Tomorrow is Another Day
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「それで?」
盗み聞きしようなんてぜんぜん思ってなかったんだけど。
隣の部屋の壁にピッタリくっついたクローゼットの中で音を立てないようにあんまり息もしないでいたから、声は本当にはっきり響いてきた。
「残りはまだ調査中ですが……」
俺をここに連れてきた男と、それよりもずっとオヤジっぽい声の男と。
何もしゃべってなかったけど、たぶん、あともう一人くらいいるような感じで。
イスを引く音とか、部屋の中を靴のまま歩き回る音が聞こえた。
「何日経ったと思ってるんだ。相変わらず役に立たないな」
オヤジっぽい男はすごく偉そうで、ひどく感じが悪くて。
俺ならあんな言い方されたら怒るけどなって思いながら、クローゼットの中で丸くなってた。
「情報は全部例の―――久世(くぜ)社長の片腕という男が握っているようですが……」
よれよれスーツの男もなんだか真面目に返事をしていて、仕事の時は別の人みたいだった。
「久世の手元には何のデータも残っていないのか? 仮にも社長だぞ?」
最初から全部聞いてたけど、やっぱり俺にはぜんぜん分からなくて。
つまらないなって思いながら真っ暗な天井を見上げた。
「こちらの手の者が紛れ込んでいることに気付いたのでしょう」
クローゼットの中はちょっと寒くて、油断をするとくしゃみをしてしまいそうだったから、すぐそばにあった上着をそっと手繰り寄せて、それに包まった。
「さすがに堅気じゃない男は違うな。裏のやり方など百も承知というわけか」
二人の会話は俺には違う国の言葉くらい意味不明で。

―――前もそうだったもんな……

中野や北川の話も俺にはぜんぜんわからなくて、その度に、分かるように話して欲しいなって思ってた。
俺だけなんにも知らないまま、いろんなことが過ぎていって。
それが不安で仕方なくて。
でも。
「……こいつの話もぜんぜん分かんないもんなぁ……」
結局、俺がバカだからなんだなって、隣りの部屋から漏れてくる声を聞きながら思った。
俺になんにも話してくれない中野をひどいなって思ったこともあったけど。
きっと、どんなにちゃんと説明しても俺には解らないから話してくれなかっただけなんだって、今になって思った。
「―――……では、いかがいたしますか?」
全然知らないヤツとちょっとだけしか知らない男の会話。
「社に送り込んだ者には引き続き情報収集をさせておけ。どうせロクなものは出ないと思うがな。こっちはこっちで次の手を―――早急に例のアレを見つけ出せ」
中野と北川の話なら、少しはわかる部分があったけど、今日は本当にちっとも分からなくて。
なんだか自分が嫌になってきた。
このまま聞いてたらどんどん落ち込みそうだったから、客が早く帰りますようにってお願いをしてみたけど。
「ですが、久世社長の別宅を出たあとは全くの行方不明でして……」
男の声はすごく深刻そうで。
だから、当分終わらないんだろうなって思ってがっかりした。
「一度狙われているからな。どこかに匿っているんだろう。とにかく他にネタがない以上は全力で探すことだ」
普通の言葉なのに。
なんで一個も分からないんだろう。
そう思ったら悲しくなってきたから、他のことを考えた。
今日これからのこととか、明日のこととか。
客が見つかって金をもらったら、もっと遠くに行こうかなとか。
クリスマスまであと何日なのかなとか。
診療所はもう飾り付けをしたのかな、とか……
そのうち、考えごとさえ飽きてきて。
アクビをしかけたとき、隣の部屋で変な沈黙が流れた。
「白井」
偉そうな男の声。
それがすごく冷たく聞こえて、何だか俺まで背中が寒くなった。
よれよれスーツの男もきっとそう思っていたんだろう。
「……はい」
そう答えた声が引きつっていた。
その後、また嫌な沈黙があって。
何かが切れたみたいに何も聞こえなくなった。
なんだろうって思ったけど、考えてもわかるわけないし。
とりあえず、あいつの名前が白井だって分かったから、これからは名前で呼ぼうかなって思ったけど。
「……でも、そしたら盗み聞きしてたのバレバレだもんなぁ……」
思わずひとりごとを言ってしまって、慌てて口を押さえた。
外まで聞こえたかもしれないと思って、そっと隣りの部屋の方に注意を払ってみたけど。
耳に入ってきたのは、偉そうな男の「調べておけ」という声と白井の「はい」という返事だけで。
よかった……ってホッとしてたら、カツカツいう靴音が少し遠くなった。
きっと何もしゃべらなかった男が玄関に向かったんだろう。
残ったのは偉そうな男と白井の二人。
でも、嫌な空気は変わっていないみたいで、まだピリピリした感じがこっちまで伝わってきてた。
「―――ただし、今までの奴等のようなヘマはするな。もっとも、おまえもまだ処分されたくはないだろうがな」
静かな部屋に男の薄ら笑いが響いたけど。
それに対しての白井の返事は聞こえなかった。
笑い声が途切れたあとは、足音とドアが閉まる音。
それから、また沈黙。
「……嫌なヤツだなぁ」
もう終わったのかなって思ってドアの隙間に片目を押し当ててたら、いきなりクローゼットが開いて、俺は勢いよく転げ落ちた。
「盗み聞きしてたのかよ」
白井はちょっとだけ眉を寄せたけど。
「……聞くつもり、なかったけど、聞こえてきちゃったから……でも、ちゃんと聞こえても何のことなのか全然わからなかったよ?」
言い訳になってないよな……って思いながらも、そう説明した。
白井はただ呆れたように口元を歪めただけ。
それから、クルッと方向転換をして、寝室の窓を全開にした。
「……まったく、わざわざ指定時間より早く来て抜き打ち検査かよ……そこまで性格が悪いと感心するね」
そう言いながら舌打ちまでしてたけど。
でも、顔はなんとなく引きつっていた。
「あの人のこと嫌いなんだ?」
ちょっとだけそんなことを聞いたら、
「仕事だと好き嫌いなんて意味がないんだよ」
そう言ってから、ダルそうにベッドに腰掛けた。
なんだか疲れた顔で。
そのまましばらく自分の足元を見つめてたから。
「……そっか。仕事だもんね。大変だよね」
俺にはやっぱりよく分からなかったけど。
ちょっと慰める気持ちを込めて、とりあえずそう答えておいた。



