髪を乾かしてからベッドに行ったら、中野はやっぱり新聞を読んでたけど。
ごそごそ布団にもぐりこんだら、いきなり抱き寄せられた。
首筋に唇が触れて、ピクンと身体が跳ねた。
上だけなんにも着てない中野の熱が俺の薄いTシャツ越しに伝わってきて。
「……中……野……」
まだ準備もできていないくせに身体がその先を求めてしまう。
なのに、中野は俺の服を脱がせることもなく、ただ、唇を首筋や頬や耳たぶに押し当てるだけで。
「……祖父母はどうした?」
そう聞かれたけど。
耳のラインをなぞる舌先を感じて、まともに頭も働かなくて。
「……も……いない」
「死んだのか?」
まだ俺を抱き締めたまま。
なんでそんなことを聞くんだろう。
「母さんも母子家庭だから……ばーちゃんしかいなくて、でも、俺が小学校のときに死んだ」
できれば、こんな場所で思い出したくないことなのに。
「父親の両親は?」
中野の声はいつもと変わらず、無感情だったけど。
「……いない……っていうか、父さん、最初から、いない」
その返事に、一瞬、中野の手が止まって。
ぼんやりと視線を上げたら、目が合って。
「……俺、母さんだけの子だから」
母さんが俺にいつも言っていた通り、中野に説明した。
『護は母さんだけの子だから、父さんはいないのよ』
にっこり笑って言うくせに、そのあとでいつも『ごめんね』と言っていた。
謝ることなんてないのに、っていつも思ってた。
そんなことまで思い出してしまって、それ以上の説明ができなくなって。
しばらくの沈黙の後。
「……なんでそんなこと……聞くの……?」
問い返したら、中野はそのまま俺の体から離れて、サイドテーブルに置いてあったタバコを取った。
中野の広い背中と。
シュポッという心地よい音。
それから、嗅ぎなれたタバコの匂いが広がって、煙が立ちこめる。
中野はいつもと同じように窓の外に目をやった。
また、一人きりになるんだな……って思ったけど。
「親戚は? 母親に兄弟はいないのか?」
話はまだ続いていて。
どこかに押し込んで忘れようとしていたものをまた引きずり出さなくてはならなかった。
「……おじさんが……いた」
記憶の彼方。
どんなに探しても良い思い出のない相手。
「住所は?」
「……わかんない。あんまり行ったことないし……電車で4つ目くらいだったと思うけど」
おじさんの奥さんが母さんのことを嫌ってるから付き合わないようにしてるって、ばーちゃんが言ってたことも思い出した。
中野にどこまで話せばいいのかわからなくて、また沈黙が流れる。
普段は思い出さないようなことが次々に出てきて、苦しくなってギュッと目を瞑った。
あとは何を説明すればいいんだろう。
そう思っている間に中野からはもう結論が降ってきた。
「親戚がいるなら、さっさと帰るんだな。世間体があるから、親戚のガキ一人くらいはどうにかしてくれるだろ」
母さんが死んだあと、現れたおじさんとおばさんは俺に一度だって笑いかけることもなくて。
子供が小さいからとか。お金がないからとか。
そんな言葉を聞くのがイヤで、その翌日に家を出た。
歓迎などされていないことは分かっていたから。
「うん……でもさ、」
本当は、『ずっとここにいたい』って言いたかった。
でも、やっぱりそんなこと言えるはずなくて。
「……中野は……俺がいるとジャマなんだ……」
独り言のようにそっとつぶやいてみた。
どうせ俺の話なんて聞いてないんだから。
こんな質問にだって答えるはずない。
そう思っていたのに。
「ああ」
振り返ることもないまま、短い返事だけが戻ってきた。
押しつぶされそうな気持ちで、首からかけていた鍵を握り締めて。
「……そ……っか……」
やっと、それだけ言って、目を閉じた。
店にいたときはあくびばっかりしてたのに、また眠れなくなった。
寝転んだまま新聞を広げた中野は、きっともう俺が隣りにいることさえ忘れてしまっているだろう。
ため息をついても、寝返りを打っても、ほんの少しも俺の方なんて見なかった。
鼻先まで毛布を引き上げて天井を見つめると、柔らかい光の中にタバコの煙が揺れていた。
ジャマだったら、鍵なんて渡さなければいいのに……――――
そんなことを考え始めたときに、ふと闇医者の顔が浮かんで。
「……あ……そっか……」
鍵のこと、本当は闇医者が中野に頼んでくれたんだ……って思った。
俺が公園で寝なくていいように心配で電話までしてくれた闇医者だから。
「……そうだよな……」
じゃなかったら、中野が俺に鍵なんてくれるわけない。
いくらアイツと同じような制服を着てみたって、中身は俺で。
中野が大切にしてるアイツじゃないんだから……
そう思ったら、鍵をもらった時の楽しい気持ちはすっかり粉々になった。
……俺、バカだよな……
小さくため息をついたら、中野がチラリとこっちを見た。
「早く寝ろ。ガキが起きてる時間じゃねえんだよ」
こんな言葉だって、楽しい気持ちの時なら『心配してくれてるのかも』って喜べたのに。
今は、もう全部がマイナスになるだけで。
「……起きてるだけで、ぜんぜん話しかけなくてもジャマなの……?」
こんなことで拗ねたって仕方ないのに。
