Tomorrow is Another Day
- 77 -




酔っ払いの男と一緒にエレベーターに乗って、降りたのは8階。
男が立ち止まったドアには「神田法律事務所」と書いてあった。
「法律事務所って何するところ?」
聞いてみたけど。
「普通は弁護士が仕事するところだろうけどな。ここはそもそも仕事のために借りたわけじゃなくて、なんていうか……アレだ、ほら……」
酔っ払ってるから仕方ないんだけど、あんまりちゃんとした説明はしてもらえなかった。
でも、どうせ俺には関係ないことだから、
「ふうん」
適当な返事をして、男の後からドアをくぐった。


足を踏み入れた部屋は廊下からしてかなり散らかっていた。
リビングもまだ引越しの途中みたいな感じで、開けっ放しのダンボールがいくつも置いてあった。
「越してきたばっかりなの?」
そういえば掃除用の洗剤とかいろいろ買ってたなって思いながら聞いてみたけど。
酔っ払いの男はエアコンとテレビをつけて冷蔵庫からビールを取り出すと、そのまま間仕切りの向こうに行ってしまった。
「あ、ねえってば」
後をついて行ったら、仕切りの向こう側には別の部屋があって。
そこは、ごく普通のベッドルームになっていた。
「ここに住んでるの?」
そう聞いたら、「これから住むんだ」って返事があったけど。
「ちょっと来い」
そう言われて部屋に入った次の瞬間にはもうベッドに押し倒されていた。
「大人しくしてろよ」
「……え……なに……?」
男の手がいきなりまだ濡れている俺のシャツにかけられた。
「やらせて金取ってんだろ? おまえが通りで客引いてるの見たんだよ」
それから、ニヤリと笑って。
「なんなら、今から警察に連れていってもいいけどな」
それを聞いて、本当は全部分かってて俺を連れてきたんだってやっと気付いた。
男はニヤニヤ笑って俺を見下ろしてたけど、すぐに着込んでいた服に手をかけた。
「脱がないなら破くぞ。どうする?」
言い終わらないうちに、男の手が何の遠慮もなく俺のシャツの襟元を引っ張った。
「……あ、待っ……」
反射的に体をよじったら、プチッという小さな音の後、ボタンが床に転がった。
「ちょっと待ってよ。自分で脱ぐから」
本当はこんなの嫌だって思ったけど。
「いい心がけだな」
怒らせて警察に突き出されるよりは、この場をなんとかやり過ごした方がいいだろうって思ったから。
「……そしたら、言わないでいてくれるの?」
俺の質問に男はまたニヤッと笑って。
「それはおまえ次第だ」
冷たい手がファスナーを下ろしたウエストから差し込まれた。
それから、パンツと下着を脱がされて。
「脚、開いて自分でやれよ。痛い思いはしたくないだろ?」
別にこんなのいつものことだけど。
でも、北川の方がもうちょっと優しかったよなって思いながら、「うん」って小さく返事をした。
準備する間も男はやっぱりニヤニヤしたまま俺を見下ろしてて、その視線に耐えられなくて、ギュッと目を瞑った。
客を取ったって同じことなんだから……って心の中で繰り返しながら、ただ時間が過ぎるのを待った。
前は全然平気だったのに。
抱かれた瞬間、やっぱり中野のことを思い出した。
中野と最初に会った日も同じ。
嫌だって言ったのに無理やりヤラれた。
何も違わない。
ううん、むしろ、あの時の方が身体はつらかった。
でも……―――

