Tomorrow is Another Day
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ただ街の音だけが流れて。
もう仕事が始まる時間なのに。
中野はまだそこに立ったまま、遠くを見ていた。


「……ね、今日、中野のうちに行ってもいい?」
それを聞いたとき、また眉を寄せたけど。
「帰る前に、もう一回だけ行きたいな」
怒られてもいいから。
今までのこと、少しでもたくさん覚えておこうって思って。
ずっと忘れないようにしようって思って。
「……ちょっとだけでいいから」

中野は何も言わなかったけど、俺の腕を掴んでエレベーターで下に降りた。
それから、大通りに出てタクシーを拾って。
「鍵は?」
そんな質問をひとつだけした。
「……持ってる」
首に掛けたリボンを引っ張ろうとしたけど。
中野はもう俺の顔なんて見てなかった。
運転手さんにマンションまでの道順を説明して、金を渡して。
「中野は?」
そう聞いたけど。
バタンとドアが閉まって、車は走り出した。


日曜日はあさって。でも……――――



夜遅く帰ってきた中野はいつもと何も変わらなかった。
同じように新聞を読んで、窓の外に視線を投げて。
俺に言ったのは「早く寝ろ」っていう言葉だけ。

「……うん」
そんな返事もいつもと同じ。
何も変わらない。
でも。
これで最後。

眠れずに壁を見つめていた。
窓に風が当たる音が聞こえるような気がした。

中野がベッドに来たのは、もうすぐ夜明けという時間。
広い広いベッドだけど。
目を閉じたまま、背中に中野の温度を感じていた。
泣いても気持ちの行き場なんてなかったけど。
涙は止まらなかった。

背を向けている中野の肩にそっとキスをして。
おやすみ、って言おうとしたら、腕をつかまれて。
まだ寝てなかったの……って聞こうとした時、唇が触れた。

また涙があふれて、こぼれ落ちる。
中野の手と頬を濡らして、薄闇の中でキラリと光った。

触れる肌の熱。
少し乱暴な愛撫。
最初に会った日から、何も変わらない。
真正面にあるはずの中野の視線。
今までずっとそうだったように、今も俺を通り越してどこか遠くを見てるんだろう。
だから、目は開けなかった。

「……中野……っ……ん、あ……っ」

もっと、深く。
目を閉じたまま、気持ちの奥に刻みつけた。
この痛みも、絶頂も、空白も、背中に回された大きな手も。
タバコの匂いも、肌の温度も。
全部、全部、忘れないように。


明日がどんな日でも。
ずっと、ずっと、この記憶だけで生きていかれるように―――





目が覚めたら、中野はいなくて。
俺の服の上に金が置いてあった。
1万円札が10枚。
メモも何もなくて。
ただ、当たり前のように放り出されていた。
「……おはよう、中野」
金を握り締めて、そう呟いた。

椅子に掛けられたバスタオルを洗濯機に入れて。
中野が脱ぎ散らかしていったスリッパをそろえた。

この金の意味なんて、考えたくない。
これは、中野が最後に俺にくれたもの。
それだけでいい。

だって。
これ以上、悲しくなるのは嫌だったから。


部屋の掃除をした。
アイツの部屋は今でも開けることができないけど。
他の部屋は全部キレイに片付けた。
それから、おととい買ってきたプレゼントの箱を一つだけ取り出して、そっと包みを開いた。
「……中野は、いらないって言ってたもんな」
首に掛けてた鍵。
紺色のリボンを外して、買ってきたキーホルダーをつけた。
それから、また箱に戻して、赤いリボンを掛けなおした。
「あんまり上手く結べなかったけど……いいよね」

手にした荷物はごくわずか。
闇医者からもらった勉強道具と、着替えとプレゼント。
靴を履いて、玄関を出て。
最後だから、ドアに向かって「バイバイ」って挨拶をした。
ヌイグルミがいた頃を思い出して、また少し悲しくなった。



