Tomorrow is Another Day
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ノックの音と、ドアが閉まる音。
それから。
「こんばんは」というエイジの声。
あとは、「マモ、生きてるのか?」という北川の声。
そのどっちに対しても、中野は返事をしなかった。
その代わりにさっきの男が「打撲と擦り傷くらいで済みましたけどね」と説明した。
「そりゃあ、よかった。命拾いしたな」
北川はなぜかエイジにそう言って、奥にある部屋に行ってしまった。
エイジは首をかしげていたけど、すぐにご機嫌を伺うような表情で中野に話しかけた。
「上手く行きましたね。こんなにあっさり引き渡しできるなんて―――」
エイジは楽しげな様子で話していたけど。
中野の冷ややかな声がその先を止めた。
「どういうつもりだ」
その言葉が耳を抜けた瞬間、背中がゾクッとした。
「何……が、です?」
エイジも言葉をつまらせた。
こちらに背中を向けているから、中野がどんな顔をしているのかは分からない。
でも、わずかに見えるエイジの顔は青ざめていた。
「勝手なことをするなと言ったはずだ」
中野は怒鳴ることもなく、ただ淡々と話してた。
でも、いつもとはぜんぜん違った。
中野じゃないみたいに冷たい声。
それを聞いたとき、背筋に震えが走った。
「で……でも、仕事は上手く行ったんですよ?」
エイジもきっと同じなんだろう。返事にいつもの余裕はなかった。
「ちょっ……中野さん、やだな、どうしたっていうんですか?」
そんな冗談めかしたセリフもひどく引き攣って聞こえた。
「あいつに何を言った」
張り詰めた空気を揺らして無感情に響く。
俺の知らない中野がそこに立っていた。
「……べ、別に」
そう言いながら、エイジは少し後退りして俺の視界から消えた。
中野がこんなに不機嫌なんだから、やっぱり封筒はアイツらに取られてしまったんだって思って、その瞬間、サッと音を立てて血が引いていくのを感じた。
失くすなと言われたのに。
俺が持っていったんじゃなければ、そんなことにはならなかったかもしれないのに。
「それじゃあ、何の説明にもなってねえよ」
中野の声がわずかに苛立ちを含んでエイジの返事を促す。
「……封筒を……待ち合わせ場所まで持っていくように頼んだだけです。心配しなくても詳しいことなんて何も……」
声だけしか聞こえないのに、エイジがどれほど動揺しているのかが分かった。
必死に説明している横で、中野はただ突っ立っていた。
数秒間の沈黙の後、中野がポケットに入れていた手を出した瞬間、ガチャンという音がした。
何かが壊れる音。
でも、中野はそれさえも無視してタバコをくわえた。
シュポッというライターの音と、白い煙。
俺までガチガチに凍ってたけれど、その匂いが流れ込んでくると少しだけ安堵した。
フッと息を抜いて、もう一度、中野の背中を見た。
いまだに全てが分からなかったけど。
それでも。
すぐそこに中野がいるんだから、きっと大丈夫―――。
そう思って目を閉じた。


身体の痛みと柔らかい毛布と、おでこに残った手の感触。
すごく現実的で、でも、全部が嘘みたいな気がした。


意識と一緒に話し声まで遠くなっていく。
「そうですよ。あの子が運んでるって噂を流したのは確かに僕だよ。けど、今、運んでるもの、盗られたらまずいんでしょう? どっちが大事かなんて考えるまでもないでしょう?」
エイジの声が少しヒステリックに響く。
何も答えない中野に、だんだんイライラしはじめたのが分かった。
「なんで黙ってるの? それって襲われたのが僕ならよかったっていう意味?」
最初に会った日もそうだった。
あの時は、アイツの話で。
エイジはやっぱり怒鳴っていた。


『ねえ、あの子、アンタには釣り合わないよ』
あの時は、何も知らなかった。
中野のことも。
アイツのことも。

キレイで、華やかで。
中野が一番大切にしてたもの。
どんなに叫んだって勝てるわけないって、今なら分かるのに……―――


「仕事を成功させるためには多少の犠牲は仕方ないんでしょう? 中野さんだってそれくらい……」
途切れ途切れに耳に飛び込んでくる。
声が大きく聞こえるたび、身体もズキンと痛むような気がした。
「この仕事がいくらになると思ってるんです?……まあ、中野さんにはハシタ金かもしれませんけどね」
そんな言葉が耳に障ってザラついた感情に変わっていく。
「ガキを囮に使うような真似するんじゃねえよ」
危ない仕事だって闇医者も言ってた。
わかってたつもりなのに。
でも、結局、俺だけが何も知らないんだなって思った。
「いいじゃないですか。どうせまともな子供じゃないんだし、何かあったって誰も……」
一瞬だけ変な静寂が流れた。
なんだろうって思う間もなく、静まり返った部屋にいきなりドカッという鈍い音が響いた。
それから、バタンとドアが閉まる音がして、すぐに北川の笑い声が聞こえた。
「なにやってるんだ、中野。エイジに手を上げても仕方ないだろ。いいから、そういう物騒なものは仕舞えよ」
思わず目を開けたけど。
ここからは中野の背中と転んでるエイジの足しか見えなかった。
「エイジもいい加減にしろよ。使うならマモみたいなボンヤリちゃんじゃなくて、もっと要領のいいヤツにしろって」
話してるのは北川だけ。
中野は何も言わずにタバコの煙を吐いていた。
「ほら、エイジ。さっさと逃げた方がいいぞ」
何がおかしいのか、北川は笑いながらエイジを見下ろして、中野の顔を見て。
ついでに俺の寝ている部屋のドアを覗き込んだから、慌てて目を瞑ったふりをした。
「持っていけよ。今日のお駄賃だ」
北川が放り投げた札束はエイジの足元に落ちた。
「明日は店に来るなよ。ま、その顔じゃ、客の相手なんてできないだろうけどな」
「……わかってますよ」
そんな短い言葉なのに、エイジの声は震えていた。
寒くもない部屋なのに。
それに、いつだってバカにしたみたいな話し方をしてるのに。
なんだかとても不思議に思えた。
「でも、」
震えてるくせに、緊張した空気を逆なでするような棘のある声。
「……中野さん、あの子の名前、呼んだことないんでしょう?」
もちろん、中野は何も答えなかった。
それでもエイジは言葉を続けた。
「使い捨てるものに名前なんていらないって、前に言ってましたよね?」
なんでそんなことを話すのかは全然わからなかったけど。