「う……」って短い声が聞こえて、果てた男の身体に押しつぶされた。
その重みで呼吸ができなくなりそうだったけど、なんとか必要なことだけ聞いた。
「……俺、今日、ここに泊めてもらえる?」
聞く前からダメって言われるような気はしてたけど。
「冗談だろ。身元の分からないガキなんて何するかわからないってのに」
男はダルそうに起き上がって、何のためらいもなく俺をベッドから落とした。
きついアルコールの匂いと、エアコンから噴き出す生暖かい空気。
それでも外で眠るよりはずっといい。
「絶対なんにもしないって約束するから。ここがダメなら廊下でもいいから」
淋しいとか、悲しいとか。そんな気持ちじゃなかったけど。
どうしても一人になりたくなかった。
「そんなに言うなら―――」
男はまたニヤリと笑って荷造りに使っていたひもを取り上げた。
「手と足を縛ってもいいんなら置いてやるけどな」
どうする……って聞かれて、ちょっとだけ考えた。
寒かったら寝られないかもしれないけど、暖かいところなら手と足くらい縛られても寝られるはずだよな。
「……服、着てからでもいい?」
さすがに素っ裸はいやだなって思ったから、恐る恐る聞いたら、「さっさとしろよ」って言われて。
急いで散らばっていた服をかき集めて身に着けた。
本当はシャワーを浴びてからにしたかったけど、贅沢は言ってられないし。
怒らせたらすぐにでも追い出されそうだし。
「着たよ」
その言葉と同時に男はさっさと俺の手足を縛ると一人でベッドにもぐり込んだ。
「騒いだら口を塞ぐからな」
チラリと視線を送った先にはガムテープ。
「……うん」
廊下で寝ろとは言われなかったら、とりあえずその場に丸くなった。
「……おやすみなさい」
そう言ってみたけど、男からは何の返事もなかった。
当たり前なんだけど。
一人でやっていくってこんなだったかなって思って、ちょっとだけ悲しくなった。

こんな時に思い出すのは、やっぱり中野のこと。
初めて会った日、中野はコイツよりもずっと乱暴だったけど。
俺の背中に回された手は大きくて温かかった。
金も鍵も全部テーブルに放り出したまま。
何も言わずに隣で眠らせてくれた。


……中野に、会いたいな―――


夢でもいいから。
今日だけは、中野のそばにいたかった。
なんだか切なくて、眠れないかもって思ったけど。
部屋はすごく暖かくて、すぐに意識は遠くなった。







身体の痛みと、電話の音で目が覚めた。
寝起きでぼんやりしてたから、最初は自分がどこにいるのか分からなかったけど。
「……あ……そっか……」
縛られた手足を見ながら、昨夜のことを思い出した。
「おはよー。ね、電話だよ」
それでも何の反応もなかったから、なんとか上半身を起こしてベッドを覗き込んでみたけど。
男は死んだように眠っていて起きる気配はなかった。
「ねーってば」
その間も電話はずっと鳴り続けていて、しかも、だんだん音が大きくなっていた。
「出てあげたいけど、この手じゃ受話器取れないもんなぁ」
仕方がないから、切れるまで知らん顔していようって思ったけど。
なぜか電話はずっとずっと鳴りっぱなしで。
「きっとすごく大事な用事なんだろうなぁ」
気持ちよさそうに寝てるのを起こすのも可哀想な気はしたけど、そうも言ってられないし。
「ねー、電話だってばっ」
普通ならびっくりして飛び起きそうなくらい大声で叫んでみた。
なのに男は数秒経ってから、「う……ん」って間の抜けた返事をしただけだった。
「あのさ、電話、さっきからずっと鳴ってるよ」
目が開いたのを確かめてからもう一度言ったら、男は急にガバッと起き上がって隣の部屋に走っていった。
「なんだ、すぐに起きられるんじゃん」
男の後を追って這っていってみたけど、ドアの前までたどり着いたときには話はもう終わってた。
「あんなに何回も鳴らしたくせにあっという間に終わりなんだなぁ」
なんだったんだろうって首を傾げる俺に気付くこともなく、男は受話器を置いて舌打ちした。
「ちっ、疑いやがって」
渋い表情でそう言いながら、慌ててシャツを着ると顔も洗わずにあたりを片付け始めた。
「……ねー、あのさ、これ解いてよ」
ものすごく機嫌が悪そうだったから、ちょっと遠慮して小さな声で言ってみたけど。
「うるせえよ。ったく、面倒くさいガキだな」
やっぱりちょっと怒られてしまった。
「……だって」
だからといって、このままにしておくわけにもいかないから、ブツブツ言いながらも手と足のひもを切ってくれた。
やっと自由になって、伸びをして。
それから、勇気を出して聞いてみた。
「あのさ……シャワー、借りちゃダメ?」
夕べは言われた通りにおとなしく寝てたから、ちょっとは信用してもらえるかなって思ったんだけど。
「ちょっとだけでいいから」
そう言っても男は不機嫌な顔のままだったけど。
「5分で済ませて出ていけよ」
その後はもう俺のことなんてどうでもよさそうだった。
「ありがと」
昨日もおとといも風呂に入ってないもんなって思いながら、スキップして風呂場に行って、急いでシャワーを浴びた。
ボディーソープとシャンプーを黙って借りてしまったけど。
「ちょっとだけだから、大丈夫だよね?」
そう勝手に決めて、すっきりしてバスルームを出た。


