すっかり掃除が終わったあとで、なんだか急に心配になった。
「中野、あの手紙、大事にしてるんだろうなぁ……」
書類の間に、とても大事そうに挟んでた。
「絶対、そうだよなぁ……」
だったら、早く謝った方がいい。
そう思って、店に行く途中で公衆電話から一度だけかけてみた。
呼び出しの音と自分の鼓動が耳の中で響いてなんだか息苦しくなったけど。
「……出ないじゃん」
残念なような、ほっとしたような、変な気持ちのまま受話器を置いた。
「やっぱり会った時にちゃんと謝ろう」
今日のバイトは朝までだから、夜は会えないとしても、朝には公園を通る中野に言えるはずだし。それに間に合わなかったとしても、中野が働いてるビルの前で待ってたら会えるはずだし。
「うん。それでいいよね」
そう決めて、首からかかってる鍵を握り締めた。
晴れた空と冬の匂いと、ひっきりなしに通る車の音と店から漏れる音楽。
全部がいつもと同じだけど、今日はなんとなく楽しかった。
歩くたびに首にかかってる鍵が揺れて、なんだかすごくいい気持ちだったから。
「制服、やっぱり魔法のアイテムだったんだなぁ……」
しかもすごい威力だし。
忘れないうちに北川にお礼を言わなくちゃって思ったけど。
「あ、その前に闇医者だ」
鍵をもらったことは真っ先に闇医者に報告しなくちゃと思った。
だって、一番心配してくれてるから。
それに。
俺の中では、家族扱いだから。
嬉しい気分のまま走って診療所のドアを開けた。
「闇医者いるー?」
待合室で小宮のオヤジを発見したから聞いてみたんだけど。
オヤジは黙って受付に貼られている紙を指差した。
『今週はお休みします』
闇医者の字じゃないから、オヤジが書いたんだろうけど。
「まだ帰ってこないの?」
それには一緒にお茶を飲んでいた患者モドキが答えてくれた。
「帰りは金曜か土曜って言ってたかな?」
「……なぁんだ」
どうしても聞いてもらいたかったから、本気でがっかりした。
「マモルちゃんもお茶してくかい?」
オヤジに誘われたけど。
「……ううん、今日はいい」
服でこっそり鍵を隠しながらそう答えた。
だって、鍵のことは一番に闇医者に報告しなきゃいけないんだから。
ここでお茶なんてして、うっかりしゃべったらダメだ。
「金曜なら、明日帰ってくるってことだよね?」
だったら、バイトが終わってから来ればいい。それくらいの間なら誰かに鍵を見つかったりはしないだろうし。午前中は闇医者も忙しいかもしれないけど、午後はそうでもないはずだし。
「でもなあ、せっかく札幌まで行ったんだから先生だって遊んでくるんじゃないのかあ? 遊ぶところいっぱいあるもんなあ、札幌は」
「そうそう。ススキノとかねえ」
そんなことを言いながらオヤジたちが笑うんだけど。
「この辺でだって遊ばないのに、他で遊んでくるわけないじゃん」
闇医者はお医者さんだから、酒だってあんまり飲まない。
診療所が終わった後はたまに本屋とかデパートに行くくらいで後はまっすぐ家に帰るって言ってたもんな。
「地元じゃ先生だってハメを外しづらいだろうからなあ。大人は遠くに行った時に遊んでくるもんなんだよ」
オヤジがすごくもっともらしく言うんだけど。それでも、やっぱり俺は首を傾げてしまう。
「そうかなぁ……」
他の人ならともかく、闇医者ならお土産だけ買ってすぐに帰るような気がするけど。
まあ、いいか。明日になれば分かることだし。
「マモルちゃん、この後はバイトかい?」
「うん。朝までずっと」
そう答えながら、ちょっとだけ憂うつになった。
店に出ることも前はぜんぜん気にならなかったけど、今日はなんとなく気が重い。
ただ、しゃべって酒を注いで、たまにはキスとかさせられるけど、でも、それだけなのに。
鍵を見てると、金なんて要らないから早く帰りたいって思ってしまう。
「だったら、昼寝しといた方がいいんじゃないかあ?」
自己嫌悪の一歩手前だったけど、オヤジのノンキな声に少し気持ちが軽くなった。
「じゃあ、ベッド借りてもいい?」
よけいなことなんて考えるのはやめて、とりあえず眠って元気を出そう。
せっかくいいことがあったんだから、バイトも頑張らないと。
そう思い込もうとしてたのに。
「マモルちゃん、もっと普通のバイトないんか?」
俺の考えてることが分かるみたいに、小宮のオヤジが痛いところを突いてきた。