乾いた空気が肌に当たってぴりりと音を立てる。
12月の街は少し鈍い色。
夜になればキラキラ光って見えるのに。
日を追うごとに灰色になる。
診療所もまだクリスマスの飾りつけはしていなくて、白い壁が寒そうだった。
「あれ、マモル君、どうしたの? 中野さんに日曜日まで部屋を出るなって言われなかった?」
闇医者が驚いた顔で出迎えた。
「うん……でも、今日帰ることにしたんだ」
「一人で?」
「うん」
「いいの?」
「うん……中野に送ってもらうと泣きそうな気がするから」
それは嘘じゃない。
でも、それだけが理由じゃない。
「マモル君が突然いなくなったら、中野さん、淋しいんじゃないかな」
そんなことないよ、って言おうとしたけど。
口に出したら、泣いてしまいそうだったから。
「……闇医者から、先に帰ったこと話してもらえる?」
ただそれだけを返した。
闇医者はさっきからずっと俺の髪を撫でていて。
間に何度もため息をついた。
「いいよ。でも、家に着いたらちゃんと中野さんに電話してあげてね。叔父さんの家からだと電話しにくかったら、手紙でもいいから」
そう言って診察室から便箋と切手の貼ってある封筒を持ってきて俺の荷物の中に入れた。
「住所、わかる?」
「……うん」
本当は知らなかったけど。
でも、もういいやって思ったから。
ただ頷いて、闇医者が入れてくれたレターセットを眺めていた。
「あのさ、闇医者」
「何?」
「クリスマスの準備、手伝えなくなっちゃってごめんね」
約束してたのに。
ずっとこうしていられると思ってたのに。
「いいんだよ、そんなこと。マモル君も叔父さんの家で楽しいクリスマスをしてね」
「……うん」
思い出すのは母さんが死んだ時に来てた叔父さんと叔母さんの顔。
自分が歓迎されていないことくらい、俺もわかってるから。
もう、その話はしたくなかった。
「中野にはお礼、言えなかったけど、でも、ちゃんと全部の部屋、掃除してきたし……あ、アイツの部屋だけはしてないけど……」
結局、それ以来、最後まで開けることのなかったドア。
今でもそこはアイツの部屋で、大切な思い出が閉じ込められているから。
「掃除してあげたかったけど……あそこは中野に入るなって言われてるから、仕方ないよね」
別れた日のことを今でもはっきり覚えているから。
あおるように酒を飲んでた中野の横顔を見てるのがつらかったから。
「でも、大事な部屋だから、俺がしなくてもきっと中野がこっそり掃除してると思うんだ」
闇医者も小宮のオヤジも何も言わなかったけど。
ここにいたら、どんどんどこへも行きたくなくなりそうだったから、急いで用事を伝えることにした。
「それでね、闇医者にプレゼント買ってきたんだ」
クリスマスっぽくラッピングされたプレゼントを袋から出して、闇医者に渡した。
「写真立てなんだ。家族の写真だけじゃなくて、友達とか、恋人とか、闇医者が楽しいなって思う写真を入れてね」
弟のことはどんなに時間が経ってもきっと忘れられないだろうけど。
それだけじゃなくて、楽しいことも毎日思い出せるように。
それから。
たまには俺のことも思い出してくれたらいいなって思って。
「……ありがとう。マモル君とみんなで写真撮っておけばよかったな」
「今からカメラ買ってくればいいって、なあ、先生」
小宮のオヤジにそう言われたけど。
「ううん、おばさんが心配しないように早く帰ることにしたから」
少しでも早くここを出ようと思った。
『帰りたくない』って言ってしまわないうちに。
「じゃあ、今度、マモル君が遊びに来た時に一緒に撮ろうね?」
「うん」
そう答えたけど。
闇医者の顔を見ることができなくて、自分のつま先に視線を落とした。


