目も口も開いたまま呆然としている俺の隣り。
中野はいつもと同じようにライターをつけて。
「ちょうど今、おまえが立ってる場所だ」
ずっと遠くを見たまま。
「そこから飛び降りた」
静かな声でそう言った。
「なんで、中野がそんなこと……」
でも。
思い出した。
闇医者の言葉。
――弟はね、一番好きな人と話をして、それから天国に行ったんだよ…
俺、それを聞いた時、『いいなぁ』って言ったんだ。
最期の記憶が一番好きな人なら。
幸せだなって思ったから。
でも、その時。
闇医者は淋しそうに笑ってた。
結びつかなかった会話。
やっといろんなことに思い当たっても、まだ何かが信じられなくて問い返す。
「……中野、一緒にいたの?」
いつもはまともな返事なんてしてくれないのに。
中野は、空を見たままその日のことを話してくれた。
ちょうどこんな時期で。
雨が降ってて。
傘も差さずに屋上に立ってた。
誰かが運び入れたビールのケースが置いてあって。
フェンスを越えるのは簡単だったって。
「翌日、父親と母親宛てに遺書が届いた」
中野の横顔はあまりにも表情がなくて。
何を思っているのか俺にはわからなかったけど。
「なんで、そんな……」
写真の中の柔らかな笑顔。
とても幸せそうに見えた。
なのに。
「……さあな」
中野は静かに煙を吐きながら、フェンスに背を向けた。
「最期まで、笑ってたけどな」
楽しそうに笑って。
『じゃあね』と言い残して、飛び降りたって。
遠くを見たまま呟いた。
「手、振ってたよ。おまえが、いつもするみたいに」
似てると思う人と、似てないって思う人がいて。
「……俺、似てる……?」
聞く前から、返事は分かってた。
みんなに言われてたことだから。
「―――ああ、そうだな」
中野が遠くに見てたもの。
アイツが鍵を握り締めて立ってた理由。
いろんなことが重なったけど。
「人懐こくて誰にでも話しかける奴だったよ」
じゃあね、って手を振るクセも。
ぜんぜん聞いてない相手に話しかけるのも。
みんな、みんな。
「……そっか……」
そんな返事をしながら、今頃、やっと気づいた。
闇医者の机の上にあった弟の手紙。
『大好きでしたと伝えてください』
優しい文字が並んでいる手紙は、中野の部屋にあったのと同じ淡いグリーン。
クセのない優しい文字も同じ。
北川に制服を借りた日。
中野は俺のネクタイを結んでくれた。
それから、俺の髪を梳いた。
すごく、そっと。
でも、少し辛そうに。
だから―――
「……中野、闇医者の弟のこと、好きだった?」
きっとそうなんだろうって思って。
ポツリと口にしたひとりごとが、自分の耳を素通りしていった。
あの日、中野が優しかったのも。
何度もネクタイを結んでくれたのも。
ううん。
それだけじゃなくて。
最初に俺を拾ったのも。
きっと、全部、同じ理由。
今さら、それがどうって言うんじゃない。
でも。
みんなが言ってた。
中野はこの先も俺のことは好きにならないって。
その理由も、やっとわかった。
初めて会った日から、中野は一度だって俺の事なんて見てなかった。
今日までずっと。
すぐ隣りに立っていても、中野はいつだって遠くを見つめていた。
目の前にいる俺を通り越して、ずっとずっと遠くを見てた。
笑っていたのに、次の瞬間には消えてなくなった人。
ここで待ち合わせて、二人で空を見て。
笑ったり、話したりしたことを思い出すから。
だから、窓の外ばっかり見て。
どんなに側にいても、俺なんかどこにもいなかったんだって。
「中野」
もう、ここにはいられない。
「……俺、おじさんちに帰るね」
側にいても代わりにはなれない。
悲しい気持ちを思い出させるだけで。
だったら、遠くに行ってしまえばいい。
中野の目に入らない場所。
二度と戻ってこられない場所。
「……今まで、ごめんね」
気がつかなくて、ごめんね。
俺の顔見るの、辛かったよね……―――
その時、中野が振り返ったのは分かったけど。
泣かずにいるのが精一杯で、顔を上げることができなかった。
ざわめきと、クラクション。
わずか数十メートル先の通りには楽しげな人たちがあふれ返る。
見慣れた風景。
でも、すごく遠く感じた。
「おじさんちも、クリスマス、するのかな……」
好きだって。
最後まで言えなかったな……って思いながら。
空を見るために少しだけ視線を上げたその時。
乾いた空気と街の喧騒が途切れて、中野の声が耳の奥に届いた。
「もう、戻ってくるなよ」
診療所のドアを開ける闇医者の背中と。
遠い地上に見える白い花。
「……うん」
それさえ、にじんで見えなくなった。
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