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 「じゃ、お疲れさま」
 片づけが終わったあと、着替える必要のなかった俺は他の人よりも先に裏口へ向かった。
 バイトはあんまり店の正面ドアから出入りするなって言われてるから。
 でも、裏口のドアを開けた瞬間、顔に雨が当たって。
 「そっか。雨降るって言ってたんだ」
 走って帰れば大丈夫かなって思ってダッシュの準備をしたけど。
 今日に限って裏口には3台も車が停まっていて間をすり抜けている間に濡れてしまいそうだった。
 シルバーのは北川の車。
 あと2台は客が置いていったヤツだと思うけど。
 1台なんてナンバープレートが都内じゃないし。しかも、その真っ黒な車は細い道を塞ぐよう停まっていた
 「あれじゃ、裏通りへは出られないじゃん。表から帰っちゃおうかな」
 ぶちぶち文句を言ってる間に、急に思い出した。
 「……そっか。中野の地図通りに帰るためには表のドアから出ないとダメだったんだっけ」
 いつもの道順の方が早く中野んちに着くんだけど。
 「でも、中野と約束したんだもんな」
 慌てて引き返して、北川に事情を話した。
 「だからね、表のドアから出てもいい?」
 ダメって言われても困るよなって思ってたら。
 「中野が? そんな状況なのか?」
 北川にしては珍しくシリアスっぽい顔になってて。
 でも、俺にはどういう意味なのかぜんぜん分からなかった。
 「なにが?」
 とりあえず聞いてみたけど。
 「まあ、マモは知らなくていいことだな。さっさと出ろよ。すぐに鍵閉めるからな」
 北川はあいまいに笑っただけで、答えてくれそうになかった。
 「うん」
 まあ、いいや。別に北川に聞かなくても、帰ってから中野に聞けばいいもんな。
 どうせ中野に話すことなんてすぐに思いつかなくなるから、そのときのためにこの話は取っておくことにした。
 「じゃあね、おやすみー」
 北川に手を振って、店を出た。
 雨はさっきよりも小降りになってた。
 降ったり止んだりらしくて、道路もびちゃびちゃには濡れてなかったけど。
 でも、ものすごく寒かったから、表通りまで一気に走った。
 今日は早く店が終わる日で、そんなに遅い時間じゃなかったから、表通りにはまだ傘を差した普通のサラリーマンもたくさん歩いてた。
 「なんか、にぎやかで楽しいかも」
 いつもは近道をして帰るから、こっちはあんまり通らないけど、車しか通らない道を帰るよりずっといい感じだった。
 だからと言ってのんびり歩いてたらマンションに着くまでにすっかり濡れそうだったけど、なんとなく楽しい気分で帰れそうだった。
 「ここを曲がって、次の信号を渡って」
 マンションまで残りあと半分の距離ってろころで、走るのに疲れてしまった。
 「スキップにしようかなぁ?」
 一度立ち止まって、ついでに一休みしながら振り返ったら、ずっと後ろの方で車が静かに止まるのが見えた。
 俺が歩いてるのと反対側だったし、まだ遠くだったし、しかも暗くてよくはわからなかったけど。
 「……あれって、店の裏口にあったヤツかも」
 考えながら、またちょっと歩いて。
 けど、やっぱり気になってまたクルッて振り向いたら。
 さっきの車がすぐ近くまで来てた。
 車なんだから俺のことなんてすぐに追い越すだろうと思ったのに。
 見ていたら、また止まった。
 「……なんか、やな感じ」
 ナンバープレートを確認したら、やっぱり店の裏に停まってたヤツで。
 「今は反対側だからいいけど、信号渡ったら、車のいる側だもんな。俺のすぐ後ろで停まったりしたらどうしよう」
 さすがにちょっと心配になった。
 でも、俺が渡る信号はもう目の前。
 わざとゆっくり歩いてみたら、なんとか赤になったけど。
 「でも、渡らなきゃ帰れないしな」
 中野に電話したかったけど、この辺に公衆電話はない。
 ダッシュしたら大丈夫かなって思いながら、信号を見つめてた。
 「でも、なんか変だもんな、あの車」
 けっこう近くまで来てるのに乗っている人もよく見えない。
 たぶん、服も黒なんだ。
 「やだなぁ……」
 もうすぐ青になる。
 「でも、それって気のせいだよね?」
 大丈夫、大丈夫って自分に言い聞かせて深呼吸した。
 そのとき、信号が青になって。
 「……どうしよう?」
 でも、怖くて渡れなくて。
 呆然と突っ立っていたら、また赤になって。
 バクバクしながらまた少しだけ振り返ったら、さっきの車が動き出して。
 「うわっ……」
 焦る俺を追い越して走り去った。
 「……なぁんだ……やっぱ、気のせいだったんだ」
 北川が変なこと言うからだって思って。でも、ホッとして。
