Tomorrow is Another Day
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「ね、中野ってば……」
何度目かに呼んだとき、中野はようやく面倒くさそうに口を開いた。
「……いつまでもボーッと突っ立ってるんじゃねえよ」
ポツポツと降り始めた雨。
でも、中野はそんなことぜんぜん気にしてなさそうな様子で大通りの方に歩き出した。
そういえば、もう仕事の時間なんだなって思って。
「いってらっしゃい」
小さな声でつぶやいて、ちょっとだけ手を振った。
中野はいつもとおんなじで、そんな言葉に振り返ったりはしなかったけど。
ほんの一瞬だけ足を止めた。
でも、すぐにコートを翻してビルの角を曲がってしまった。


待合室に戻って、オヤジにお茶を入れてもらって。
その時、やっと思い出した。
「あー、中野に……」
手紙のこと、謝ろうと思ってたのに。
花に気をとられていて、一番大事なことを忘れてしまった。
「マモルちゃん、ヨシくんになんか用だったんかい?」
小宮のオヤジがお茶をすすりながら俺の顔を覗き込んだ。
「用っていうか……うわっ」
テレビをつけたら、耳が痛くなるほど音が大きくて。
だから、こそっとつぶやいた俺の声は消されてしまった。
「なんだあ、びっくりしたなあ……角の店の旦那が見てたんか? 耳、遠いからなあ」
小宮のオヤジののんきな声に患者モドキが笑って、
「小宮さんも一緒に見てたじゃない?」
そんなことを言ったけど。
そのすぐ後で、ちょっと首をかしげた。
「そういえば、中野さん、何しに来たんだろうな?」
てっきり患者モドキに用があったんだって思ってたのに、どうやらそれは違ったらしくて。
「ヨシくんかあ? 別になんにも言ってなかったなあ」
小宮のオヤジも一緒に首を傾げた。
「じゃあ、先生に用だったんじゃないのか?」
患者モドキがそんな話をしたら、ちょうどドアが開いて。
「おはようございます」
闇医者が笑顔で入ってきた。
「すみません、すっかり遅くなっちゃ……」
でも、なぜかそこで固まってしまった。
「どうしたのー?」
俺が聞いてもまだちょっと呆然としてる感じだったんだけど。
「……え、ああ……こんなに朝早くからマモル君がいると思わなくて、ちょっと驚いちゃったな……」
そんな返事と一緒に慌てて靴を脱いだ。
でも、そのあとも闇医者はなんとなく変で、ずっと俺のことを見てたから。
「うー……やっぱ、制服、似合わないかなぁ?」
きっとそうなんだろうって思って聞いたんだけど、闇医者は慌てて首を振った。
「そんなことないよ。とってもよく似合ってる」
じゃあ、なんでそんなに見るんだろうって思ったけど。
それについては何にも言ってくれなかった。
「でも、マモル君が着てると元気一杯って感じだね」
そう言いながら、俺の隣に座って、襟を直して髪を梳いてくれた。
「それって変なの?」
高校生ならそれがフツウって気がしたんだけど。
俺の疑問には患者モドキが答えてくれた。
「マモル君が着てるの、おぼっちゃま学校のだからな。世間的にはもっと大人しそうなイメージなんだよ」
さすがに北川の店の常連だけあって、患者モドキは変なことに詳しかった。
「……ふうん」
だって、普通は制服だけ見ても、どこの学校なんてわかんないよな?
なのに、ちゃんと分かるってすごくない?
