Tomorrow is Another Day
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本当はすぐにでも電車に乗って遠くに行ってしまうつもりだったけど。
「……北川に、制服返さなきゃ」
ほんの数日。俺の魔法のアイテムだった制服。
理由も分からないまま信じてた。
俺は今でもネクタイは上手に結べないままで。
でも、あの日のことは鮮明に残っている。
「……もう、思い出すのやめようっと……」
優しかった中野のこと。
写真で笑ってた弟のこと。
思い出したら、きっと、一人で頑張れなくなる。

母さんが死んだ日に、楽しかったことを閉じ込めてしまったように。
ここでのことは心の底に沈めてしまえばいい。
中野と出会う前に戻るだけ。
またどこかで空を見ながら暮らしていくだけ。

なにも考えず、後悔もしないで。
知らない誰かに抱かれて金をもらって。
今日は天気がいいとか、いい客に当たったとか。
そんな他愛もないことだけを喜びながら。
誰の気持ちも欲しいと思わずに。
ただ、笑って今日を過ごしていくだけ……―――




北川の事務所の前に着いたとき、涙がこぼれた。
ずっとガマンしてたのに、どうしてもダメになって。
ビルの入り口にも通路にも誰もいなかったから、エレベーターの近くにある非常階段にうずくまって、何度も何度も涙を拭いた。
北川に会う前に泣き止まなくちゃって思ったけど、どんなに頑張っても涙は止まらなかった。
何分そうしていたか分からなかったけど。
エレベーターのドアが開く音がして。
それからすぐに話し声が聞こえた。
俺が座ってる場所からは何も見えなかったけど、声は北川とボディーガードのお兄さんのものだった。
「……盗まれたものはなかったんですか?」
お兄さんはなんとなく深刻そうだった。
「いや、これと言って別に。バイト代さえ持っていかなかった」
「行き先に心当たりは?」
「さあな。職務怠慢で逃げなきゃならなくなっただけだろ」
北川はいつもと同じ。相変わらず全部がどうでもよさそうだった。
「なぜそう言い切れるんですか? 必要な情報が手に入って向こうに呼び戻されただけでは?」
お兄さんの声は真剣なのに。
北川はそれを聞いてもっと笑って。
それから、
「……アイツ、中野に惚れてたからな」
そんなことを言った。
一瞬、俺のことなのかと思ったけど。
「殴られたこともショック受けてたしなぁ……」
そこまで聞いて、やっと、それが誰のことなのか分かった。

―――エイジ、いなくなったんだ……

人気のないマンションの通路は静まり返っていて、俺の呼吸まで聞こえてしまいそうな気がしたけど。
二人の話し声が途切れた時、北川が笑うのを止めた。
「で、万一見つけたらどうするって?」
チャラ……という鍵がぶつかり合う音と、ドアが開けられる音。
「こちらに寝返ったことが理由で追われているなら、まだ用途はあると思いますが」
「じゃ、そっちに連絡すればいいんだな?」
「そうですね。お願いします」
そのまま二人は事務所の中に消えて、話し声も一緒にドアの向こうに吸い込まれた。
また、俺には分からない話。
「……でも、もう関係ないもんな」
北川もお兄さんも。エイジのことも、他の話も。

涙が止まったのを確認してから立ち上がって、事務所のドアの前に立った。
ノックしようかなって迷ったけど。
結局、借りていた制服だけをそっとドアの前に置いて、駅に向かった。


これで全部終わり。
岩井や患者モドキにはきっと闇医者が話してくれるし。
バイト先のヤツには北川が説明してくれるから大丈夫。

もう、誰も俺のことなんて気にしないはずだから……―――



冷たい空気の中。人込みを泳ぐように駅への道を急ぐ。
ちょうどお昼時なのか、通りにはたくさんの人があふれていた。
キラキラしているクリスマスの飾り。
明るい音楽。
華やいだ街を抜けて、スーツ姿の人たちに紛れて地下へ続く階段を降りた。
誰にもぶつからずには歩けないほどたくさんの人がいる駅ビルの地下。
切符の自動販売機の前でポケットの金を数えた。
コインが少し。
それから、中野にもらった一万円札が十枚。
「……でも、これは使わないもんね」
札だけもう一度ポケットにしまって。
持ってたコインを全部自動販売機に入れて切符を買った。
その金額で行ける一番遠い駅の名前を運賃表のパネルで確認して、口の中で何度かつぶやいてから改札をくぐった。

ホームに出るともう電車は来てたけど。
なんだかすぐには乗れなくて、一つ目を見送った。
オレンジ色の車両が出ていくときに冷たい風が吹き抜けて、頬に刺さって。
「……頑張らなきゃ……」
泣きそうな気持ちを振り払うために、何度も言い聞かせて。
ポケットの中で中野にもらった金を握り締めながら、次の電車に乗った。


