翌朝、また中野から「暗くなったら出歩くな」って言われて、「うん」って答えた。
なんでダメなのかとか、何があったのかとか、分からないことだらけだったけど、もう聞こうとも思わなかった。
あとちょっとしか中野と一緒にいられないんだって、そればっかりがグルグルと頭を巡っていて、他のことは全部どうでもよく思えた。
中野は相変わらずなんにもしゃべらなかったけど。
マンションを出る前にまたおでこに手を当てて、それから、自分のコートを俺に投げた。
それでもグズグズしてたら、
「さっさと着ろ」
ちょっとだけ怒られて。
「……うん」
慌てて袖を通した。
ショートコートのはずなのに、俺にはすごく大きくて、肩も落ちてたし、手も指先がちょっと出るだけだった。
動きにくいかも……とか、汚したらどうしようとか、いろいろ考えて。
「やっぱいいよ、そんなに寒くないし」
断ってみたけど、中野はもう俺の言うことなんて聞いてなくて、いつまで経っても返事はなかった。
でも、またカゼなんて引いたら、きっと闇医者が心配するもんな。
「……ありがと」
だから、一応お礼だけ言って、コートはそのまま借りることにした。
ブカブカのコートは本当に暖かくて。
それから、ちょっとだけ中野の匂いがした。
闇医者のところに行くまでの間、中野は俺に合わせてゆっくり歩いてくれたけど。
「ね、どうしてもおじさんちに行かないとダメ?」
何度そう聞いても返事はしてくれなかった。
「だってさ、そんなこと言ったら、あと10日もないんだもんな」
昨日のことも、今日のことも。
一緒にいられる時間の全部を覚えて置こうって思ったけど。中野の顔を見ると泣き出しそうな気がして、結局、ずっと顔を上げられなかった。
中野も何にも言わなくて、ただ、別れ際にもう一度、早く帰るように念を押しただけだった。
それに黙って頷いて、中野の後姿に「いってらっしゃい」をしてから、診療所のドアを押した。
「……おはよー」
小さな声でそう言いながら中を覗き込んだら、受付の片づけをしていた闇医者が俺を出迎えてくれた。
「おはよう、マモル君。どうしたの、暗い顔しちゃって」
闇医者はやっぱりなんでもお見通しで。
「……うん」
心配させちゃいけないって思ったけど、優しい声を聞いたら、ポロって涙がこぼれた。
「マモル君?」
診療所はまだ誰も来てなくて、とても静かで。
涙が落ちる音まで聞こえそうだった。
「そう。中野さん、そんなこと言ったんだ……」
診察室の長椅子に並んで座って、闇医者と二人であったかいココアを飲んだ。
「……うん」
闇医者はしばらく何か考えていたけど。
でも、すぐにニッコリ笑って俺の髪を撫でた。
「とりあえず、しばらく叔父さんのところに行ったらいいんじゃないかな? 落ち着いたらいつでも遊びに来られるんだし」
前に住んでたところからここまでは一時間くらい。そこから叔父さんちへはたぶん30分くらい。
時間だけなら、いつでも来られる距離だけど。
「……叔父さんちに行ったら、バイトとかできるのかな」
ここまで電車賃がいくらかかるのかは、まったく分からなかった。
「相談してみたらいいんじゃないのかな? 叔父さんはいい人なんでしょう?」
そう聞かれて、いろいろ考えてみたけど、これといった思い出もなかった。
「……子供の頃はおもちゃとか買ってもらったこともあったかも」
本当はそれもかなり曖昧な記憶で、本当に俺自身が叔父さんからもらったことを覚えてるのか、母さんがそんな話をしてただけなのかも分からなかった。
「やだな、マモル君。そんなに心配しなくても大丈夫だよ。中野さんは叔父さんに会ったって言ってたんでしょう?」
中野はそんなことひとことも言ってなかったけど。
でも、手紙にはそう書いてあった。
「……うん」
どうやって調べたんだろう。
なんでそんなことしたんだろう。
俺がジャマだったら、出ていけって言えば済むことなのに。
「だったら大丈夫だよ。中野さんなら、嫌な人のところに帰れなんて絶対に言わないから」
闇医者はそう言うんだけど。
「でも、中野は俺がジャマなだけだから……そんなのどうでもいいんじゃないのかな……」
『ジャマなの?』って聞いて。『ああ』っていうだけの短い返事だったけど、何度思い返しても気持ちがズキンと痛くなる。
なのに、
「中野さんはマモル君のこと、ちっとも邪魔だなんて思ってないよ」
闇医者は明るい声でそう言って、その後もしばらくクスクス笑ってた。
それから、もう一度、「落ち着いたら遊びにくればいいよ」って言った。
「……うん……そうだね」
闇医者が優しいから。
何も考えずに、ただ頷いた。
