Tomorrow is Another Day
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時計がなくて、誰もいない部屋。
中野のうちだったら、こんなに不安にはならないのに。
なんでここにいなくちゃいけないんだろう、とか。
中野はどんな仕事をしているんだろう、とか。
考えても分からないことばかり。
「気にしなければいいんだよな……」
そう思っても、ぐちゃぐちゃに絡んだ何かが気持ちにつかえて苦しくて。
「結局、ここがどこなのかも、ぜんぜん分からなかったもんな」
マンションを出て、最初は右。それから、また右。少し行って信号を左。また左。
覚えていたのはそこまでで。
車はその後だって何度も何度も曲がったから、デパートがどっちの方角なのか俺にはわからなかった。

何も分からないまま、日曜日には俺だけここからいなくなる。
それで、終わり。
そんなことを考え始めたら、プレゼントを買ったのだって、本当は中野や闇医者や小宮のオヤジに自分のことを忘れて欲しくなかっただけなんじゃないかって思えてきて。
「なんか、俺、やなヤツかも……」
家を出てから、ずっと一人だったから。
みんなに優しくされて甘えているだけ。
中野がジャマだって言ってるのにここにいたいって言うのだって、俺のわがまま。
「……ちょっと頭冷やそうかな」
そう思って、ベッドから降りて。
ひんやりとした窓の前に立った。

ここでも中野は窓の外を見るんだろうか。
それとも、自分のうちだけなんだろうか。
アイツと過ごした部屋。
アイツが見上げてた窓。
何を考えても、ズキンと胸が痛くなって。
今すぐ、中野の顔が見えるところに行きたくなった。
でも、俺の知らない中野が俺にはわかんない話をしている部屋に行きたくはなかった。
「冷たい空気を吸って、ちょっと落ち着かなきゃ」
そう思って。
鍵に手をかけたとたんに、いきなりブザーが鳴って。
「うわっ……?」
めいっぱい驚いて、その姿勢のまま固まっていたら、中野とお兄さんが飛び込んできた。
「ご……めんなさい……窓、開けようって思ったら……」
怒られるって思ったから先に謝ったけど、二人とも何も言わなかった。
中野が俺を窓から離して、お兄さんがブザーを止めた。
鍵をかけ直して、カーテンを閉めて。部屋はまた静まり返った。
「ブザーなんて鳴るって思わなくて……」
言い訳をしても、やっぱり二人とも何も言わない。
ただ、沈黙が流れて、苦しくなってうつむいて。
怒られたいと思ってるわけじゃないけど、何をしても何にも言ってもらえないよりはいい。
「……なんで、なんにも言ってくれないの? これも俺には内緒なの?」
もう、わけが分からなくて。
どうしていいのか分からなくて。
「ちゃんと教えてよ。誰にも言わないから、俺にもちゃんと説明してよ」
俺は中野に聞いたつもりだった。
でも、答えたのはお兄さんの方で。
「先に申し上げておくべきでしたね。ロックを解除せずに開けようとするとブザーが鳴りますので、窓には触れないようにしてください」
優しい声。少し困ったような顔。
その隣で、中野はやっぱり何も言わなかった。
俺が知りたいのはそんなことじゃなかったけど。
「……うん……じゃあ、開けたい時は頼めばいいんだよね」
結局、俺には教えられないんだって分かったから。
他に言う言葉が思いつかなかった。

前にもこんなことがあった。
中野と同じ名前の男。
俺の言うことなんてなんにも聞かなくて。
部屋の中から、開けられないドアと窓。
あの時の不安が胸を占領して、少しだけ体が震えた。

お兄さんがエアコンの温度調節をして。
それから、静かに部屋を出ていった。
俺と中野の二人だけが残されて、また言葉を捜す。
「……もう、仕事終わりなの?」
黙ってるよりはいいかなって思って、話しかけてみたけど。
やっぱり返事はなくて。ただ、沈黙が流れた。
中野は少しも俺の顔なんか見なくて、タバコをくわえたまま険しい顔で考え事をしていた。
「……ね、中野ってば……」
何度呼んでも、視線さえ動かさなくて。
俺、本当にここにいるのかな……って、寂しくなった。

今までだって、いつもそうだったけど。
「ね……」
残った時間は片手で数えられる日にち。
最後くらい話がしたいなって思うのも、俺のわがままなんだろうか―――

泣かないように。
うるさいって思われないように。
中野が答えてくれそうな質問を捜す。
「あのね……俺、中野のうちの鍵、なくしちゃった」
残った日々のうち、あと、どれくらいの時間こうしていられるんだろう。
ここを出たあと、どれくらいの間、俺は中野の記憶の中にいられるんだろう。
「首に掛けてたのに、今日見たらなかったんだ」
たまには思い出してもらえるだろうか。
それとも、最初から俺なんてどこにもいないんだろうか。
「ごめんね」
聞いてても、聞いてなくても。
もう、きっと怒ったりはしないんだろうって思ったけど。
でも、また「ごめんね」って謝ったら、中野は部屋の隅っこに目を遣った。
視線の先に大きな鏡台。その隣に小さなテーブル。
そして、その上に紺色のリボン。
「……なくしたんじゃなかったんだ」
丸められたリボンの真ん中には鍵もちゃんとついていた。
「よかった……」
ほっとしながら、銀色のそれを恐る恐る手に取って。
その温度が伝わった時、またギュッと苦しくなった。