でも、そんなに詳しいならついでに……と思って、気になっていたことを聞いてみた。
「ね、中野、この制服が好きらしいんだけど、なんでだと思う?」
制服の色もデザインも、確かにまあまあいい感じなんだけど。
でも、それが理由じゃないと思うんだよな。
「おぼっちゃま学校が好きなのかなぁ?」
だとしたら、俺、ますますダメっぽいけど。
アイツなら合格だよなぁ……品もいいし、育ちもいいに違いない。
ため息をつきそうになったら、小宮のオヤジが口を挟んだ。
「前に付き合ってたベッピンさんはその学校に行ってたんかい?」
患者モドキは「どうかな」って答えたけど。
「そういえば、最初にここへ来た時はそんな感じの制服を着てたかな。でも、胸ポケットに校章が入ってるブレザーでしたけど」
受付にかけてあった白衣を取りながら、闇医者が答えた。
「ああ、あそこね。名門私立高校だな。エリート君なんだねえ」
ポケットに学校マークが入ってるだけでどこってわかるのも信じられないけど。
大事なのはアイツの高校の制服と似てるかどうかなわけで。
「ねー、そこの制服と似てるの?」
真剣に聞いたら、患者モドキもわざと真剣な顔を作って返事をしてくれた。
「ああ、ブレザーもズボンもネクタイも同じ色だな。シャツがちょっとだけ違うし、ポケットに校章が刺繍されてるけど、それくらいしか違わないよ」
やっぱり、って感じだけど。
「……ふうん。そっか」
ちゃんと理由がわかってスッキリした。
でも、俺が納得した後も、まだ昔話は続いていて。
「彼氏が制服着てるところなんて見たことなかったけどなあ?」
小宮のオヤジも普段はぼーっとしてるくせに、こういうことは覚えてるんだなって感心したけど。
「そうですね。最初の一回きりでした」
闇医者もなんでそんな「一回きり」なんて断言できるんだろう。
俺ならすぐに忘れちゃうけど。
やっぱ、頭の問題?
「なー、なんでそんなことまでちゃんと覚えてるの?」
オヤジと闇医者がちらっと顔を見合わせたけど。
「さあ、なんでかなあ?」
「なんでだろうね」
二人とも同時におんなじような返事をしただけだった。
「それよりも、ね。マモル君、これ、お土産」
紙袋から出して手渡された四角い箱。
「バターサンドなんだけど、好きかな?」
って聞かれたけど。
「バターサンドってなに?」
どんなものなのかもさっぱり分からなかった。
名前から考えると食パンにバターが塗ってあって2枚重なってる感じだけど。
箱を開けたら銀色の紙に包まれたお菓子だった。
「ね、今食べていいの?」
朝ごはんも食べてないし、ちょうどいいかなって思ったんだけど。
「マモル君、ご飯食べてないんでしょう?」
闇医者はすっかりお見通しで。ついでに。
「昨日の夕飯は食べたの?」
そんなことまで聞かれて。
「食べたよ。一番大きいケーキもらったんだ」
俺は自信満々に答えたんだけど。
「それはね、晩ご飯にはならないんだよ?」
ちょっとキビシイ口調で言い返されてしまった。
「えー……? だってさー……」
言い訳を考えたけど何にも思いつかなくて、そのまま黙り込んでいたら。
「そんなことしてるからちっとも大きくならないんだよ?」
また怒られて。
しかも。
「あさって、健康診断するからね。前の日はお酒も夜更かしもダメだよ。あと、夜から糖分の入った飲み物もダメ。バイトはお休みだから、大丈夫だよね?」
いきなりいろいろ言われて。
「えー?」
別にイヤとかそういうんじゃなかったんだけど。
「でも、なんで健康診断なんてするのー?」
どこも悪くなんかないのに。
「健康な人でも1年に1回くらいはしないとね。それに、」
そのあと闇医者はくすっと笑って。
「……中野さんが心配してたから」
そっと俺の髪を撫でた。
「マモル君、中野さんに心配させるようなこと言わなかった?」
そう言われても、思い当たるようなことは何もなかった。
「別に、なんにも」
考えながら首を振ったけど、闇医者はまだ笑ってた。
「なら、いいんだけどね」
たとえ何か言ったんだったとしても、中野は俺の言うことなんてちっとも聞いてないんだけどな。
「中野が何か言ってたの?」
そりゃあ、中野が心配してくれたんだったらいいなって思うけど。
闇医者はまた「ふふっ」て笑って、「中野さんに聞いてごらん」って言っただけだった。
でも、「俺のこと心配してくれたの?」なんて聞けるわけないよなぁ……。
「とりあえず、マモル君。お買い物してきてもらえるかな?」
闇医者が白衣のポケットからメモ用紙とペンを取り出して、買ってくるものを書いてくれた。
「うん、コーヒーと、お砂糖と……」
メモを確認しながらコンビニに走っていって。