だって、他に返す言葉がなかったから。
心配なんてさせたくなかったから。
窓の外は灰色の景色。
ぼんやり眺めていたら入り口のドアが開いて、外の喧騒が飛び込んできた。
「先生、いらっしゃいますか」
患者さんが受付を覗き込んで。闇医者が席を立つ。
「はい。お薬ですね。用意できてますよ」
それから、「ちょっと待っててね」と言い残して、待合室に出ていった。
「俺、どうすればいいのかな……」
ジャマだって言われたんだから。
他にいい方法があるとは思えなかったけど。
でも、これでいいなんて思えなくて。
「中野のところにいられないなら、公園で寝てもいいんだけどな……」
ちょっと寒いとは思うけど。
でも、頑張ればガマンできるような気がした。
最初に会った頃みたいに、中野に「おはよう」と「おやすみ」を言って。
後ろ姿に手を振るだけでも、会えなくなるよりずっといい。
「中野にそう言ってみようかな」
怒られるかもしれないけど。
それで済むのなら、そうしたい。
自分の気持ちだけでいいなら。
ずっとずっとここにいたいのに。
もしそれで中野にダメって言われたら、こっそりどこかに隠れていればいい。
見つからないように『いってらっしゃい』をするのなんて簡単なんだから。
「うん、そうしようっと」
少しだけ気持ちが軽くなって。
やっぱりコートを買わないとなって思った。
「お待たせ、マモル君。どうしたの?」
いつの間にか戻ってきた闇医者の手にはレモンティーの入ったマグカップがあった。
「ううん、なんでもない」
お礼を言ってカップを受け取って口に運ぶとレモンのいい匂いがした。
もう決めたんだから、それでいいもんね、って思いながらも。
「ね、闇医者」
でも、最後にちょっとだけ聞いてみた。
「俺って、なにがダメだと思う?」
前にもそんなことを聞いたかもしれない。
そのときだってダメな理由なんて分からなかった。
そりゃあ、アイツとなんか比べられちゃったら全部ダメだよな……って今でも思うけど。
「マモル君はダメなところなんてないよ。どうして?」
中野にジャマだって言われたことだって、俺があんまり気にすると闇医者が心配する。
わかってるのに、聞かずにはいられなくて。
「……側にいるのもダメって、顔も見たくないってことだよね?」
だって。
一緒にいる時だって中野はめったに俺の顔なんて見ないから。
俺が真正面に座ってても、話しかけても。
それだけじゃなくて、抱いてる時だって。
いつも違うところを見てる。
何もない真っ暗な窓の外を見てる時と同じ目で、ずっと遠くを見てるだけだから。
「そんなことあるわけないじゃない」
にっこり笑ったまま、あっさり否定する闇医者は嘘なんてついてるようには見えなかったけど。
「でもさ、」
何を信じたらいいんだろう。
中野の返事?
闇医者の言葉?
考えても考えても、グルグルするばかりで何も浮かんでこなかった。
「なんか、よくわかんなくなっちゃったな……」
うつむいてしまった俺に闇医者は何度も「大丈夫だよ」って言ってくれたけど。
「先生、今、いいですか?」
待合室のテレビがつけられて、闇医者を呼ぶ声が聞こえて。
「じゃあ、マモル君、お昼までゆっくりお茶しててね。お昼寝しててもいいよ?」
「うん。忙しいのにごめんね」
闇医者に手を振って、診察室を出た。
病室に入って、窓に近い方のベッドに座って。
もう一度、ゆっくり考えてみた。
中野のマンションを出て。電車に乗って。叔父さんの家に行って。
そしたら、もう2度と戻ってこられない気がした。
もう、それっきり、中野とも闇医者とも会えないような気がした。
「あーあ……」
どんよりした気分が抜けなくて。このままここにいたら闇医者が心配するって思ったけど。
「今日は出歩けないんだもんな……」
だからといって、中野のマンションに帰ったらもっと落ち込むのは分かっているから。
「マモルちゃん、一緒にテレビ見ないかい?」
小宮のオヤジや患者モドキに誘われたけど。
「ううん、いい」
そんな気にもなれなくて、ぼんやりとベッドの上から外を眺めた。
もうすぐお昼っていう時間で、ビルの間から見える大通りはにぎやかだった。
でも、この診療所のある奥まった場所には誰も来ない。
そう思った矢先。
「……あれ……エイジだ」
足を引きずっているから、ケガをしたんだろう。
不自然な歩き方な上に妙にキョロキョロしてて、なんか変な感じだった。
「こんな時に、エイジになんか会いたくないな……」
ちょっとだけどこかに逃げようかなって思っていたら、エイジはすぐに闇医者に連れられて俺のいる部屋に入って来た。
