しばらく呆然としてたから、あわてて靴を履いて出たのに中野には追いつけなかった。
公園の出口の辺りで、ちらっと後ろ姿が見えたけど。
今から走ってもダメそうだったからそのまま見送ってしまった。
「まあ、いっかぁ……」
約束の3時までにはまだまだ時間があったから、街をふらふらして時間をつぶした。
中野が優しくて、天気も良くて。
今日はいい日なのかもって思いながら歩いてたら、すっかり遠くまできてしまった。
「うわ、もうこんな時間?」
気がついたらお昼を過ぎてて、あわてて戻ってハンバーガーを食べた。
でも、制服だからなのか、たまにジロジロ見られたりして。
よく考えたら、高校生は昼真っからこんなところで遊んじゃいけないんだもんな。
それにしても。
「中野、なんか変だよなー……」
いつもなら、絶対にあんなことしないのに。
コンビニの前でお昼を食べながら、いろいろ考えた。
なんでかわからないけど、やっぱり魔法のアイテムなんだなって思いながら、ずっとネクタイを眺めてた。
「なんだぁ、マモ。つまらないな」
ドアを開けるなりちょっかいを出しにきた北川が、いきなり俺を羽交い締めした。
「なにが??」
じたばたしながら聞き返したら、北川はそのまま俺をフロアまで引きずっていった。
3時までにはまだ30分くらいあるのに、ソファにはもう何人か客が座ってた。
北川は俺を客の前に立たせてから、またニヤニヤした。
「マモ、ネクタイ、ちゃんと結べちゃったんだな」
それが「つまらない」ってどういうことなんだろう。
「結べない方がよかったわけー?」
それってただの意地悪じゃん。
結べないと分かってて俺に制服を渡したってことだもんな。
「ホントだな。上手に結べてるよ、マモルちゃん」
客にも褒めてもらったけど。
「ううん……できなかったから中野に結んでもらった」
そしたら、北川がニヤッと笑って俺の耳元でつぶやいた。
「魔法、効いただろ?」
そうなんだよな、って思って。
今朝の中野を思い浮かべながら正直に答えた。
「……うん」
なんでか分からないけど、ちょっと優しかった今朝の中野。
「ね、中野って制服が好きなの?」
本人には絶対こんなこと聞けないけど。
「ああ、その制服が好きなんだよ」
北川の答えはちょっと意味ありげだった。
「これだけ?」
「そう。それだけだ」
どこにでもありそうな普通の制服なのに。
そんなこと言われても、よけいにわからないよなぁ……
「なんでこれだけなの?」
「さあ? 中野に聞いてみろよ」
「そんなこと聞けるわけないじゃん」
北川は面白そうに俺の顔と制服を見比べていたけど。
「ま、あの中野がネクタイ結んでくれる程度には可愛かったってことだな。効き目バッチリだろ?」
「う〜ん、そうなのかなぁ……」
でも、ひとことも褒めてはくれなかったんだよな。
「あいつらと違って、マモはどこから見ても本物の高校生に見えるしな」
北川の視線の先は他のバイトのヤツら。
俺のとは違うけど、やっぱりどこかの学校の制服を着てた。
「今日って制服の日なの?」
これだけじゃなくて、なんかいつも変なことばっかりさせられるんだよな。
こういう店ってどこもそうなんだろうか。
それとも北川の趣味?
