もう一度謝ろうって思って、一時間くらい待ったけど中野は帰ってこなかった。
「どうしようかなぁ……」
少し悩んだけど、結局、掃除はしないままで俺もマンションを出た。
診療所に行くつもりだったけど、きっと泣いたってわかると思って止めておいた。
こんな顔をしてたら小宮のオヤジとか患者モドキたちが心配するし。
「そしたら、きっと闇医者に言いつけるだろうしなぁ……」
だから、絶対心配しそうもないヤツしかいない場所に行くことにした。
北川の事務所は電気もついてなくて、なんだかひっそりしていた。
「オーナー、いる?」
誰もいなかったら公園に戻ろうって思ったけど。
「いないなら、帰るね」
小さな声でドアに向かって呼びかけたら、北川が笑いながら出てきて中に入れてくれた。
「なんだ、マモ。目が腫れてるぞ。また中野にいじめられたか?」
なんでそういうことばっかり気がつくんだろう。
しかも、楽しそうだし。
「……違うよ」
いじめられてなんかないし、掃除の話をするまではいつもよりちょっと優しかったし。
だから、ムキになって言い返したけど、やっぱり北川は笑ってた。
それから、いいことを思いついたみたいな顔で一人でうなずいた。
「だったら、中野が優しく構ってくれるかもしれない魔法のアイテムを貸してやるよ」
そう言って奥の部屋から持ってきたのはビニールコーティングされた大きめの紙袋だった。
その中を覗き込んで、俺は首を傾げた。
「……なに?」
どこかの高校の制服。たぶん、ホンモノ。
白いシャツにブレザー、ネクタイ、パンツ。
北川が持ってるくらいだから、やらしい作りになってるんじゃないかと思ったけど。
広げてみても別に変わったところなんてなかった。
「どこが魔法?」
俺の質問に北川はただ笑って、
「明日はそれ着て3時に出勤しろよ」
そう言っただけだった。
その後は北川のところで掃除をしたり、書類の片付けをさせられたりして。
全部終わったあと、そのまま店に出た。
俺はまだなんとなく元気がなくて、ずっと客に慰められたりしてた。
「そしたら、北川さんが制服を貸してくれたんだ?」
みんな俺が中野にいじめられてるのが楽しいみたいなんだけど。
それってちょっとひどくない?
「うん。でも、どこが魔法かわかんないんだよな」
思い返してみたけど、やっぱり普通の制服だし。
「あとでもう一回聞いてみたら?」
妙にあちこちなでられながらも、「うん」と答えたけれど。
店が閉まって片づけを終えても北川は魔法の理由を話してくれなかった。
「なんで内緒なんだよー?」
俺がむくれても。
「明日が楽しみだな。中野がなんて言ったか教えろよ?」
笑いながら新しく入ったバイトのヤツと一緒にどこかに消えてしまった。
「ちぇ、明日までに中野に会うかどうかもわかんないのに……」
なんで教えてくれないんだよって、ぶちぶち言いながら歩いていたら。
突然、知らない人に声を掛けられた。
「君、一人?」
ジャケットとパンツ。普通の服装の普通っぽい人。
でも、気をつけないと。
こんな時間に声を掛けてくるっていうだけで十分あやしいもんな。
「うん、もう帰るところ」
一応、普通に答えたけど。
「遅いから、送ってあげようか? 家はどこ?」
「えっと……」
って言って、どうしようって思ってる間に腕をつかまれそうになって。
「なに??」
びっくりしながらも思いっきり振り払って紙袋を抱えたまま全速力で大通りの方に走った。
そのまましばらく人込みを走り続けて、気がついたら公園にきてた。
「……はあ、あれ、なに……客、じゃないよ、ね?」
はぁはぁ言いながらベンチに座り込んだ。
どんなに考えてもよくわからないんだけど。
「……あ、補導かも……」
こんな時間にあんな場所を一人で歩いてる未成年ってダメっぽいもんな。
「なんだ。じゃあ、逃げて損した」
っていうか。だとしたら、俺、すごく怪しいじゃん。
「まあ、いっか」
少し落ち着いてから、もう一度制服を広げた。
「中野ってブレザーが好きなのかなぁ。制服フェチ?」