悪いのは中野じゃないのに。
中野に当たって、その上、また「ああ」って言われたら、きっと辛くてここにいられなくなる。
だから、中野から返事が返ってくる前に自分で取り消した。
「……うそ。ごめんね……変なこと聞いて……」
こんな気分を忘れてしまうために。
まだ、中野がこっちを見ているうちに他の話をしようと思って。
「……ね、中野」
答えてくれそうな質問をいくつもいくつも考えながら。
やっと話しかけたのに。
中野はもうとっくに新聞に視線を戻していて、俺の方なんて見てなかった。
いつだって見てないのは同じなのに。
今日に限ってなんでこんなに悲しいんだろう。
鍵なんてもらわなければ、期待だってしなかったのに。
そしたら、今までと同じようにガマンできたはずなのに。
「……新聞、面白いの……?」
それでも、どこか遠くを見ている時よりもずっといいいよな、って、自分でフォローなんかしながら。
中野から言葉が欲しくて気の利かない質問を続ける。
「ね、もうちょっとだけ、そっちに行ってもいい?」
広すぎるベッドの端と端。
だから、あと10センチくらいなら近くにいっても怒られないかなって思ったのに。
中野はずっと無言で。
静かな部屋には目覚まし時計の針が動く音と、ときどきパラリとめくられる新聞の音だけ。
俺の声なんて少しも聞こえなかったみたいに、中野の横顔はぜんぜん変わらなかった。
「ね、聞いてる?」
もうちょっと頑張れば、もしかしたら何か答えてくれるかもしれないって思ったけど。
「……ね……」
本当に、ほんのちょっとだけ近くに行けたらよかっただけなのに。
ずっとずっと何の返事もなかった。
答えてくれないのがいつもの中野で。
だから、こんなのぜんぜん平気なはずなのに。
「……イヤなら、別に……いいもんね……」
やっぱり悲しくなってしまって、中野に背を向けた。
俺じゃなくて。
アイツが言ったなら。
中野は聞こえない振りなんてしないで、「ああ」って言って抱きしめてあげたんだろう。
そう思ったら、ギュッと胸がつまって。
涙が出そうになって。
あわててズルズルと毛布を引っ張り上げて、頭まですっぽり埋もれてみた。
涙はこぼれてしまったけど、中野には見えなかったはずだから。
鬱陶しいなんて言われないよな……って思ってたのに。
ガサガサと新聞をたたむ音がして。
それから、視界がパッと明るくなった。
目を開けたら、毛布がなくなってて。
「いちいち泣くんじゃねえよ。ったく……」
俺の腕を掴んだ中野は、思いっきり不機嫌な口調だったけれど。
でも、なんだかちょっと困った顔をしてた。
そのまま腕を引っ張られたけど。
「……ムリしなくていいよ」
聞こえないフリなんてするくらいだから。
本当はイヤなんだろうって思って、できるだけ普通にそう言ったつもりだったのに。
でも、その間も涙はポロポロこぼれてて。
また、中野のうんざりしたようなため息が聞こえた。
「……ホントに、いいってば……」
グズグズ泣きながら中野の手を振り払おうとしたけど。
腕はしっかりと掴まれていて、押し返そうとしてもびくともしなかった。
掴まれてる手をはがすのを諦めて毛布だけ奪い返したときも、中野はやっぱり何も言わなかったけれど。
面倒くさそうに片手で俺を抱き寄せて。
それから、また新聞を広げて。
「……中……野……」
本当にムリなんてしなくていいよ、って。
もう一度言おうとしたんだけど。
「話かけるんじゃねえよ」
続きは不機嫌な声に止められてしまった。
「……うん」
また、時計の音と、新聞の音だけになって。
腕枕って普通の枕よりもずっと高いんだな、とか。
近くにいるとボディーシャンプーの匂いがするんだな、とか。
一人でそんなことを考えた。
「……あったかいかも……」
嬉しかったから。
すごくすごく小さな声で、ホントにこっそりつぶやいただけなのに。
「しゃべるなと言っただろ」
頭の上から、怒られてしまった。
「……今のはひとりごとだもんね」
本当に話しかけるつもりじゃなかったんだから、って思って。
ちょっとだけ言い訳をしながら顔を上げたら、中野が呆れたようにこっちを見てた。
だから、俺もじっと見つめ返してみたけれど。
中野はそのあと、何も言わずに新聞に視線を投げた。
だから。
「……ありがと」
自分でも聞き取れないくらい、そっとつぶやいて。
それからギュッと中野にしがみついた。
今だけでいいから。
怒られてもいいから。
あと1秒だけでもいいから。
このままでいさせて……って神様にお願いしながら。
でも。
本当はずっとずっと離れたくないって思いながら……――――
ドキドキしながら、反応を待ったけど。
中野は怒ることも、呆れてため息をつくことも、俺を放り出すこともしないで。
「……いいから、早く寝ろ」
ただ、そう言って新聞をめくった。
「……うん」
淡いクリーム色の光と、中野の体温。
新聞の乾いた音と窓の夜景。
このまま、ずっと。
朝まで眠らずにいようって思ったのに。
暖かくて、心地よくて。
いつから夢に変わったのかさえ、覚えてなかった。
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