本当は、もうそれ以上聞きたくなかったけど。
ドアは開けたままだから、急に耳なんか塞いだら起きているのがバレてしまう。
だから、悲しい気持ちでじっとしているしかなかった。
「なんだよ、中野。俺にも言わないってか?」
北川の質問を中野はすっかり無視して、窓の外を見ていた。
「啓ちゃんは知ってるのか? まさか、おまえだけ?」
中野は顔を上げることもないまま、「ああ」と短い返事をした。
「じゃあ、マモの詳しい身元知ってるヤツは、おまえ以外は誰もいないんだな?」
「だったら?」
「明日、その辺で変死体になっても誰一人怪しまないってことだ」
笑ってる北川と無関心そうな中野と。
淡々と続く会話。
「何が言いたい」
「別に。ただ、捨て駒にはちょうどいいって話だろ。……エイジの言った通りにな」
わかったから、もういいよ。
そう言って部屋を飛び出してしまいたかったけど。
どんなに頑張っても身体は動かなくて。
悔しくて。
悲しくて。
瞑ったはずの目から、ポロポロと涙がこぼれた。
「鍵、渡したのは手懐けて利用するためじゃなかったのか?」
何を聞かれても答えない。
長い指が煙草の灰を落とす。
「それとも、何だ? 死んだヤツのことを未だに引きずってるなんて、おセンチなこと言って俺を笑わせてくれるわけ?」
意味の分からない話が通り抜けていく。
俺に分かるのは、一緒にいられる時間があと少しだっていうことだけ。
「ま、その話はちょっと中断するか」
北川がチラリとこっちを見て。
その視線が俺に向けられたような気がした。
俺の寝ている部屋は暗いから、見えるはずなんてないんだけど。
「そろそろ痛み止めが切れるだろ。マモが起きるんじゃないか?」
部屋の時計に視線を移して、北川がまたニヤッと笑って。
それと同時に中野が振り返った。
このまま眠ってるフリをしようかとも思ったけど。
中野が近づいてきたら、心臓がドキドキしはじめて、とても普通に目を閉じていられなかった。
それに、言い訳なんてできないくらい、顔は涙でぐちゃぐちゃになってた。
ふわりとタバコの煙をまとって、中野がベッドの傍らに立つ。
「気がついたか」
お願いだから、電気をつけないで。
そのまますぐに向こうに行って……って思いながら、それでもなんとか返事をした。
「……うん」
でも。
中野の手が俺の頬に触れて。
せっかく頑張って返事をしたのに、ぜんぶムダになった。
泣いていた言い訳なんて考えてなくて。
でも、何か言わないと中野が変に思うって。
ぐるぐる考えて。
でも、何も思いつかなくて。
何を言っても、もうダメだよなって思ったとき、中野の手がそっと涙を拭った。
「痛むのか」
いつもなら、絶対に聞かないようなことを口にするから。
「ううん」
答えながら、また視界がにじんで。
ポロポロこぼれ落ちるはずの涙は、頬に当てられたままの中野の手を伝っていった。
「……聞いてたのか」
もう、嘘なんてつけなくて。
怒られてもいいって思った。
だって、最初に「起きてる」って言わなかった俺がいけないんだから。
「……聞くつもりじゃ、なかったんだけど……」
中野がどんな顔をしてるのかなんて、見る勇気はなくて。
涙をこらえながら目を伏せた。
「……ごめんね」
でも、本当に聞くつもりなんてなかったんだって、もう一度言い訳をして。
それを聞いても、中野は怒らなかった。
「日曜に送っていくからな」
ただ、静かな声でそう言った。
日曜日なんて、すぐなのに。
そしたら、もうずっと会えないかもしれないのに。
「……どうしてもダメなの?」
返事なんて聞かなくても分かってるのに。
「中野のうちにいるのがジャマだったら、俺、公園でもぜんぜん―――」
泣きながら。
でも、そこまでしか言えなかった。
「駄目だ。明日、ここへ荷物を届けさせる。早めに纏めておけよ」
厳しい口調で。
俺の話を聞く気なんて全然ないって顔だった。
何を言ってもダメなんだろうって思いながら、でも、「うん」っていう短い返事さえできずに黙り込んだ。
音のない部屋。
これ以上泣かないように目を瞑って。
中野のことは考えないようにして。
なのに。
頬を包んでいた手がそっと離れて、おでこに移った。
「熱は下がったな」
中野の言葉はそれだけで。
その後は、タバコをくわえて火をつけただけ。