そして、俺の顔を見るなりいつもの半分バカにしたみたいな作り笑いを浮かべた。
「あれ、マモル君。怪我でもしたの? それとも先生のところに遊びに来ただけ?」
いつだって嫌なことしか言わないから、できれば無視したかったけど。
「別に。ちょっと風邪気味なだけ」
答えないのもおかしいと思って、仕方なく返事をした。
エイジは「ふうん」って言いながら俺が座っている向かいのベッドに腰掛けて、隣に白い封筒を置いた。
中野がいつも北川に渡してるみたいな書類サイズの封筒。
しっかり封はされていたけど宛名は書いてなかった。
「うーん、腫れてはいないみたいだけどね……痛むかな?」
エイジの足元にかがみこんでいた闇医者が足首をいろんな方向に軽く動かしながら聞いた。
エイジはちょっとだけ顔をしかめて、「歩くと痛いんです」って答えてた。
「捻っちゃったのかな? じゃあ、酷くならないうちに湿布しておこうね」
闇医者はみんなに優しいから、もちろんエイジにだって同じなんだけど。
わけもなく、ちょっとだけ寂しい気持ちになった。
「あ、湿布だけもらえれば……実はこれからすぐ出かけないといけないんです」
そう言いながら、エイジは落ち着かない様子で腕時計に目をやった。
「そうなの? でも、ちゃんと固定しておかないとね」
そしたら、エイジは隣に置いてあった封筒をちらっと見て、少しだけ困った顔をした。
「でも、急ぎで届け物があって……」
闇医者はふうってため息をついたけど。
「じゃあ、すぐに手当てをするね」
闇医者が手際よく湿布と包帯を取り出したとき、また待合室から闇医者を呼ぶ声がして。
「あ、ちょっとお待ちください」
闇医者が困った顔で叫び返した時、エイジは「まだ大丈夫ですから、先にそちらを済ませてください」ってニッコリ笑った。
「ごめんね、すぐに戻るから」
忙しそうに出ていった闇医者を見送ってから、エイジが封筒を手に取って俺を呼んだ。
「ね、マモル君」
「なに?」
「今日、北川さんの事務所にバイト代、取りにいくでしょう?」
足が痛いからなのか、エイジは珍しくニヤニヤ笑いをしてなかったけど。
「ううん。今日は行かない」
「どうして? バイト代、もらわなくていいの?」
やっぱりなんとなく感じが悪いことに変わりはない。
「よくないけど。でも、今日は行かない」
なんで、って聞かれたけど。
「エイジこそ、なんでそんなこと聞くの?」
そんなのきっと答えてくれないよなって思ったけど。
エイジはちょっとだけ笑いながら、ちゃんと説明してくれた。
「実は、これを中野さんに届けないといけなくて。待ち合わせが北川さんの事務所の近くだから、ついでにお願いできないかなって思ったんだけど」
エイジは本当に困った顔をしてた。
可哀想な気もしたけど、北川の事務所には行くなって言われてるし。
「でも、行かない」
今日は診療所とマンション以外のところには行かないって決めたから。
「どうしてもダメかな? 北川さんの事務所よりはずっと近いし、すぐに帰って来れられるよ?」
「だって……」
言い訳を考えてたら、エイジはおもむろに携帯を出してどこかに電話をし始めた。
「あ、中野さんですか?」
そのとき、ちらっと俺の顔を見たような気がしたんだけど。
「すみません。ちょっとケガしちゃって……え、今すぐですか? 5分以内なんて言われても……」
その後、すぐに電話が切れたみたいで、エイジは慌てて立ち上がった。
でも、痛い方の足を床につけたとたんによろけて床の上に座り込んでしまった。
「困ったな。中野さん、待ってるのに」
エイジはため息をつきながら、もう一度携帯を取り出したけど。
「わかったよ。行ってあげるよ」
だって、中野が待ってるとか言われたら、行かなきゃいけないような気がするもんな。
「本当? 助かるよ、ありがとう。じゃあ、これ」
封筒の中には薄くて四角いものが入ってた。ちょうどCDのケースみたいな感じで。
「どこに持っていけばいいの?」
待ち合わせの場所を聞いたら、思いっきり裏通り。
遠くはなかったけど、やっぱり中野には怒られそうだった。
「絶対に失くさないでよ。それがないと中野さんが大変なんだからね?」
「わかってるよ」
「中野さん、怒って帰ってるかもしれないから、10分待っても誰も来なかったら、戻ってきていいよ。あ、マモル君、裏口から出てね。その方が近いから」
エイジにいろいろ言われたけど、とにかく急いで渡して帰ってこようと思って、靴をつっかけてビルの裏口から飛び出した。
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