「ありがと。すっきりした」
できれば髪が乾くまで廊下の隅っこにいたいなって思ったから、またちょっとだけ頼んでみようかなって考えていたら。
「ちょっと手伝え」
いきなりそう言われて布巾を渡された。
「え…?」
最初は「なんで?」って思ったけど。
よく考えたら、ここを出た後はこれといってやることがないし。
だったら暖かいところで掃除してる方がいいかなって思って、快く引き受けてみた。
「うん、いいよ。どこを拭けばいいの?」
そう返事をしたら、男はちょっとだけ機嫌がよくなって、
「その棚を拭いて、ダンボールの中のファイルを番号順に綺麗に並べろよ」
わりと優しい口調で返事をしてくれた。
「うん」
よくよく聞いたら、偉い人が様子を見に来るから、午後5時までに全部を片付けてピカピカにしなければならないらしい。
「大丈夫、任せて。俺、掃除は好きなんだ」
自分の得意なことを頼まれるのは嬉しいよなって思いながら、そう答えたら、さらに機嫌がよくなって、
「終わったらメシくらいは食わせてやるから」
そんなことを言った。
「ホント?」
お腹が空いてることはできるだけ考えないようにしようって思ってたけど、本当はもう胃が痛くなるほどペコペコだったから、それは本当に嬉しかった。
「じゃあ、頑張るー」
ちゃんと掃除を終わらせてご飯を食べて、そのあと客を見つけにいけばいい。
シャワーも浴びたし、暖かいところで寝られたし、ご飯も食べられたら、今日はカンペキかも。
「いい感じー」
急に明るい気分になって、ちょっとはしゃぎながらダンボールを開けていった。
ファイルは分かりやすいところに番号が書いてあって、並べるのもそんなに大変じゃなかった。
でも、よれよれスーツの男は掃除が好きじゃないみたいで、俺がせっせと片づけをしている間、ずっと新聞を読んでいた。
そんなわけで、結局ほとんど俺が一人でやったけど、それでも昼をちょっと過ぎた頃には全部のダンボールが空になった。
「なんだ、意外と早く終わったな」
掃除機をかけ終わった段階で、男はもうソファに座ってくつろいでいた。
あとは床を磨いて、お客さん用のスリッパとかを買いに行くだけ。
そしたら、ご飯だ……って思っていたら。
「とりあえず昼飯だな」
男が面倒くさそうに立ち上がった。
「ホント?」
そう言われた瞬間にクーッてお腹が鳴って。
「ああ。心配しなくてもちゃんと食わせてやるよ」
男は本当にどうでも良さそうな口調でそんなことを言って、俺を近くのファミレスに連れていった。
食べている間も話しかけてみたけど、ぜんぜん反応してもらえなかった。
「返事してくれない人って、中野だけじゃないんだな……」
そんなひとりごとを言ったときだけ、「なんだよ」って聞き返されて。
「ううん、なんでもない」
俺は慌てて首を振った。


お昼を済ませて戻ってきた後、男はダルそうに座って電話をかけはじめた。
もう掃除をする気なんて全然なさそうで、
「ちゃんと拭いておけよ」
偉そうにあごで雑巾を指し示したから、なんかちょっとずるいかもって思ったけど。
「……うん」
お腹も一杯になったし、部屋がキレイになるのは楽しいから、まあいいやってことにした。
一時間くらい床磨きをして、
「終わったか?」
「あとちょっとだけ」
ちょうどそんな会話をしてた時に、ピンポンってインターホンが鳴った。
男はすごく面倒くさそうに立ち上がって、壁の受話器に向かって「はい」って言ったけど。
その一秒後にいきなり固まって。
受話器を戻すといきなり俺の腕を掴んだ。
「ちょっと隠れてろ」
そのままベッドルームに引っ張っていかれて、クローゼットの中に閉じ込められて。
「え……なに??」
わけが分からないまま聞き返したら、
「いいから、ここで大人しくしてろ。家出したガキを置いているなんて分かったらクビになるからな。絶対に音は立てるなよ」
そう言って、そのままバタンと寝室のドアを閉めてしまった。
バタバタという足音と、少しの沈黙。
それから、すぐに話し声が聞こえた。



Home    ■Novels    ■TomorrowのMenu    ■Back     ■Next