闇医者と一緒にホテルみたいなマンションを出て、真ん前に待っていた黒い車に乗った。
「おはよー」って挨拶をしたけど、この間とは違う人が運転席に座ってた。
でも、ちゃんと俺にも闇医者にも「おはようございます」って言ってくれた。
「せっかくだから今日はちょっと長めにドライブしようか? マモル君、ドライブ好きでしょう?」
闇医者にニッコリ笑ってそう言われて。
「うん」
まだ診療所が開く時間には早かったから元気よく頷いた。
車の中で闇医者はいろんなことを話してくれた。今年流行してる風邪についてとか、正しいうがいのやり方とか、すごくお医者さんらしい話だった。
「叔父さんちに行っても風邪なんかひかないようにね?」
一通り話し終わったとき、また俺の髪を梳いてくれて。
そのあとで急に思い出したように、
「あ、そうだ、マモル君。あとで中野さんのところに行ってね」
そんなことを言った。
「どこへ行けばいいの? 中野のマンション?」
だったらいいなって思ったけど。
「中野さんが働いているビルだよ」
そのとき闇医者はなんだかちょっと淋しそうな顔で笑った。
診療所の斜め向かいのビル。
俺が屋上で遊んでたとき、中野が窓から顔を出していたから、だいたい何階でどこらへんの部屋なのかは分かってたけど。
「いきなり行ってもいいの? なんていう会社?」
中野の仕事場が見られるのかなって思ったのに。
でも、それは違った。
「待ち合わせは屋上だよ。中野さんの事務所があるビルは屋上に出られないから、通路を渡って隣のビルへ行って、そこから上に出てね」
「うん」
なんでそんなところで、ってちょっと疑問だったけど。
中野が顔を出してた窓はけっこう上の階にあったから、きっと降りてくるのが面倒なんだろうなって勝手に思った。
いろいろ話していたら、時間はあっという間に経ってしまって。
「あ、ちょっと止めてもらえますか?」
あと少しで診療所っていうところで闇医者は車を降りた。
そこは花屋の前で。
「寒いから、マモル君は車にいていいよ」
そう言われたけど。
「あ、俺も行く」
なんとなく闇医者の側にいたくて、あわてて車を飛び降りた。
この辺の花屋は夜遅くまでやってるせいか、朝はたいてい閉まってる。
けど、ここだけは朝も昼も夜も開いてて、バイトの帰りに通るといつもおばさんが手を振ってくれる。
「じゃあ、一緒に選ぼうか」
「うん」
闇医者がそっと俺の背中を押して、二人で並んで店に入った。
おばさんは今日も花がいっぱい入った箱を持って歩いてて。
「おはよー」って挨拶をしたら、「あらあ」って言って笑ってくれた。
「よく見かけると思ったら、先生の弟さんだったのね」
おばさんが花をバケツに移しながらそんなことを聞いて。
「ええ、そうです」
闇医者は当たり前みたいにニッコリ笑ってそう答えた。
いろんな花がずらっと並ぶ店内を見ながら、花を選ぶのなんて久しぶりだなって思った。
闇医者と二人であれこれ話しながら、診療所に似合いそうな花を選ぶ。
花屋の匂い。濡れた床。
ガラスケースの中に並んだ色鮮やかな花。
なんだか、すごく懐かしい気がした。
「……俺ね、いつも母さんの誕生日に花を買って帰ったんだ」
俺の小遣いで買えるのはせいぜい4本か5本だったけど。
「もっと小遣いを貯めておけばよかったなぁっていつも思ってた」
それでも母さんはすごく喜んで、何度も「ありがとう、嬉しいわ」って言ってくれた。
だから、今日は闇医者が好きな花を聞いてみようって思ったんだけど。
「じゃあ、今日はマモル君のお母さんが好きだった花を飾ろうか?」
闇医者の方から先にそんなことを言ったから。
「いいの?」
答えながら、嬉しいような淋しいようなちょっと複雑な気分になった。
闇医者がいつも優しいから。
なのに、俺はなんにもお礼ができなくて。
そのまま、もう会えなくなるんだなって思ったから。
「マモル君のお母さんが好きだった花、ここにあるかな?」
優しい声を聞きながら、
「……うん」
花びらのふちだけピンク色のバラを指差した。
おばさんがニッコリ笑ってカスミ草と一緒に包んで、俺に渡した。
「……あ、でも、あんまりクリスマスっぽくないね」
ちょっとだけそんな心配もしたけど。
「そんなことないよ。帰ったら銀色のリボンとツリー用の小さなベルをつけようね。それならクリスマスらしくて可愛いんじゃないかな?」
一緒に飾ろうね、って闇医者が言って。
俺は悲しい気持ちのまま、でも、頑張って「うん」って答えた。
目が合うたびに笑ってくれる。
闇医者は今日もすごく優しくて。
だから、もうすぐお別れだってことが信じられなかった。
「はい、じゃあ、これはクリスマスの飾りにしてね」
おばさんが金色と銀色のリボンを少し分けてくれて。
なんだか中野が持ってきた紺色の袋みたいだなって思った。
「……中味なにって聞いたら、教えてもらえるかなぁ……」
思わずつぶやいたら、闇医者が首をかしげたから。
「なんでもない」
慌てて首を振ってごまかした。