ごめんね、闇医者。
俺の返事、今日はうそばっかりで……―――


「……それからね、小宮のオヤジにもプレゼント」
胸ポケットに入れておいてもちょうどいいくらいの長さのペンが2本。
「ちゃんと仕事もするようにって思って。細いのは奥さんのなの。おそろいだから、愛人とかにあげないで、ちゃんと奥さんに渡してね」
小宮のオヤジは診療所で遊んでばっかりいるけど、でも、本当は愛人なんていないと思うから。
「マモルちゃんには敵わないなあ」
オヤジは笑いながら「ありがとう」って言って、でも、ちょっと涙ぐんでいた。
「それからね」
闇医者に最後のお願いごと。
自分で渡せなかったから。
「これ、中野に渡してもらえる?」
本当はこっそりマンションにおいてこようと思ったんだけど。
ちゃんと説明しないと、中野はきっと受け取ってくれないから。
闇医者の手に乗せた小さな箱。
「中野んちの鍵。キーホルダーがクリスマスプレゼントなんだ」
中野は俺からのプレゼントなんていらないって言ってたけど。
「中野の新しい恋人にあげるプレゼント。鍵を用意して待ってたら、恋人だって早く見つかるかなって思ったから……」
できればクリスマスまでに見つかるといい。
無理だったらお正月まで。
それも無理だったとしても、いつか、きっと……―――
「そうだね」
なのに、闇医者は鍵を見つめたまま複雑な表情をしていた。
「……ダメかな……俺、一生懸命考えたんだけど」
「そんなことないよ。こんな素敵なプレゼントをもらったら、僕なら嬉しくて泣いちゃうな」
そう言った闇医者は、もうちょっとだけ泣いていた。
小宮のオヤジも鼻をすすってて、俺まで泣きそうになったけど。
でも、今だけは頑張らないといけないから。
「これから、毎日ちゃんとお祈りするから。絶対大丈夫だよね」
鍵を返すのが嫌で、今日までずっとお祈りできなかったけど。
でも、今ならちゃんとお願いできるから。


だから、どうか。
中野のこと、世界で一番大切にしてくれる人が
この鍵を受け取ってくれますように……―――


「……じゃあ、もう行くね」
本当は今でもずっとずっとここにいたいって思うけど。
「気をつけて帰るんだぞ、マモルちゃん」
「うん。ありがと」
でも、それはダメだから。
じゃあね、って言おうとしたら、闇医者に引き止められた。
「マモル君、中野さんが持って来た紺色の大きな袋があったでしょう?」
「うん」
「開けてみた?」

金と銀のリボン。大きな紺色の袋。
クリスマスまであと少し。
ついこの間まで、一緒にいられるって思ってた。
でも。

頑張って、頑張って。
やっと笑って。
「……ううん。だって、あれは中野のだから」
そう答えたら、闇医者の目から涙がこぼれた。
「どうしたの?」
自分の言った言葉を思い出してみたけど、闇医者が悲しくなるようなことなんて何もなくて。
「ごめんね。俺、なにか変なこと―――」
言いかけたら、闇医者も無理に笑って首を振った。
「ううん。マモル君じゃなくてね……」
ポタッと乾いた地面に涙が落ちて。灰色のしみになって。
「……中野さん、本当に馬鹿だなって、思っただけ」
そんな返事が妙に悲しくて。
俺はフイッと目を逸らせた。
このままここにいたら、きっと泣き出す。
どこにも行きたくないって、言ってしまう。
だから。
「……もう行くね」
闇医者の温かい手が俺の髪を梳いて。
「気をつけてね」
濡れたままの瞳が向けられた。
「うん」
オヤジにも頭を撫でられて。
「ちゃんと幸せになるんだぞ?」
みんなして泣いてて。
こんなの、らしくないって思ったけど。
「うん。闇医者も小宮のオヤジも元気でね。いろいろありがと」
闇医者の真似をしてニッコリ笑って。
「じゃあね」
いつもみたいに手を振った。


嘘つくのなんて、簡単だなって。
そんなことを考えながら。


でも、胸が痛かった。




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