乗った時には人がたくさんいたけど、新宿から遠くなるにつれて車内はだんだんまばらになってきた。
窓の外の景色も少しずつ変わっていく。
高いビルが少なくなって。
ドアが開くたびに空気の匂いも違っていくような気がした。
ぼんやりと突っ立ったまま、ホッとするような淋しいような複雑な気持ちでずっと窓の外を眺めていた。
「……ここだ」
駅名を確認しながら、降りたのはごく普通の街。
駅の前の通りは広かったけど、それほど人はいなかった。
背の高いビルも少なくて、明るいような、ガランとしているような変な風景だった。
商店街、コンビニ、マンション、信号。
本当にどこにでもあるような普通の街。

でも、俺の知らない街。

「とりあえず、寝るところ探さなきゃ」
暗くならないうちに寝るところと客を探す場所だけはみつけておかないと。
「暗くなったら、どこ歩いてるかわからなくなりそうだもんな……」
そう思って、急いで街の中を歩き始めた。
まだ太陽は高くて、日も当たってて。寒くなんかないはずなのに。
「……どうしてかなぁ」
心細くて、寂しくて。それ以上歩くことができなくなった。
でも、そこにいたらどんどん悲しくなりそうだったから、少しでも人の多いところに行こうと思って、また駅の方に歩き出した。
あんまり大きくない公園。
怪しげな小さな飲み屋が並ぶ通り。
そこを抜けたところに大きめのコンビニ。
「……ここでちょっと休もうっと」
本当はお腹も空いてたし、のども渇いてたけど。
ポケットのなかには1円玉と5円玉しかなかったから、コンビニには背を向けてそこに座り込んだ。
夜はあの通りで客を探そうかな、とか。
寒くて夜は寝られないかもしれないから、今のうちに公園の日向で昼寝をしておこうかな、とか。
いろいろ考えたけど。
立ち上がる気力もなくて、そこでボンヤリしてた。
「お腹が空いてなければ、もっと元気なはずなんだけどな……」
それでも、コンビニは大きなマンションの一階にあって、人の出入りもまあまあで。
だから、救いようがないほどはしんみりした気分にならずに済んだ。



暖かかった時間はあっという間に過ぎて。
暗くなってもいないうちから、すっかり寒くなった。
「……今からこんなで、大丈夫なのかなぁ」
今夜のこととか、明日のこととか。
雨が降ったらどうしようとか、雪だって降るかもしれないとか。
いろいろ考え始めたら心細さが倍増して、どんどん落ち着かなくなって。
コンビニの周りをうろうろしながら、眠れそうな場所を探した。
「ここなら寝られるかも」
コンビニのあるマンションとその隣のビルの間はすごく狭苦しくて、雨が降っても当たりそうになかった。何よりも換気扇から下向きに吹き出してくる空気がふんわり暖かだった。
それだって夜中には止まってしまうかもしれないんだけど。
「寒い時間は一秒でも短い方がいいもんな」
そこをベッドに決めて、コンビニのゴミ箱から新聞紙を拾って置いてみた。
隙間の出入り口にはいろいろと物が置いてあって、風は当たらないし、外からは見えないし、ちょうどいいかなって思って。
「今日から、ここが俺のうち」
あとでもうちょっとたくさん新聞を拾ってこなきゃ……って思いながら、持ち歩いてた荷物もそこに隠した。
これで身軽になったから、客でも探しにいこうかなって思ったけど。
「……お腹すいたなぁ」
やっぱり、なんとなくダルくて。
頑張らなきゃって思えば思うほど、頑張れそうになくて。
またコンビニの前で、ただぼんやりと買い物を済ませて出ていく人を眺めてた。
「明日のお天気はどうなのかなぁ。駅まで行けば天気予報が見れるかなぁ」
不安になるようなことは出来るだけ考えないで。
少しでも楽しいことを見つけようって思いながら、半分だけ振り返ってコンビニのレジにある小さなクリスマスツリーに目をやった。

こんなふうに勝手に出てきたりしなければ。
日曜まで中野と一緒にいられたのに。
今日も「おかえり」って言って、側にいられたのに……―――

「……ううん、ひとりで頑張るって決めたんだもんね」
クリスマスまであと何日あるんだろう。
「闇医者、ちゃんと中野に渡してくれるかな……」
思い出さないようにしようって決めたばっかりなのに。
空を見ても、街を見ても、そこから気持ちが離れなかった。


その日の夜は何回か飲み屋のある通りを往復して、様子を見てからまたコンビニの前に戻ってきて。
お腹も空いてたし、本当はすぐにでも客を探さなきゃいけないって分かってたけど。
「……今日くらい、頑張れなくてもいいよね……」
持っている服を全部着込んで。
暖かい空気が漏れてくる場所にうずくまって。

新宿の街と。
手放した鍵と。
それから。
大好きだった中野の横顔に、「バイバイ」って言ってから、目を閉じた。




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