そう思ってたら、北川がニヤニヤ笑いながらネクタイを掴んだ。
「けど、せっかく可愛くネクタイ結んでやってもすぐに他の男に外されるんだからな。ご主人様としてはどういう心境なんだか」
またしても、ちょっと意地悪なんだけど。
「……今日って座って話してるだけじゃダメなの?」
ヤルなんて一言も言ってなかったのに。
「マモは気の利いた話ができるわけじゃないんだから、本番の手前くらいまではサービスしてやれよ。ほら、最初のお客様がお待ちかねだ」
ソファに座ってた客が俺の顔を見てにっこり笑った。
「けど、まだ時間になってないじゃん」
話をするだけなら楽しいけど、触られたりするのは好きじゃないんだけどな。
前はそれもあんまり気にならなかったけど、今はやっぱりヤダなって思う。
「いいから言うことを聞けよ。ネクタイは帰る時に俺が結び直してやるから」
本当はずっと中野が結んでくれたままでいたいけど。
「ううん。今度は自分でやる。中野に教わったから、大丈夫だもんね」
自信満々で言ったら北川に笑われて。
「まあ、いいから。早く行けって」
尻を叩かれて追いやられた。
「ちぇ」って思ったけど。
仕方がないから客のところに行った。
何人かと話したり飲んだりして。間にちょっと休んで夕飯を食べて。
あっという間に夜中になった。
どの客にも服を脱がされたりはしなかったけど、結局、最後の客にネクタイを外されてしまった。
「ね、キスマークはダメ。絶対、ダメ」
首筋に唇を当てられたから、めいっぱい抵抗した。
「どうして? 彼氏に怒られるのかな?」
優しい客だから、それでも笑ってたけど。
「……彼氏じゃないけど……でも、怒られるかもしれないし」
なんとなく声が小さくなる。
ホントは怒られたことなんてないんだけど。
前にキスマークをつけられた時、中野が抱いてくれなかったから。
俺が勝手に嫌だなって思ってるだけで。
「じゃあ、仕方ないね」
客はすぐに諦めてくれた。でも、何度もキスされて。
俺はその間も中野のことばっかり考えてた。
今朝の中野と、この制服と、北川の言葉と。
どんなに考えても中野がこの学校の制服を好きな理由なんてわからないんだけど。
そんなことでも考えてなければ、また自己嫌悪に陥りそうだったから。
「マモルちゃん、気持ちいい?」
ぼんやりしてると客がときどき話しかけてくる。
「うー……くすぐったいかも」
適当な返事をして、またキスをして。シャツの中に手を入れられて。
「んっ、ダメ……」
がんばって押し戻して。ちょっと悲しくなって。
「じゃあ、またね」と言ったときには本当に真夜中になってた。
客はそれでもまあまあご機嫌で、
「北川さんには内緒だよ?」
そう言って1万円札を差し出した。
「あ、でも、もらっちゃいけないって……」
「いいから、ね?」
ちゃんと断ったのに無理やりブレザーのポケットに押し込まれた。
「……ダメだと思うんだけどなぁ……」
けど、この金も北川からもらう金も大差ない。名前が『バイト代』なのか『チップ』なのかって、それだけのこと。
だったら、店の売り上げとして北川に渡せばいい。
「じゃあ、マモルちゃん、またね」
「うん、おやすみー」
金を受け取って客を見送った。
「オーナーどこ?」
客が見えなくなってから北川を探した。
「北川さん? 電話をかけるとかで事務室に行ったけど」
「ありがと」
事務室からは明かりが漏れてて、北川がいることがわかった。
「ねー、入ってもいい?」
ドアの外から叫んだら、「開いてるから入って来い」って言われた。
そっと中に入ると北川が買ったばっかりのソファに座ったまま俺を手招きした。
明らかにどこかに電話をかけてる最中で。
「……忙しかったら、あとでもいいけど」
ちょっと遠慮してそう言ってみたけど。北川は俺を抱き寄せて、電話の相手に聞こえるんじゃないかと思うほどキツいキスをしてきた。
「ヤリに来たんだろ?」
そんなわけないじゃん、って思ったけど。答えようにもそのときはまだ唇が塞がってた。
「んんんっ……じゃなくてねっ」
北川の体を押しのけながら客から金をもらったことを話した。
そしたら、またしても笑われて。
「わざわざそれを俺に報告しにきたのか?」
ちょっとバカにしてるっぽい口調だった。
「うん。だって、黙ってもらっちゃいけないよね?」
北川だって「そうだな」って言うと思ってたのに。
「相変わらずバカで可愛いよな、マモは。そんなもん黙って受け取っておけばいいんだよ」
ぜんぜん違うことを言われてちょっとショックだった。
「なんでそうなるわけ?」
文句を言ったけど、北川はさらっと聞き流して電話を耳に当てた。
どうやら、繋がったまま放っておいたらしい。
それって、かなり失礼だと思うんだけど、北川はぜんぜん平気なんだよな。
「話、それだけだから。俺、帰るね」
用は済んだし、さっさと店を出ようって思った。
今日は診療所に小宮のオヤジが泊まりに来る日だから、オヤジが起きてる時間にいけばきっと中に入れてもらえるし。
なのに。
「待て、マモ」
北川に呼び止められてしまった。
「なにー?」
つい嫌な顔をしたらまた笑われて。
しかも、無理やり俺を抱き寄せた挙句、携帯を俺の目の前にちらつかせながら変なことを聞いてきた。
「最近、変わったことはなかったか?」
唐突な質問にハテナマークが飛び散った。
「変わったこと??」
そんなの何にもないって思ったけど。
「……あ、あった……中野がちょっと優しかった」
思いついたことをそのまま言ったら、吹き出された。
それから散々笑ったあとで、電話に向かってこう言った。
「だとさ。もっといじめてやった方がいいんじゃないのか?」
それってもしかして。
「中野と話してんの??」
「発言には気をつけた方がいいぞ、マモ」
眉間にしわを寄せてる中野の顔が浮かんで、ちょっとあせった。
「うあああ〜、大失敗……」
でも、言っちゃったものは仕方ないし。
次に会ったら謝ればいいやって開き直って、さっさと診療所に逃げることにした。
北川が電話を切るのを待って、もう一度「じゃあね」って言ったけど。
またしても引き止められて。
「ちょっと座ってろ。中野が迎えに来るから」
「……え?……誰を?」
言われたことがわからなかったわけじゃないけど。
「マモに決まってるだろ」
また北川に思いっきりバカにされてしまった。
「なんでー?」
なんか約束してたっけ?