その後、砂っぽくなった部屋の中をもう一回キレイに掃除した。
「スリッパもない部屋に裸足で上がりたくないんだとさ」
「だからって靴のまま部屋に入らなくてもいいのに」
せっかくピカピカにしたのに、ひどいよな。
「お偉いさんってのは性格の悪い奴が多いもんなんだよ」
そんなことを言う白井も掃除はぜんぜん手伝ってくれないんだけど。
夕飯も食べさせてやるって言われたから、一人で頑張ることにした。
「よし、もういいぞ」
白井からオッケーが出て、これで夕飯も食べられるって思ってたら、いきなり千円札を一枚渡された。
夕飯代なのかと思ったのに。
「え? スリッパ?」
「事務所に来る客用のだ。3、4足買って来いよ」
「ってことは、えーっと、4つだとすると一つ250円?」
多分、合ってるよなって思ったけど。
「消費税もあるから、ちゃんと計算しろよ」
そう言われて、ぜんぜんわからなくなった。
「うー……でも、まあ、いいや。買う時にお店の人に聞いてみようっと」
ため息をつく白井に「行ってきます」と言ってマンションを出て。
駅に行く途中にある雑貨屋に寄ってみたけど。
「うわ……高いかも」
一番安いやつで350円。普通のは500円。高いのは1000円くらいした。
悩んでいても仕方ないので、その店で収納ケースを見ていたおばさんに、「もっと安いスリッパのあるところ知らない?」って聞いてみた。
そしたら、「駅の反対側のスーパーに行けばたくさんあるわよ」って言われたから、お礼を言って駅まで走った。

スーパーは本当に広くて、スリッパもたくさんあって。
「1個250円より安いのは……と」
大きなワゴンの中に並んでいたのは全部一つ198円で。
「これなら、大丈夫かも」
色もいろんなのがあって、いいかなって思った。
「どれにしようかなぁ……」
迷ったけど、闇医者の診療所にあったみたいなちょっと落ちついた色のを、二つずつ色違いで買うことにした。
「ちゃんと千円で足りたし」
会計を済ませてホッとして、外に出たらもうすっかり夕暮れで。
寒かったからマンションまで走って帰った。
「ただいまー」
玄関で部屋番号を押してからそう言ったら、ちゃんとロックが解除された。
「なんか、自分ちみたいかも」
白井がスリッパを気に入ってくれるといいなって思いながら、エレベーターに乗って、部屋の前でピンポンを押して、もう一回「ただいま」って言ったら、「静かに帰ってこい」って怒られた。
その後、「これだからガキは嫌だ」とか「おまえ、ちょっと足りないんじゃないのか」とかいろいろ言われたけど。
買ってきたスリッパについては、別に文句は言わなかった。
だからと言って褒めてくれるわけでもなくて。
「これでよかった?」
どう思ったのかがぜんぜん分からなかったから聞いてみたんだけど。
白井は結局、なんにも言ってくれなかった。
「駅の反対側まで走っていってきたのになぁ……」
ちょっとだけ愚痴をこぼしたら、
「おまえのメシ代」
すっごく嫌そうな顔で千円札を差し出した。
「わー。ホントにいいの?」
お札を両手で受け取ってしみじみと眺めていたら、嬉しくて口元が緩んだ。
「ありがと」
このまま夕飯を買ってこようって思っていたら、また用事を言いつけられて。今度は洗濯とキッチンの片付け。
「うん、いいよ。洗濯物は乾燥が終わったら畳んで引き出しにしまえばいいんだよね?」
そんなの簡単だし、ぜんぜんオッケー。
だって、その間は部屋にいられるから、寒いところで夜になるのを待たなくてもいいし。
「ああ、あとな」
白井の話はまだ続きがあって、
「俺の機嫌が悪いときは近寄るなよ」
いきなりそんな注意をされてもって思って、ちょっと困ってしまった。
「……機嫌の悪いときって、いつ?」
今だってイマイチ機嫌が悪そうに見えたから、聞いてみたんだけど。
白井はあからさまにバカにした目で俺を見下ろして、
「おまえといるとイライラしそうだな」
本当に嫌そうな顔で吐き捨てた。