ただでもらえるアルバイトの情報誌がコンビニの前に置いてあって、何度も見たことがあるけど、募集しているのは18歳以上ばっかりで、俺を雇ってくれそうなところはなかった。
「俺、お金ためないといけないから……」
できれば冬になる前にちゃんと自分で部屋を借りて。
たまには中野の家にも遊びに行ったりして、っていうのが俺の理想だから。
……そりゃあ、こんなバイトだから、「これでいいのかな」って思うことだってあるけど。
「とりあえず、寝るね」
オヤジに頭をなでられながら、ベッドのある部屋を開けてもらって、スリッパを脱いで毛布にもぐりこんだ。
暖かい部屋。
洗ったばかりのシーツの匂い。
「うー……気持ちいいかも……」
シャツの中にこっそり隠した中野の部屋の鍵を取り出して、握り締めた。
「おやすみー」
家を出てからもう何ヶ月も経つけど。
今日が一番幸せかもしれないと思った。
闇医者が帰ってきたら、なんて話そう。
中野が鍵をくれたこと。
仕事部屋にも入っていいって言ってくれたこと。
それから……―――あの手紙のこと。
いろいろ考えながら眠ったせいでいろんな夢を見た。
『マモルちゃん、よく寝てるなあ。あ、こら、起こしちゃダメだって』
誰かに話しかける小宮のオヤジの声がして。
『朝までバイトって言ってたから、今のうちに寝かせておいてあげなよ?』
それから、患者モドキの声がして。
なんだか夢じゃないみたいだなぁ……って思った。
『マモルちゃん、なに握って寝てるんかなあ?』
聞こえてくるオヤジの声は少しだけ笑ってた。
だから。
―――これ、中野にもらったんだ……
夢の中でそう答えて、きらきら光る鍵を見せた。
その時、どこかで嗅いだ匂いが立ちこめて。
めまいに似た感覚と一緒に深く堕ちていった。
布団をかぶって寝てたはずなのに、起きた時に小宮のオヤジに笑われた。
「マモルちゃん、楽しい夢見てたみたいだなあ。ニコニコしてたぞ?」
鍵をもらったのが嬉しかったから、寝てるのに顔に出てしまったんだ。
「どんな夢か忘れちゃったよ」
本当に覚えてなかったけど。でも、いい夢だった気がした。
「それよりマモルちゃん、なに大事に握ってるんだい?」
「え? これ……は、えっと」
うっかり教えてしまいそうになったけど。
でも、闇医者に一番最初に言うんだから。
「あのさ……えっと……闇医者が帰ってきたら話すね」
隠し事なんて悪いかなって思ったけど、小宮のオヤジも患者モドキもただニコニコ笑って頷いただけだった。
「じゃあ、俺、もう行くから」
慌てて鍵をシャツの中に隠して、玄関まで走った。それから、靴を突っかけて診療所を出た。
大通りに向かう途中で、ビルの陰に置いてある花が萎れているのが目に留まった。
「寒いから、すぐ枯れちゃうのかなぁ……」
でも、今まではいつだってキレイに咲いてて、枯れてることなんてなかったのに。
どうすればいいのか分からなかったけど、とりあえず診療所に戻って水を替えてみた。
けど、少し動かしたら花びらがパラパラと落ちてしまって。
「もうダメっぽいなぁ……」
いくらかマシな2本だけをビンに戻して、もとの場所に置いた。
「いつも花を替えてくれる人、最近忘れちゃってるのかなぁ……」
そう思ったら、なんとなく寂しい気分になった。
日が落ちるのが早いから、まだ夕方なのにすごく寒くて、走って店に行った。
まだ開店時間になってなかったんだけど。
「うわぁ、なんで?」
ドアを開けたら、いきなり客がいて驚いた。
その日がバイト仲間の誕生日らしくて、ケーキとプレゼントまで置いてあった。
「マモルちゃん、誕生日はいつなの? お祝いしてもらった?」
いつも来るお客さんに聞かれたけど。
「ううん。もう過ぎたけど、その時はちょうどバイトしてなかったし」
そう説明しながら、そう言えば今年は中野に祝ってもらったんだって思って、ちょっといい気分になった。
「……えへへ」
なんとなく笑ってたら、ぐりぐり撫で回されて。
「マモルちゃん、ご機嫌だね。何かいいことでもあった?」
話してごらんって言われたけど。
「ないしょ」
闇医者に話すまでは誰にも言わないって決めて、小宮のオヤジにだって話さなかったんだから。
「なんだか怪しいなぁ。彼氏でもできたか?」
そんなふうに冷やかされて、ちょっと困ったけど。
後ろでハッピーバースデーを歌ってたから、ごまかすために俺もそこに交じった。
歌い終わったら、クラッカーを鳴らして。店はいつになく賑やかだった。