診療所へはいつもより早く着いて、運転手さんにお礼を言ってから車を降りた。
「ちょっと寒いかも」
待合室はひんやりとしていて、エアコンをつけてもすぐには暖かくならなかったけど。
闇医者が持ってきたツリーの飾りの入った箱を見たらなんだか楽しくなってきた。
「じゃあ、この箱から探してもらえるかな? 診察室と待合室用に2つね」
いろんな飾りが入ってる箱から、金色のベルを探して2つ取り出した。
「わー、クリスマスって感じ」
汚れがつかないようにそれをティッシュでくるんで、花瓶を洗っている闇医者のところに持っていった。
キッチンのドアを開けて。
「持ってきたよ」
そう言ったとき、闇医者は笑顔のまま振り返ったけれど、その次の瞬間、流しに花瓶を落とした。
花瓶は割れて。
それを拾う時、闇医者は少しだけ手を切った。
ケガはバンドエイド1枚で隠れるくらいだったけど。
「ごめんね。俺が急に話しかけたから」
救急箱を片付ける闇医者の隣で、机の上の写真に目をやった。
昨日、闇医者が持ってたのとは少しだけ違うけど。
でも、弟はやっぱり制服を着て、穏やかに笑ってた。
「マモル君のせいじゃないよ。ちょっと手が滑っただけだから」
闇者はニッコリ笑って頷いてから、俺の頭にポンって手を置いた。
温かい手。
優しい笑顔。
花屋のおばさんに聞かれたとき、闇医者は俺のことを弟だって言ってくれたけど。
俺が弟に似てなかったとしても、同じことを言ってくれただろうか。
今と同じように、優しく笑ってくれただろうか……―――
誰もいない待合室にベルとリボンで飾りつけた花瓶を置いて。
最初にここへ来た日のことを思い出した。
闇医者も小宮のオヤジも優しくて。
ケガをして良かったなって思ったっけ。
「……大丈夫。闇医者は、みんなに優しいんだから」
俺が弟に似てなくても、きっと今と同じように優しかったはずって。
自分に言い聞かせて診察室に戻った。
すっかり暖かくなった部屋には闇医者が待ってて、すぐに紅茶を入れてくれた。
診療所が開く時間まであと少し。
そしたら、オヤジとか患者モドキが遊びに来るはず。
みんなが来たら、いろんな話をしよう。
いつもと同じようにたくさん話して、たくさん笑って。
ここでのことを忘れないようにしよう。
そう思っていたのに。
「はい、マモル君。寒いから、ちゃんと着ていってね」
闇医者が中野に借りたコートを手渡した。
それから。
「そろそろ行かないと。中野さん、もう待ってるかもしれないから」
そう言って窓の外を指差した。
中野が働いているビルの隣は同じ造りで違う色のビル。
中に通路があって、二つが繋がってることも今日はじめて知った。
「勝手に入っていいのかなぁ?」
あわただしくエレベーターに乗り込むスーツ姿の人たちを2回見送った後、上向きのボタンを押した。
すぐに来なくてもいいって思ってたのに、エレベーターは二つとも降りてきてドアを開けた。
「……なんか、ドキドキしてきたなぁ」
本当はもっと気持ちの準備をする時間が欲しかったけど。
ただぼんやりとそこに立っていることができなくて、エレベーターに乗った。
最上階で降りて、階段を上がって。
真正面のドアを開けたら、風が頬を刺した。
ただでさえどんよりしている12月の空。
今日はいつもよりずっと灰色に見えた。
診療所のビルよりもずっと高いから、見上げても視界を遮る物はなかったけれど。
「中野、まだ来てないや」
でも、空は同じくらい遠くて。
気持ちいいはずの空間は変に寒々しかった。
なんだかそのまま見上げている気になれなくて、フェンスまで歩いていって地上を見下ろした。
流れる車。たくさんの人。鮮やかな色の広告。
表通り側の華やかさがなんだか気だるくて、静かな北側に移動した。
真下を見たら、ちょうど診療所から闇医者が出てきたところで。
手にはさっき買った花を持っていた。
白衣が風に舞って、闇医者のサラサラの髪がなびく。
下もけっこう風があるんだなって思いながら手を振ろうとしたとき、闇医者はこのビルの真下に座り込んで、置いてあった花と持ってきた花瓶を差し替えた。
―――え……?
ズキン、といやな音を立てて心臓が鳴った。
頭の中までズキズキするほどの鼓動に交じって、記憶の中からいろんなものが一気に溢れてきた。
頭が真っ白になって、呼吸ができなくなって。
苦しくなった時、背中の方向から足音が聞こえた。
何も考えられないまま、条件反射で振り返ると中野はもう俺のすぐ隣りに立っていた。
「……あの花って……闇医者が替えてるの……?」
中野は何も言わずにタバコをくわえて、空を見上げた。
「普通は死んじゃった人の家族とか恋人がするんじゃ……」
言葉を吐き出すのさえ苦しくて、やっと投げかけた質問にも中野の視線は動くことはなかった。
ただ、灰色の空を見上げたまま、
「―――……家族だからな」
そう答えた。
冷たい色の空の中。
その言葉は、乾いた音で響いて消えた。
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