Tomorrow is Another Day
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裏口を出て表通りに向かう途中でふと思った。
「闇医者にちょっと出かけてくるって言えばよかったかな?」
心配するもんなって思ったから、表のドアの方に引き返したんだけど。
「……あれ?」
通りから路地を覗いたら、大きな男がドアの近くをウロウロしてた。
ときどき窓の中を覗き込んだりして、ちょっと変な感じだった。
「やっぱ、先に渡してこよう」
急げば往復で10分もかからないし。闇医者だって忙しいから、ちょっとの間なら俺がいないことに気づかないはず。
「ってことは、帰りも裏口から入らなきゃ」
忘れないようにこっそり戻ろうって思いながら、一気に走った。
灰色の曇り空。
太陽なんてぜんぜん出てなくて、風が刺すように冷たくて。
「うー……中野に借りたコート着てくればよかった」
ブカブカだから走りにくいかもしれないけど。
でも、あったかかったもんなって思ったら、早く中野に会いたくなった。


大通りから人気のない細い道に入って、さらに奥まった路地を走って。息を切らせながら待ち合わせの場所に行った。
でも、中野はいなかった。
「もう、帰っちゃった、のかな……」
風邪気味だったせいなのか、走ったらのどが痛くて、掠れた声しか出なかった。
「10分待ってから戻れって言われても、俺、時計なんて持ってないし」
この辺は午前中なんて開いてないような店ばっかりだから、近くに時計が見えるところなんてない。
「仕方ないなぁ」
1分は60秒だからって思って。
ゆっくりめに600まで数えることにした。
「……152、153……うー、もう飽きてきた……」
まだ半分もいってないって思いながらその先を数え始めた時、後ろから声をかけられた。
「君、誰か待ってるのかな?」
知らない男の人。
スーツじゃなかったから、サラリーマンじゃなさそうだけど。
でも、普通の服装だし普通の人っぽかった。
ニッコリ笑ってて、怖そうでもない。
「あ、えーっと、うん」
でも、話なんてしたら、どこまで数えたか忘れるし。
放っておいて欲しいよなって思いながらも頷いた。
「これは?」
男が指差したのは俺が持ってた白い封筒。
「待ち合わせた人に渡すように頼まれ……」
そこまで言った瞬間、男の顔が変わった。
「じゃあ、大人しくそれを渡すんだな」
さっきまでとは声も目も全部違った。
まるっきり別人みたいに冷たい表情で俺を見下ろしてた。
「……えっ? だって、俺が待ち合わせてたのって……」
ここに来るのは中野のはずなのに。
知らない人だなんて言われなかったのに。
「おじさん、誰?」
聞き返しながら、変だって思った。
急に背筋がゾクッとして、反射的に走り出そうとしたけど。
俺の足が踏み出すより、男の手が早かった。
いきなり壁に身体を押し付けられて、口を押さえられて。
のど元にキラッと光るものを当てられた。
「渡すように頼まれた相手は誰だ?」
チクリとのどにそれが当たって。
また背筋が寒くなった。
男が聞いているのがエイジのことなのか、中野のことなのかが分からなかった。
それ以上に、今、自分に起こっている事態さえ分からずにいた。
「んっ……っ」
答えようとしたわけじゃない。
ただ、息ができなくて、苦しくて。
「静かにしてろよ。ここじゃ人目につくからな。とりあえず一緒に来てもらおうか」
なんとか隙を見て逃げようって思ったけど。
でも、男はそいつの他にも一人いて。
俺はそっちに引き渡された。
「口を塞いでおけ」
ナイフを突きつけられたまま、ビルとビルの間の薄暗い路地に連れ込まれて、口にガムテープを貼られた。
「んんっ……っ!」
逃げ出そうとして必死になって暴れたけど。
指が食い込むほど強く腕を掴まれて、背中で両腕をひとまとめにされて。
ガムテープで巻かれたあと、いきなり腹を殴られた。
身体が壁に叩きつけられて、頭に痛みが走った。
それから少し遅れて、口の中に血の味が広がった。
「車を回せ。こいつを片付けるのは後だ」
男が目をやった方向。
細い路地の突き当たりに車が停められる手はずになっているんだろう。

……この二人の他にも車の運転をする男がいるんだ。

3人もいたら、絶対に逃げ出せない。
なんとかこの道を出て、さっきの路地に戻って、斜め前にある通りに入れば、歩いてる人だっているかもしれない。
むせ返りながら地面にうずくまって、痛む頭で必死に考えた。
わずか数メートル。
なのに、ものすごく遠く感じた。
「立て。グズグズするな」
低い声と、ドカッという音。同時に腹に食い込んだ男のつま先。
口の中に溜まってきた血の味を吐き出すこともできないまま、よろよろと立ち上がった。
こんなことだって初めてじゃない。
捕まりそうになったことだって、本当に捕まって売られそうになったことだってある。
あの時だってケガはしたけど、なんとかなったんだから。
落ち着けば大丈夫なはず。
きっと逃げる方法だって……
「さっさと歩け。妙な気は起こすなよ」
グイッと腕を引っ張られて、膝から力が抜けて、ガクンと男の足元に崩れ落ちた。
「ちっ」という舌打ちが聞こえて、また腹を蹴飛ばされた。
ゴフッという鈍い音がして、胃から液体がこみ上げた。
ガムテープのせいで吐くことはできない。むせ返りながら何度も唾を飲み込んでそれを押し留めた。
涙でグチャグチャになった顔は、もう埃まみれになっていた。
「車はどうした? ああ?」
男の不機嫌な声が狭苦しい通路に響く。
もう一人の男が慌てて電話を始めて、その間に俺を踏みつけてた男はタバコを取り出した。
ゆっくりと広がっていく煙に目の向こう、車が到着する方向をイライラした様子で眺めながら何度も舌打ちをした。
電話を終えた男も同じように突き当たりを気にしてた。
車が来るはずの方向にも、反対側にも、相変わらず人の気配なんてなかったけど。
ゲホゲホと咳き込みながら、小さなコンクリートのカケラを元来た道の方に投げた。
カツ、カツン、と音を立ててコンクリートは道に転がったけど。
その後は沈黙だった。
やっぱり、誰もいないんだ……
絶望感に襲われて、血の気が引いていった。
それでも、ほんの少しのチャンスが欲しくて、男の足元に跪いたまま、いつでも走り出せるように座り直した。
その間に車が到着した。