先に夕飯を買ってきて、お釣りを返して。
それから、白井が書いたメモの通りにファイルを移動させた。
「えっと、次は青の43……っと」
仕事のための事務所じゃないって言ってたくせに、なんでこんなにいろんな書類があるんだろう。
いろんなことが疑問だったけど、聞いてもきっと説明なんかしてくれないし。
まあ、いいかって口の中で呟いたとき、白井がコートを羽織った。
「帰ってくるまでに全部やっておけよ」
「出かけるの?」
もう、暗くなってるのにって思ったけど。
「電話が鳴っても勝手に取るなよ」
よく考えたら、昨日も飲んでたし、今日だって仕事じゃないかもしれないもんな。
「俺、このまま留守番するの?」
思わず聞き返したら、「嫌なら出ていけよ」って言われて、慌てて首を振った。
「えっと、そうじゃなくてさー」
今日は縛らなくていいのかなって思って聞いただけだって説明をしたら、白井は少し驚いた顔の後でフッと笑った。
それから。
「言われたことが全部できたら泊めてやってもいいぞ」
いつもよりちょっとだけ優しい声でそう言って、コートのボタンを留めた。
「ホント??」
嬉しくて抱きつきそうになったけど、なんとかそれは押さえて。
満面の笑みで「いってらっしゃい」をした。
ちゃんと玄関まで見送ったけど、やっぱり縛られたりはしなかった。
「よかったぁ……でも、白井が帰ってくるまで何しようかなぁ」
洗濯なんて洗濯機が全部やってくれるから、すっかり終わるまではやることもないし。
だからと言って、留守番中だから客を探しに行くことはできないし。
「でも、ここならあったかいもんな」
今日はとりあえずご飯もあるし、シャワーも浴びていいって言われたし。
しかも、エアコンつきの部屋で寝られるし。
「客を探すのは明日からでいいや」
うきうきした気分で夕飯を食べて、洗濯物を畳んで、ついでに自分の着替えも一式洗濯させてもらってから、部屋の隅っこで丸くなった。



そのままいつの間にか寝てしまったけど、夜中にいきなり脇腹を蹴られて目が覚めた。
「……あ、白井……おかえりー」
蹴られたところはそんなに痛くなかったけど、びっくりして慌てて起きたら、いきなり「出ていけ」と言われた。
「誰か来たの?」
お客さんかなって思ったけど、白井は一人きりで。
昨日よりもずっと酔っ払っていた。
「いいから、出ていけ」
時計を見たら、三時で。
なんだかよくわからないまま、追い出された。
もしかして白井って呼んだのがいけなかったのかなって思ったけど。
よく考えたら、その前に蹴飛ばされたんだもんな。
「……なんだったんだろうなぁ」
機嫌はすごく悪そうだったけど。
「でも、仕方ないもんな」
マンションの入り口で持ってる服を全部着込んで、コンビニのゴミ箱から新聞を拾って、頼りない温風が降りてくるビルの隙間に座り込んだ。
「もういっぱい寝たから、朝まで起きてても平気だし」
あったかい部屋でする掃除は楽しかったなって思いながら、空を見上げた。
でも、曇っているみたいで月も星も見えなくて。
「つまんないかもー。俺、朝まで何してればいいわけ?」
ちょっといいことあったなって思ったのに。
「やっぱ、そんなにうまくは行かないよなぁ……」
一人でこっそり「まあ、いいや」って何度も声に出してつぶやいて。
本当にいいやって思えるようになってから、「明日は頑張るもんね」って言い聞かせた。

夏だったら、すぐに朝になるのに。
最初のサラリーマンが駅に向かう時間になっても、まだ空は薄暗いままだった。
座ってるのに飽きて、ゴロンと横になって。
「冬だから、寒くて当たり前だよな」
広げまくった新聞に埋もれて、目だけ出して。
通り過ぎる人を眺めているうちに少しずつ夜は明けていった。



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