中野から渡されたときと同じ。
鍵は少し冷たくて。
でも、すぐに手と同じ温度になった。

もう、俺には必要ないもの。
分かっていたけど。

鍵を握り締めて中野のところに戻った。
「ね、中野」
あと少し。
最後の瞬間まで。
「これ、持っててもいい?」
側にいられたら。

中野はいいなんて言わなかったし、ダメだとも言わなかった。
でも、その意味はちゃんと分かった。
「……ありがと」
だって、ずっと一緒にいたんだから。
中野のこと、ずっとずっと見てきたんだから。
「帰る日に、返すね」
リボンを首から掛けて、鍵を見つめた。


中野から鍵を渡された日、すごくすごく嬉しかった。
それから今日まで。
短い時間だったけど、楽しかったなって思った。


中野はそのあとも何もしゃべらなかったけど。
不意に俺のあごに手をかけて、あざができてる方の頬をライトに向けた。
「……なに?」
俺はちゃんと手当てをしてもらってたから、うっかり触ったりしなければ、ケガをしてることだって忘れてるくらいだったけど。
俺の目に映った中野は、少しだけ心配そうに見えた。
「中野ってば」
一言でいいから返事が欲しかったけど。
中野は俺の頬から手を離すと、短くなったタバコを揉み消して出ていった。


夕飯の準備ができたからって、お兄さんが呼びに来たとき、俺は窓の外を見ていた。
「どうかしましたか?」
「ううん。なんでもない」
テーブルに並べられた食事は二人分。
闇医者と一緒だったときもお兄さんは食べなかったから、これはきっと中野と俺のなんだろうって思ったのに。
お兄さんは7時ぴったりにかかってきた電話を取って、
「エイジからです」
そう言って中野に渡した。
中野はそれを受け取って「ああ」と言っただけ。
すぐにいなくなってしまった。



静まり返った部屋で夕飯を食べて。
一つため息をつく。
エイジからの電話を中野が待ってたってことくらい俺にも分かったけど。
「……中野、仕事なの?」
話なんてしなくても、せめて近くにいたかった。
今日だってほんの少ししか側にいられなかったから。
「すぐに戻りますよ」
慰めるみたいに、そんな返事をして。
でも、ホントは嘘なんだって分かった。


夕飯を食べ終えて、風呂に入って。
それからまた何時間も経ったのに、やっぱり中野は戻ってこなかった。
「ちゃんと薬を飲んでください。香芝さんが心配しますから」
お兄さんに言われて、出された薬を飲んで。
気がめいって、どうしようもなくて。
少しでいいから闇医者と話したいなって思ったけど。
闇医者に『お兄さんに話しにくいことがあったら電話して』って言われてたのを思い出したから、やめておいた。
だって、俺が電話したら、お兄さんと話しにくかったんだって思われるから。
「お兄さん、クリスマスは何するの?」
話しかけても、頷いたり、少しだけ笑ったりしてくれるだけだけど。
でも、ちゃんと聞いてくれるから。
「家族と一緒? それとも恋人?……俺、おじさんちでクリスマスするのかなぁ」
部屋の隅に置かれた4つの紙袋。
俺の着替えが入った袋と、今日買ってきたプレゼントと。
中野が持ってきた書類サイズの封筒と、金と銀のリボンがかかった大きな紙袋。
「あの中味って何かなぁ。小さい方は仕事の封筒だよね? 大きい方は中野が買ってきたのかなぁ」
どっちにしても俺には関係ないんだけど。
他に話す事も思いつかなかったし、テレビも見たくなかったし。
「クリスマスって感じだよね」
紺色の袋にかかったリボンはキラキラしていて、本当にすごくキレイだった。
「……中野、クリスマスどうするのかなぁ」
新しい恋人ができるまで、一緒にいられるって思ってた。
だから、クリスマスもお正月も中野に恋人なんてできなければいいなって。
心のどこかで思ってた。
「一緒に……いたかったな……」
言葉と一緒にポタポタと涙が落ちた。
このまま泣いたら、きっとお兄さんが困るだろうって思って。
「もう、寝るね」
そう言って立ち上がった。
お兄さんは「おやすみなさい」って言って寝室のドアを開けて。
それから、
「中野さん、本当に仕事ですから」って言葉を足した。
「うん……ありがと」
どんなに遅くなってもいいから、帰ってくるといいのになって思いながら。
おやすみなさいを言って暗い部屋に入った。



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