何も言わない中野の背中が、急にぼやけて見えた。
その言葉も。
目に映った中野の背中も。
全てがただ、頭の中を素通りしていった。


わけの分からない話ばかりが流れる部屋の隅。
固く目を閉じて、動くこともできないまま。
だったら、全部わからなければいいのに。
なんで、知りたくないことばかり、わかってしまうんだろう―――


「エイジ、いい加減にしておけよ。本当に殺られるぞ」
北川の笑い声の中、
「中野さんだって、そのつもりで拾ってきたんでしょう? だから北川さんのところに預けてウリなんて―――」
エイジが吐き捨てて。
その瞬間にまた鈍い音が聞こえた。
「その辺でやめとけよ、中野。確かにここは安全かもしれないが、死体の後始末まではしてくれないぜ?」
また鈍い音。
その後、北川が笑うのを止めて、ため息をつきながら付け足した。
「やめろって。おまえが何をしようが俺の知ったことじゃないけどな、それ以上ヤバイことなんてしたら、どこかの子猫がまたグズグズ泣くぞ?」
パシッていうのは、たぶん中野が北川の手を払い落とした音。
「痛ってーなぁ……」って言いながらも、北川は笑ってた。
それから少しして、パタンってドアが閉まる音が聞こえて。
「あーあ、エイジ、金置いていっちまったよ。……まあ、この状況じゃ受け取れないだろうけどな」
その声に薄目を開けたら、まだ笑ってる北川と新しいタバコに火をつける中野の横顔が見えた。
俺の知らない世界。
中野やエイジが何をしているのか。
何が起こっているのか。
ぜんぜん分からない。
なのに。


エイジが俺にお使いを頼んだわけとか。
中野が俺を拾った理由とか。
ずっとずっと名前を呼ばなかったこととか。

ぜんぶ、ぜんぶ。
聞かなければよかったって思った。


それから、母さんが生きてなくてよかったって。
『まともな子供じゃないんだから』なんて。
母さんが聞いたら、きっと泣いてしまうから。

―――……母さんのせいじゃ、ないからね

一緒にいた頃はそんなこと言われなかったんだから。
今、俺がこんなことしてるのがいけないんだから。


アイツみたいに、ちゃんとした仕事をしてたら、きっとそんな風には言われないだろうなって。
中野だって、きっとそう思っているんだろうって。
にじんだ横顔を見ながらぼんやり思った。


「ほら、これが次だ」
北川が中野に差し出したのは白い封筒。
「ヤツらも相当あせっているし、マジでいい加減ヤバいんじゃないか?」
深刻そうな会話の内容とは不似合いな笑いを含んで、北川の声はやけに明るく響く。
タバコの煙が流れるだけの静かな部屋。
中野の横顔はもういつもと同じだった。
「言われなくても日曜には捨ててくる」
返事はそれだけで。
あとは何も言わなかった。
長い長い沈黙の後、北川が落ちていた札束を拾い上げた。
「まあ、噂なんて流さなくてもいずれは狙われただろうけどな」
それをテーブルに置いて、代わりにタバコを手に取った。
「おまえが可愛がってもいないようなガキを手元に置く理由なんて、そういくつも思いつかないし。誰だって用途があると思うだろう?……火、貸せよ」
中野は相変わらず黙ったまま。
ポケットから取り出した銀色のライターを北川に投げた。
火のついたタバコを見ながら、北川は少しだけ苦い顔をして、
「……相変わらずキツい煙草吸ってんだな。長生きできないぜ?」
そんなことを言ったけど。
すぐに、
「まあ、長生きなんてしたくもないだろうけどな」
笑いながら、そう付け足した。
エイジがいたときと違って、少しだけ柔らかい空気が流れる。
いつもはぜんぜんそんな風に見えないけど。
中野と北川は本当は普通の友達なんだな……ってなんとなく思った。
「で、どこに捨ててくるって? 安全な場所なのか?」
捨ててくるのは、あの封筒の中味なんだろうか。
それともエイジが運んでるって言ったものなんだろうか。
そう思ったのも一瞬で。
すぐにまた暗い気持ちになった。
「奴らが調べられるような場所じゃねえよ」
「ああ、啓ちゃんが言ってたな。親戚だっけか? 母親の弟だって……で、場所は? 調べたんだろ?」
そこまで言われれば、俺がどんなにバカでも分かる。
中野が「捨てる」って言ったものが、何なのか。


―――邪魔だって、言ってたもんな……


分かっていたはずなのに。
ズキンと痛んだ。
心臓よりもずっと奥。
痣だらけの身体よりも、ずっとずっと。
痛くて苦しかった。



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