 車が走っていった方をしばらくぼんやり眺めていたら、いきなり怒鳴られた。
 「何ボケッとしてんだ」
 よく見たら、信号はまた青になってて。
 横断歩道の向こうにはムッとした顔の中野が立ってた。
 俺はなんだかもう泣きそうになってたけど、それをガマンしながら中野のところまで走っていった。
 本当は中野に抱きつきそうな勢いだったんだけど、よく考えたら俺はもうずぶ濡れでぐちゃぐちゃだったから、それもできなくて。
 「中野、こんなとこで何してるの?」
 俺に怒鳴ったんだから、返事くらいしてくれるだろうって思って、半分涙声で聞いたら、腕をつかまれて。
 そのままマンションまで連れていかれた。
 「ね、北川のところに行く途中? それともタバコ買いに来たの?」
 でも、行く途中だったらまたマンションに帰ってきたりはしないよなって思って。
 じゃあ、やっぱりタバコかなって思ったけど。
 コンビニとはちょっと方向が違うし。
 「ねー、中野ってば」
 しつこく聞き続けたら、やっぱり「黙ってろ」と言われてしまった。
 部屋に入って、すぐにバスルームに押し込まれて。
 体温が戻ってきたら気持ち悪くなって。
 「前にもこんなこと、あったんだよな」
 あの時は意識をなくして、気がついたらベッドに寝てた。
 今度はそんなことないようにしなくちゃ、って思って。
 早めにシャワーを止めて、バスタオルだけ被ってその場に座り込んだ。
 風呂場は十分に暖かかったから、風邪を引く心配なんてしなくてよさそうだったけど。
 しばらくしたら、中野が入ってきて、何も言わずに俺を抱き上げた。
 脱衣所に下ろされて、上から下までゴシゴシ拭かれて。
 それから、バスローブを着せられてリビングのソファに放り投げられた。
 中野にしては、ずいぶんいろいろとしてくれるんだけど。
 でも、顔が怒ってた。
 「……なんで怒ってるの?」
 俺、何もしてないと思うんだけど。
 中野はイライラしたみたいな表情でタバコを取り出して火をつけて。
 そのあと、思いっきり一本吸い終わってから、やっと口を開いた。
 「どこからつけられてた?」
 「え?」
 「あの車だ」
 中野が言うんだから間違いない。
 やっぱり俺のあとをつけてきたんだ。
 「わかんない……店の裏口に停まってた。でも、別に話しかけられたりしなかったよ?」
 俺に用事があるなら、店にいる時に言えばいいのに。
 「ってことは、たまたま俺と帰る方向が同じだっただけかなあ?」
 それを聞いた中野はまた呆れ果ててたけど。
 「明日は店に行くな。4時までにここに戻れ。いいな?」
 またいきなりそんなことを言った。
 「あ、でも、明日はバイト代もらうから、店には行かないとダメなんだ」
 じゃないと中野へのクリスマスプレゼントが買えない。
 だから、どうしても行かなくちゃって思ったのに。
 「いいから、言う通りにしろ」
 キツい口調でそう言われてしまって。
 「……うん」
 それ以上は言い返せなかった。
 「……でも、バイト代……」
 ひとり言みたいに口の中でもごもご呟いたら、中野の不機嫌な視線が飛んできた。
 「暗くなったらここからは絶対に出るな」
 そう言った声もなんだか怖いし。
 第一、「絶対出るな」なんて大げさだよなって思ったけど、一応頷いた。
 明るいうちなら出歩いてもいいってことだから、闇医者のところには行けるし。
 それほど困らないはず。
 「でも、なんでダメなの?」
 理由くらいは教えてもらおうとしたんだけど。
 中野は何も言わずに携帯だけ持って仕事部屋に行ってしまった。
 「説明くらいしてくれてもいいのに……だって、ぜんぜん分かんないよ」
 でも、とにかく中野の言う通りにしていればいいんだろう。
 「明日、闇医者に『どうしてだと思う?』って聞いてみようっと」
 闇医者なら中野と仲がいいから、知ってるかもしれないし。
 「それに、なんとなく風邪引いたっぽいし……」
 そう思ったから、慌てて寝室に行った。
 「おやすみなさい」
 中野のいない部屋で一人でおやすみを言って、Tシャツに着替えて。そのままベッドに入った。
 
 
 
 どれくらい寝てたのか分からないけど、くしゅん、という自分のくしゃみで目が覚めた。
 ぼんやりと目を開けたら、ベッドの端に腰掛けて何かを読んでいた中野が振り返ったところだった。
 部屋はエアコンもついてて、けっこう暖かかったんだけど。
 「……ね、中野んちってさ、風邪薬とかある?」
 薬を飲むのも早い方がいいと思って聞いてみた。
 中野はやっぱり何も答えなかったけど、黙って部屋を出て薬箱を持ってきてくれた。
 「わー、なんかいっぱい入ってる」
 前に見たときよりもずっと多くなってて、中はキツキツだった。