でも。
「……中野、あのね」
好き……って言おうと思った。
もしかしたら、もう言えないかもしれないから。
「俺ね、」
けど。
ドアのところに立っていた北川が「ヒューッ」って口笛を吹いて。
「お取り込み中申し訳ないが、依頼主からだ。ほら」
中野に携帯を投げて。
その後、俺を見てニヤニヤ笑った。
「もうちょっとだけいい子にしてろよ、マモ。大事な打ち合わせだから、盗み聞きなんてするんじゃないぞ?」
その言葉に一瞬、ドキッとした。
「まあ、マモだったら聞いても分からないような話だけどな」
最初は、ただの冗談だよな…って思ったけど。
「……うん」
北川の笑いは意味ありげで。
ホントは全部わかってたんだって、やっと気づいた。
北川が部屋のドアを閉めて、俺は真っ暗な部屋にひとりきりになった。
いろんな気持ちがごちゃまぜになって、眠れなかった。
「何時なんだろうなぁ……」
光の入らないカーテンがしっかり閉められた部屋。
ドアを閉めたら何の音も入ってこなかった。
一人でこうしていたら、なんだか落ち着かなくて。
闇医者の診療所で天井のシミを数えながら昼寝するときみたいに数を数えてみた。
だんだん自分がなにをしてるのか分からなくなって。
ようやく、意識が遠くなって。
このまま眠れるんだなって思った。
今日が何曜日だったのか。
日曜までにはあと何秒あるのか。
その中でどれくらいの時間、中野と一緒にいられるのか。
そんなことを思いながら、夢を見ていた。
ときどき浅くなる夢は、現実と入り混じって昼間の光景をよみがえらせた。
急いで中野のところに行かなくちゃって思って。
それから、早く逃げなきゃって思って。
でも、足が動かなくて。
すぐ後ろに伸びてきた手にはナイフが握られていた。
そして、その手はまっすぐに俺の腹に下りてきた。
「う、ああっ……っ!!」
叫んだとき、目が覚めて。
その後、すごい音を立ててドアが開いた。
すぐに電気がつけられて、中野の顔が目に入ってきた。
「どうした」
その声を聞いても俺はまだ夢から覚めたことが分からなくて、しばらく呆然としていた。
「大丈夫か?」
中野の手が、俺の腕を掴んだ。
温かくて。大きくて。
やっとここがどこなのか分かった。
「……う……ん……」
大丈夫って言おうとしたけど、唇が震えて言葉にならなかった。
中野はやっぱり何も言わなかった。
でも、そっと俺を抱き上げた。
北川も大きな男の人も帰ったみたいで、隣の部屋には誰もいなかった。
中野に抱かれたまま開けっ放しのドアをくぐると、そこもやっぱり寝室で、俺が寝ていた部屋よりずっと大きなベッドが置いてあった。
テーブルには封筒と真っ白な表紙の分厚い冊子と携帯。
灰皿には火のついたタバコが置いてあった。
静かにベッドに下ろされて、布団をかけられて。
「……ちょっとイヤな夢、見ただけなんだ」
やっとそう言って。
それから、ごめんね、って付け足そうとしたけど、中野に頭まで布団をかけられてしまった。
淡いクリーム色の光の中。
中野はベッドのすぐそばに椅子を持ってきて、そこに腰掛けた。
タバコをくわえて、足を組んで、静かに冊子のページをめくる。
布団からこっそり目だけ出して、その横顔を見てた。
このまま全部、止まってしまえばいいのに。
そしたら、日曜日なんて来ないのに。
願っても叶わないのはわかっているけど……―――
「寝ろよ」
ぶっきらぼうな声。
でも、穏やかに響く。
いつだって俺の方なんてぜんぜん見てないのに。
「……うん」
でも、気がつくとちゃんと側にいてくれた。
最初に会った日のこと。
昨日までのこと。
それから、今日のこと。
いろんなことがあった。
たった半年。
でも。
ずっとずっと中野のことが好きだったなって、思った。
ページをめくる指が、カサッという乾いた音を立てて。
その後、中野がゆっくり視線を移した。
ほんの一瞬、目が合って。
だから。
「……もう、寝るね」
今はまだ、手を伸ばしたら届く場所にいてくれるから。
「おやすみ、中野」
そう言ってから、目を閉じた。
中野は「おやすみ」なんて言ってくれなかったけど。
でも、温かい手がまたそっと頬に触れた。
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