ぜんぜんそんな感じじゃないのに。
何度考えても分からなくて、それも「まあ、いっか」って思うことにしたんだけど。
それよりも、じっとしていたら寒くなってきて。
でも、中野のところにはもうダメだし。
「だって、なんか怒られるために行ってるみたいだもんなぁ……」
近くにいたらどんどん嫌われるような気がして、怖くて行けなかった。
中野はいつも呆れてて。
俺の話なんかちっとも聞いてなくて。
今でもアイツのことばっかりで―――
思い返したら、ため息が出た。
「……でも、カゼ引くよりはどこかに泊まった方がいいよなあ……」
明日からのことは後で考えるとして、とりあえず今夜の寝場所を確保しようとポケットの金を確認したけど。
やっぱりもったいなくて、ためらってしまった。
今日は小宮のオヤジも診療所にはいないし。
「北川に頼んで店を開けておいてもらえばよかったな……外よりはあったかかったのに」
つぶやいた時、頬にポツッと小さな水滴が当たった。
「うそ、雨降るわけ??」
あせって立ち上がったけど、行き先は思いつかない。
でも、とりあえず濡れないところで考えようと思って診療所の入り口まで走った。
「今日って、なんか、走ってばっかだなぁ……」
診療所の玄関にはちょっとだけ屋根がついてて。
ここでも立っていればなんとか雨は当たらない。
疲れて座っても足が濡れるくらいだろう。
少し寒いけど朝まで過ごして、小宮のオヤジが来たらベッドを借りてバイトの時間まで寝ればいい。
「うん、そうだな。そうしようっと」
少しでもあったかくなるようにその場で跳ねたりしてたけど。
「……疲れたかも」
さすがにダルかった。
時計もないから朝までどれくらいなのかも全然わからない。
他のところに移動するにも雨は本降りになっていた。
「今、何時かなぁ……」
ものすごく遠く感じる夜明けを思い浮かべながら、ドアに寄りかかったままうとうとした。
ザーッという雨の音。
それから、車が水をはねる音。
表通りの喧騒もかすんで聞こえた。
うっかり本当に寝てしまって、ガクンと体が崩れそうになって。
「うあっ……」
びっくりして目を覚ましたら、中野が立ってた。
「こんなところで何をしてる」
いきなり質問されたけど。
まだちょっと寝ぼけていて自分がどこで何をしてるのか分かっていなかった。
「……えっと……ここ、どこ?」
ひとり言と一緒にあたりを見回して、ようやく思い出して。
でも、その時にはもう中野は呆れ果てていた。
「あ、あのさ……雨が降ってきたから……それまで公園にいたんだけど、店も閉まってて」
なんか順序が違うって思ったけど。
中野はそれもあんまり聞いてなかった。
足元に置いてあった紙袋を俺に押し付けて、それから手首を引っ張った。
「帰るぞ」
そう言われたけど、俺は黙って首を振った。
「誰か待ってるのか?」
それにも首を振り続けた。
「じゃあ、なんだ」
また、不機嫌な顔になる中野をまっすぐ見ることができないまま。
「だって……」
続きを言えずに言葉を濁した。
傘に当たった雨がはじけて俺の前髪を濡らす。
自分の足元しか見えないくらいにうつむいて黙り込んでいたら、中野の大きな手がクシュッと濡れた前髪を掴んだ。
それから、そのまま頭を後ろのドアに押し付けた。
そんなことされたら嫌でも中野の顔が目の前に来て。
だから、どうしようもなくて。
「だって、だってさ……」
結局、ぜんぶ言ってしまった。
「……俺、もう怒られるの、やだ……」
ホントは怒られるのが嫌なんじゃなくて、中野に嫌われたくないだけ。
でも、そんなこと言ったら、また鬱陶しがられるのもわかってる。
「朝だって、俺……中野が怒ると思わなくて……」
また、涙がこみ上げた。
最初の一滴が頬を流れ落ちたとき、中野は少し困ったような顔になった。
怒らせて、困らせて。
ちっともいいことなんてないって思ったら、また悲しくて。
「……だから、行かない」
これ以上泣かないように唇を噛んで目を大きく開けたら。
「……怒ってねえよ」
ため息交じりの返事が雨の中に消えていって。