「それと、『マモル君の朝ごはん』……って俺が食べたいものを買えばいいのかなぁ?」
よくわからなかったけど、とりあえず闇医者が『合格』って言ってくれそうなお弁当を買って帰った。
「ただいまー。あれ、まだ誰も来てないの?」
いつもなら、近所のじーちゃんたちがお茶を飲みにくる時間なんだけど。
「今週一杯お休みって言ってあるからね」
いるのはやっぱりオヤジと患者モドキだけで。
今日はなんだかのんびりできそうだった。
闇医者に頼まれて買ってきたコーヒーを入れて、みんなに配って。
自分の分のお茶を入れてから長椅子に座った。
「いただきまーす」
一人でお弁当をパクパク食べてたら、患者モドキが大事なことを思い出したみたいに「ああ、そうだ」って言って。
「小宮さん、中野さんのモトカレ、なんて名前か知ってる?」
突然そんなことを聞いた。
「なんだっけなあ? マモルちゃん、知ってるんだろ?」
年のせいで記憶力がね、とか言いながら俺に聞くんだけど。
「あれえ? 夕べは知らないって言ってたよな?」
おかげで嘘をついたのがバレてしまった。
「……うん……ホントは知ってるんだ。アイツの名前で呼ばれたこともあるし……」
今だって、中野がぼんやりしてる時ならアイツの名前で呼ばれそうな感じだし。
「そうなんか? ヨシくんの彼氏、マモルちゃんの名前と似てるんかな?」
小宮のオヤジが気を遣ってくれるんだけど。
なんか、よけいに悲しくなった。
「……ううん、ぜんぜん……一文字も合ってない」
強いて言えば、ひらがなで書いたら3文字ってことが同じだけど。
でも、それだけ。
俺と居ても。
他の誰かと居ても。
中野にとっては全部同じ。
いつだって、アイツしかいないんだから。
きっと今だってそうなんだから。
「そうか。まあ、そんなこともあるかもな……で、ゆうべはエイジ君に教えたくなかったからウソついたんだな?」
患者モドキもちょっとだけ慰めてくれて。
だから、頑張って普通に返事をした。
「うん……嘘なんて、いけないとは思ったんだけどさ……」
でも、それは仕方ないって思ったから。
「珍しいなぁ、マモルちゃんが嘘つくなんて。エイジ君のこと嫌いなんか?」
正直に話すことよりも、もっとずっと大事なことなんだって思ったから。
「エイジのことはあんまり好きじゃないけど……でも、教えなかったのはそれが理由じゃなくて……」
だって、中野が。
あんな優しい声で名前を呼ぶんだから。
「で、その彼、何て名前なんだ?」
患者モドキに聞かれても。
「……教えない」
ぜったいにダメなんだから。
「なんで? 中野さんに怒られるか?」
「怒るかどうかわかんないけど」
怒られなかったとしても、誰にも教えない。
「じゃあ、どうしてだ?」
絶対、誰にも。
「だって、中野があんなに大事にしてたんだから」
誰の手も届かないところに。
誰の目にも触れない所に。
中野が大事にしまってきたものなんだから。
俺が勝手に教えたりするのはいけないはず。
小宮のオヤジも患者モドキもしばらく顔を見合わせたまま黙ってたけど。
「……そう。じゃあ、無理に聞いちゃダメだね」
闇医者が患者モドキと小宮のオヤジにそう言って。
にっこり笑いながら、買ってきたお菓子をお皿に入れた。
「ありがと、闇医者」
いつだってちゃんと味方してくれるから。
本当は嘘をついた俺の味方なんてしてくれなくてもいいって思うけど。
「いいんだよ。僕もマモル君が正しいって思うからね」
そんなことを言った後で、ちょっとだけ付け足した。
「でも、もうあの子とは別れちゃったしね……今はマモルくんのことが一番だと思うよ」
闇医者はにっこり笑って嘘をついた。
俺でも簡単に嘘だって分かるような嘘。
「そんなわけないじゃん。だって、俺、一度も名前呼ばれたことないんだよ」
初めて会ってから何ヶ月も経つのに。
名前を呼ぶどころか、めったに返事だってしてくれない。
俺が何度呼んでも。
何を話しても。
どんなに近くにいても。
中野は俺のことなんてぜんぜん見てなくて。
思い出したら、ちょっと悲しくなりそうだったけど。
「まあ、ヨシくんだからなあ。呼ばれたことのある人なんてあんまりいないんじゃないかい?」
今度は小宮のオヤジが慰めてくれて。
確かに中野は闇医者のことだってめったに呼ばないけど。
「でもさー……」
一度くらい、呼んで欲しいなって思うのに。
「きっと照れくさいんだよ。大丈夫、そのうちに呼んでくれるから。ね?」
「……うん」
いつかそんな日が来ればいいなって思いながら、少しだけ頷いた。



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