ううん。そんなことがあったら、俺、絶対忘れないよな。
「なんか用があるのかな?」
中野が俺に用事?
……絶対、なさそうだ。
「よほど制服が気に入ったんじゃないか?」
北川はそればっかり言うんだけど。
「そんなことないと思うけど」
でも、そうかもしれない。だって、中野が優しいの、今日だけだもんな。
「ほんとに来るの?」
「ああ、5分くらいかな」
時計の秒針がゆっくりと動いて、1周して。
「でも、ほんとに?」
また聞いて。
「ホントだって」
北川に何度「本当だ」と言われてもピンとこなくて。
「ホントかなぁ……」
俺がまだ信じていないうちに事務室のドアが開いて、不機嫌な顔の中野が立ってた。
「……ホントに来た……」
まだびっくりしてる俺に「帰るぞ」と言って、そのままさっさと部屋を出て行ってしまった。
「じゃあな、マモ。明日も制服着て来いよ」
北川に手を振ってから、走って中野のあとを追いかけた。
「ねー、中野、どうしたの? 何かあった?」
帰り道、ずっと聞いてたんだけど。
やっぱり中野は無愛想で何一つ答えてくれなかった。
マンションに着いて、部屋に入るまでずっと無言だったのに。
「これはどうした?」
ネクタイを掴んでいきなりそんなことを聞いた。
「どうしたって……自分で結びなおしたんだけど……だって、客が……」
まだ、それだけしか言ってないのに中野の眉間にしわが寄って。
ヤバイと思ったから、慌てていいわけをした。
「あ、でも、でもね。首にキスされたけど、キスマークはつけられてないし……」
首じゃないところにもキスはされたんだけど、そんなことまで説明している余裕はなかった。
いいわけのあとも中野は不機嫌な顔のままだったけど。
俺をベッドまで引きずっていって、ネクタイを解いて、シャツのボタンを外した。
「……ホントにつけられてないってば」
でも、あの時ちゃんと断ってよかったなって、まじめにホッとした。
「中野、あのさ」
なんで迎えに来てくれたの……って聞いても、きっと答えてくれないだろうから。
もう理由を聞くのはやめにしたけど。
「……ありがと」
迎えに来てくれたことも、こうして一緒にいてくれることも。
「俺、すごく嬉しいよ」
笑ってたはずなのに、中野の顔を見たら、また涙がたまってきて。
「泣いたら追い出すからな」
ため息交じりにそう言われたんだけど。
結局、泣いてしまって。
「……ったく、いい加減にしろよ」
中野に頭から布団をかけられてしまった。
いつの間に寝たのかも覚えてなくて。目を開けても意識はどこかかすんでいた。
ゆっくりと顔を動かしたら中野はもうスーツ姿で、すっかり出かけるところだった。
「うわ……俺も起きなきゃ……」
慌てて起き上がったけど、まだぼんやりしてて。
しばらくベッドに座ったままでいたら、毛布からはみ出してた俺の膝に冷たい物が降って来た。
「人は連れ込むな。来客があった時は物置に入ってろ。絶対に出てくるなよ」
見慣れた銀色の金属。
「……あ、うん、」
本物の、中野の部屋の鍵。
「……トイレ行きたくなったら?」
「そんなことまでいちいち確認するな」
「……うん」
その間、中野は俺の顔なんて一度も見なかった。不機嫌そうに薄いコートを羽織って、タバコに火をつけて、煙を吐き出して。
「中野、」
言ってもどうせ聞いてないんだけど。
でも。
「ありがと……大事にするよ」
俺の一番の宝物。
あ、中野の次だから、2番目。
あ、闇医者もいるから、3番目?
順番はつけられそうになかったけど。
でも、また泣きそうになるくらい嬉しかった。
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