頭を抑えていた中野の手が、頬に下りて涙を拭いた。
そんなことされなかったら、ちゃんと泣き止んだはずなのに。
「だって……」
言いながらまた泣き出した俺を中野は困った顔のまま抱き寄せた。
「ったく……」
たぶん呆れてたけど。
「泣き止んだら、帰るからな」
そう言われて、今度はちゃんと「うん」って頷いた。
俺の鼻先、中野の胸ポケットにはまだ封の開いていない新しいタバコが入ってた。
「……雨の日くらい、タバコ、我慢すればいいのに」
こんなに降ってるのに。
もう真夜中なのに。
そう思ったから、つい口に出してしまったけど。
中野からは何の返事もなかった。
泣いたせいで、翌朝はちょっと目が腫れてた。
それでも、バイトに行く頃には腫れも引くだろうと思って、とりあえず制服に着替えはじめた。
けど。
「ネクタイってどうやって結ぶんだろう?」
なんとなくあの形になればいいんだろうと思って鏡の前で奮闘してみたけど、どうもそんな簡単にはいかないらしい。
「ぜんぜんダメじゃん。三角にならないよ」
数秒間途方に暮れたけど、そんなことをしてても仕方ない。
「わかんないから店で誰かに結んでもらおうっと」
ネクタイは結ばずに首に掛けたままで寝室を出てリビングに行った。
中野はやっぱり新聞を広げてた。
新聞なんて1個読めばいいのに、中野は毎日いろんな種類をたくさん読んでいる。
「なー、用意できたから一緒に行こうよ」
もちろん、店に行くにはずいぶん早い時間だったけど、今日は朝ご飯も食べてなかったから、何か食べてどこかで遊んでから出勤すればいいと思って。
「中野ってば。聞いてる?」
そう言って新聞と中野のすき間にむりやり顔を出した。
中野が珍しくちょっとだけ驚いた顔をして、しかも、何か言いたそうに少し口を開いたけど。
結局、何も言わなかった。
「なにー?」
やっぱり制服が好きだからなのかなって思って。
そしたら、褒めてもらえるんじゃないかってちょっと期待したんだけど。
「だらしないぞ」
ネクタイを注意されただけだった。
「だっての結び方がわかんないんだよ。俺の中学、ネクタイなんてなかったんだもん」
中野はちょっとため息をついたけど、新聞を置くと静かに立ち上がって俺の後ろに回った。
それから、
「よく見ておけよ」
そう言ってゆっくりとネクタイを結んでくれた。
このあいだから中野はちょっと違ってたけど、今朝は今までで一番優しいかもしれない。
北川の言うとおり、制服が『魔法のアイテム』だからなのかなって思ったけど、理由を聞くことはできなかった。
「う〜……わかんないよ」
ちょっと考え事をしてしまったせいでネクタイに集中してなかったみたいで。
イマイチよくわからなかった。
「ね、もう一回やって」
やってくれるわけないよなぁ……って思ったのに。
大きな手がシュルッとタイを解いて、もう一度同じ手順で結んでいく。
それから、もう一度、解かれて。
「ほら、自分でやってみろ」
耳元で響く声に体が反応しそうになった。
「……うん」
ネクタイの端を両手に1こずつ持って、思い出しながら結んでいく。
間違えそうになると中野の手がそれを直す。
そんな光景が信じられなくて、少しだけ心臓が痛くなったけれど。
一生懸命やったつもりだったのに、ドキドキしてたから上手く結べなくて。
やり方は合ってるはずなのに自分でやったらヨレヨレしてた。
「うーん……なぁんか、違う……」
がっかりしていたら、中野がもう一度ネクタイを解いて最初から結び直してくれた。
「後で練習しておけよ」
聞いたことのない優しい声が耳をくすぐる。
「うん」
まだドキドキしていたけど。
お礼を言おうと思って振り返ろうとしたら、中野の手が俺の髪を梳いた。
「……え……?」
視界の隅に少し辛そうな表情の中野が移ったけれど。
すっかり振り返った時はもういつもの仏頂面に戻ってて、そのまま俺を置いて部屋を出て行ってしまった。
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