『片付けるのは後だ』

さっき男が言ったセリフが耳鳴りのように頭の中に響いた。
殺されるんだって思った。
だから――――


「このガキっ、ふざけやがって!!」
低い体勢のまま男の脇をすり抜けて走り出した。
あと少し。
そう思った時、目の前に診療所のドアの前にいた大きな男が立ちはだかって。
体勢を崩した俺はまた地面に投げ出された。
踏みつけられたのか、蹴飛ばされたのか、よくわからなかったけれど。
腕を掴まれる感覚と、男の怒鳴り声と、車のドアが閉まる音。
でも、倒れた時にまた頭を打ったみたいで、すぐに意識は飛んでいった。




頭の痛みで目が覚めた。目の前は全部がぼんやりと霞んでいた。
身体の感覚もイマイチ鈍くて、何がなんだかわからなかった。
一生懸命に目を凝らしたけど、暗くて何も見えなくて。
でも、自分が寝ているのは路地なんかじゃなくて、ちゃんしたベッドだってことがわかって、少し安心した。
洗ったばかりの匂いがするシーツも、鼻先を押し当てた柔らかい毛布も、とても気持ちよくて、まともな場所だってことは間違いなさそうだったから。
霞んでいた視界もようやく視力が戻ってきて、俺の目の前が壁だってことだけはわかった。
「なんだ、俺、横向きなんじゃん……うあ、痛っ……」
ただ寝ているだけでもあちこちが痛くて嫌になりそうだったけど、なんとか頑張って起き上がって回りを確認しようと思った。
でも、どうやっても体は動かなくて。
「……ダメかも」
結局、諦めてしまった。
自分の手足を確認することさえできない状態だったけど、湿布と薬品の匂いのせいで手当てされているんだってことは分かった。

……じゃあ、病院なのかな……
でも、闇医者の診療所じゃないもんな……

ぼんやりした頭でいろいろ考えてみたけど、何を考えても空回りしている感じだった。
眠いのに眠れないような、変な気分のままずっと壁を眺めていた。



どれくらい経ったのか分からなかったけど、背中の方で静かにドアが開く音がした。
わずかに明かりが差し込んできて。
俺はそのときも壁の方を向いたままだったけど。
でも。
タバコの匂いと、聞きなれた足音。
それが誰なのか分かった時、体から全部の力が抜けるくらいホッとした。
よかったって思って。
また意識がなくなりそうになったとき、大きな手が俺のおでこに触れた。
振り向こうかと思ったけど。
「中野さん、香芝先生が『当分は起こさないように』って言ってましたから」
聞いたことのない声がして。
手はそっと離れていった。
もう起きてるよって言うタイミングを失ってしまって、どうしようって思っている間に人の気配は遠くなって。
それと一緒にタバコの匂いもしなくなった。
でも、部屋に差し込んだ明かりはそのままだったから、ドアが閉められていないってことは分かった。
さすがに反対向きにはなれなかったけど、頑張ってなんとか仰向けになった。
そこで初めてどんな場所にいるのかわかった。
壁も家具も程よく華やかで、でも、まったく生活感のない部屋。

……ホテルなのかなぁ……

少なくとも病院なんかじゃなさそうだったけど。
でも、俺が知ってるホテルとは違って隣の部屋にも別の部屋に続くドアがあった。
開け放されたドアよりももっと向こうに、中野と大きな男が立っていた。
たぶん、さっきの声の人。
そして、診療所のドアの前でウロウロしてた男だった。

……じゃあ、俺のこと助けてくれたの、アイツなんだ……

路地で倒れたとき、俺の真正面に立ってた。
あの時は、俺を蹴り飛ばしたヤツの仲間だと思っていたけど。
少なくとも中野とは知り合いなんだから、悪いヤツじゃないんだろう。
助かったことにホッとした後で、一瞬、心臓が止まった。

そうだ、エイジから預かった封筒……――――

取られてしまったんだろうか。
思い返してみたけど、記憶は曖昧で。
捕まって壁に押し付けられて、もうその辺りから封筒がどうなったのかは覚えてなかった。
大事なものだから失くさないようにって言われてたのに。
どんなに思い出そうとしても、それについての記憶はひとつも残ってなかった。
「聞いてみなきゃ……」
慌てて起き上がろうとしたとき、身体に鋭い痛みが走って。
それと同時に隣の部屋で電子音が響いた。
電話だった。
「はい」
受話器を取ったのは、さっきの男。
「中野さん、エイジが下で待ってます」
男の短い言葉のあと、「ここへ通せ」という中野の声が聞こえた。
ほんの少しも感情なんてないみたいな冷たい返事だった。
そして、開けっ放しのドアから見えた中野の横顔は怖いくらいに険しかった。



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