「世間はもうクリスマスシーズンだしな。店もこれくらい盛り上がっておかないと」
そんなことを言いながら北川がケーキのろうそくを消すように促した。
「いいなぁ、まるいケーキ……」
ろうそくを吹き消して、乾杯するのをちょっと離れたところから見てたら。
「ケーキが好きなら、マモルちゃんも来年はお祝いしてもらいなよ」
お客さんに笑われた。
「うん」
一応、頷いたけど。
本当は、来年もまた中野に祝ってもらいたいなって思った。
「ねー、なんでケーキ食べないの?」
しばらくしても誰もケーキを食べないから、まるいまま家に持って帰るのかなって思ったけど。
「僕、甘い物、あんまり得意じゃないんだ」
誕生日のヤツがそんなことを言って、他のお客さんもみんな一口くらいしか食べなくて。
「ねー、俺も食べていいの?」
ちょっとだけ聞いてみたら、一番大きな三角を皿にのせてくれた。
「これで夕飯食べなくていいかも」
ラッキーと思いながらぱくぱく食べていたら、北川に頭をペチンとひっぱたかれた。
「マモ、食べてもいいけど仕事は忘れるなよ。ほら、おしぼり持ってきて、その辺拭いて、灰皿換えて」
もぐもぐしたままで席を立ったら、こんどは尻をひっぱたかれたけど。
「まあまあ、オーナー。いいじゃないの、それくらい。でも、マモルちゃん、口は拭いた方がいいよ」
お客さんが味方してくれたから、それ以上は怒られなかった。
口にケーキを押し込んでから、空いたテーブルをせっせと片付けた。
でも、その途中で、いきなりエイジに声をかけられた。
「ねえ、マモル君」
にっこり笑って話しかけるんだけど、やっぱりなんとなく好きになれない。
「なに?」
返事もちょっとだけ冷たくなる。
「中野さんの彼氏のこと知ってるかな?」
しかも、また中野のことだし。
「なんでそんなこと聞くんだよ?」
ちょっとムッとしながら返したら、くすっと笑われた。
「中野さんのカレシ? みんな知ってるんじゃない? 有名だしな」
口を挟んだのは、たまに小宮のオヤジと診療所の待合室で飲んでいる患者モドキだった。
「福原さん、彼がどこで働いてるか知ってます?」
でも、患者モドキは首を振った。
「小宮さんなら知ってるかもしれないけどな……マモル君、知ってるか?」
聞かれたけど、「知らない」って答えた。
本当はあのビルの前で『とびきりの美人』って思いながら探したら、一発でみつかるんだけど。
でも、それは内緒にしておいた。
「じゃあ、中野さんが、彼のことなんて呼んでるか知ってる?」
今度はそんな質問で、俺はやっぱりちょっとムッとした。
何度も聞いたから、もちろんそれだって知ってたけど。
「……知らない」
しっかりと嘘をついた。
それを聞いた北川がニヤニヤしながらこっちを見てたけど。
「オーナーは知ってるんですか?」
エイジの質問に「さあな」と答えてから付け足した。
「でも、あのカワイ子ちゃんとはもう別れたんだろ?」
俺に向かって聞くんだけど。
そんなこと俺が答えていいのか分かんないし。
「……よくわかんないけど……そんな感じかも」
小さな声でいい加減な返事をした。
「でもさ、さっきから、なんでそんなことばっかり聞くわけ?」
それ以上いろいろ聞かれたくなかったから、逆に質問し返してみたんだけど。
エイジは相変わらず笑ってた。
「中野さんのカレシならマモル君だって気になるでしょう? 何度か会ったこともあるけど、すっごく美形なんだよね」
そりゃあ、気になってたし、エイジなんてぜんぜん敵わないくらいキレイだけど。
「ちょっとその辺にはいないくらい美人だよな」
北川がオヤジ笑いで頷いて。
それを聞いた患者モドキがいらないことを言った。
「中野さん、面食いだから。でも、エイジ君ならイケるんじゃないか?」
「だといいんですけど」
そんなことを言いながらも自信ありげに笑うから、俺はあえてそっちを見ないようにした。
でも、エイジはわざわざ俺の顔を覗き込んで、
「でも、別れちゃったなら、もう中野さんのマンションには来ないんだよね?」
なんだか意味ありげにそんなことを言った。
「そんなこと知らないよ」
少し嫌な気分になって投げやりに返事をしたけど。
「じゃあ、もう一回乾杯!」なんて声が後ろから響いてきて。
だから、そんなことはすぐに忘れてしまった。
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