き切っていない俺の頬を拭いた。
「本当に鬱陶しい奴だな」
泣いてたことなんてとっくにバレてたんだなって思ったら、顔が上げられなくなって。
「だって……」
また「黙ってろ」って言われるかと思ったけど。
中野は何も言わずに俺を抱き寄せた。
まだ冷たい頬にキスをして。
そのあと、首筋に痕を残した。


何も言わない中野の腕の中。
一人で立っていた時には気付かない気怠さが体を重くする。
安堵と、少しの不安を一緒に感じながら。
抱きしめられたまま。
泣いてた言い訳を考えてるうちに、また眠ってしまった。



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