 キレイに並べられた箱を端から順に確認して言ったら、『マモル君用』と書かれた風邪薬があった。
 「……闇医者の字だ。じゃあ、これにしようっと」
 それを出してキッチンへ行って。
 「あ、でも、これってお湯に溶かして飲むんだ」
 説明を読みながら、マグカップを出して薬を入れて、ポットのお湯を入れた。
 湯気は薬とは思えないくらいいい匂いがして、飲んだらやっぱりおいしかった。
 「もう一個飲んじゃダメかなぁ」
 でも、薬なんだから書かれている量は守らないと。
 飲み終えたカップを洗ってから、またベッドに戻った。
 「ね、これって闇医者が買ってきてくれたの?」
 中野に風邪薬の箱を見せながら聞いたら、「そうだろ」という短い返事。
 「ふうん」
 中野の家の薬箱って実は闇医者が整理してたんだな。
 てっきりアイツがしてたのかと思ったのに。
 「ホントに仲いいんだね」
 なんでだろうってちょっと不思議だったけど。
 「でも、家も仕事場も近いんだもんね」
 それに、闇医者なら、みんなの心配しそうだもんな。
 風邪なんて絶対に引かないっぽい中野の心配だってしてくれるはず。
 「あったかくなったから、寝ようっと」
 連続のひとりごとの後、もごもご布団にもぐりこんだら、中野が俺の手を掴んだ。
 「来いよ」
 そう言って半分無理矢理引き寄せられて。
 「え? あ、うん」
 頭がぼーっとしてたせいもあるけど、そんなこと言われるとは思ってなかったから、急に心臓がバクバクし始めた。
 「あ、でも、中野に風邪うつったりとか……」
 中野がよければそれでも俺はぜんぜんかまわないんだけど、って思ったけど。
 でも、そういうことじゃなかった。
 「傘くらい差して帰って来い」
 中野の大きな手がおでこに当てられて。
 「……うん。今度、買ってくる」
 それから、俺に布団をかぶせた。
 「コートはどうした」
 タバコをくわえて、火をつけて。
 「……もうちょっと寒くなったら買う」
 中野はそれを黙って聞いてたけど、やっぱり呆れたような表情で煙を吐き出した。
 それから、また窓の外に目を遣った。
 「来週の木曜までに必要な荷物をまとめておけよ」
 一瞬、何を言われているのかわからなくて。
 「……え?」
 思わず聞き返した。
 聞き返した後もぐるぐるいろんなことを考えてみたけど、やっぱり意味がわからなかった。
 「それって?」
 また質問しても中野は俺の顔なんて見ることもなく、さっき読んでた手紙を布団の上に放り投げた。
 あて先は中野。
 差出人は俺の叔父さんで。
 この間の日曜日に中野と会って話したことについてって書いてあった。
 「……中野、おじさんちに行ったの?」
 日曜日は、俺が健康診断を受けた日。
 そして、中野がおしゃれして出かけていった日だ。
 「俺、中野におじさんちの住所なんて教えなかったよね?」
 俺が昔住んでた場所と、おじさんちがわりと近くだったってことしか話してなかったと思うのに。
 「……どうやってわかったの?」
 中野が何も答えてくれないから、俺は手紙の続きを読んだ。
 手紙は何枚もあったけれど、書いてあることはそれほど難しくはなかった。
 『それだけあれば引き取っても学校に行かせることができますし――』
 そこに書かれていた金額は信じられないくらいたくさんで。
 その金は中野が母さんから預かったことになっていた。
 「母さん、こんなに貯金なんて……」
 だいたい中野のことなんて知ってるはずないのに。
 「おかしいよ、こんなの……ね、中野?」
 そうじゃなくても最近いろんなことが分からなくてパニックになりそうなのに。
 「ね、中野ってば」
 慌てて起き上がろうとしたけど、中野に止められて。
 ついでに頭まで布団を掛けられて。
 「いいから、言う通りにしろ。ったく、いちいちうるせえんだよ」
 怒ったみたいな声が降って来た。
 金のことも、おじさんちに帰ることも、何がなんだか分からなかった。
 「……なんで? 急に帰れなんて……だって、俺……」
 中野に新しい恋人ができるまでは一緒にいられるって思ってたのに。
 だから、鍵だってもらえたんだって思ってたのに。
 「中野……もしかして、俺がいると、邪魔……?」
 聞く必要なんてない。
 きっとそうなんだってわかってるのに。
 「ね……中野ってば……」
 布団から目だけ出して、中野を見上げたけれど。
 中野はいつもと同じように俺に背を向けたまま。
 長い沈黙の後、たった一言、「ああ」という短い返事をしただけだった。
 
 
 
 
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