Tomorrow is Another Day
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もうちょっと暖かくなったら公園に行こうかなって思っていたら。
マンションから白井が出てきて路地を覗き込み、新聞に埋もれている俺の前に立った。
昨日と同じよれよれのワイシャツにコートを羽織っただけの格好で。
しかも、もうすぐ昼っていう時間なのに二日酔いって顔で。
「……おはよー」
怒ってないといいなと思いながら挨拶をしたら、ため息が聞こえた。
「こんなところにいると警察に連れていかれるぞ」
そんな一言も本当にダルそうだったけど、機嫌はそれほど悪くないみたいでちょっと安心した。
「ここ、あったかいんだよ」
警察につかまるのは困るけど、他にどうしようもないもんな。
白井を見上げたまま新聞の角を折りたたんでいたら、いきなり札を渡された。
「朝飯買ったら、マンションに戻れよ」
しかも、1万円札。
「……ご飯がいい? それともパン? 飲むものは何がいい?」
コンビニまであと20歩くらいなんだから、自分で行けばいいのにって思ったけど。
「俺のはいらない。物を食う気分じゃないからな」
白井はそれだけ言って、またマンションに戻ってしまった。
「それって俺のご飯だけ買って戻れってことなのかなぁ……」
でも、自分はいらないって言うんだから、きっとそうなんだろうって思って。
「……ありがと」
もう聞こえてないだろうけど、一応、お礼だけ言って。
新聞を片付けてからコンビニに駆け込んだ。
「昨日はご飯だったから、今日はパンにしようかな」
いくらなら使ってもいいのか分からなくて、結局メロンパン一個と牛乳を買って戻った。
「ご飯食べさせてくれるくらいだから、今日も掃除しろってことだよね? それとも他にも何かやることがあるのかな?」
どっちにしても部屋にはいられそうだから嬉しくなった。
「今日はあんまり天気もよくないもんな」
できれば夜まで部屋にいたいな……なんて、ちょっとだけ思ったけど。
あんまり期待しすぎると後でがっかりするから、それについて考えるのは止めておいた。



入り口でピンポンを鳴らして、事務所の前まで来たら白井がドアを開けて待ってた。
「ただいまー」
ちょっとそんなことも言ってみたりして。
それだけなんだけど、すごく嬉しかった。
「先にご飯買ってきちゃったけど、食べる前に掃除するね」
握ってたお釣りを返そうとしたら、白井はすごく困った顔で俺を見下ろした。
「おまえ、もっとまともなもん食えよ」
「これじゃダメ?」
牛乳付きだし、十分まともだと思ってたのに。
「菓子パンなんてなんの栄養もないだろ」
「そんなことないよ。けっこうお腹一杯になるし、それにおいしいよ?」
俺は真面目に答えてるのに、また呆れられて。
「栄養の話をしてんだよ。おまえ、どう見ても発育不良だろ。今までどんな生活してきたんだよ」
そんなことまで言われてしまった。
でも、健康診断の時もこれじゃダメって言われたもんなって思ったから。
「……大きくならなかったんだから仕方ないじゃん」
すごい言い訳だなって自分でも思ったけど。
白井はただ「そうだけどな」って言っただけだった。


掃除は後でいいからって言われて先にメロンパンを食べて。
でも、食べてる間にピンポンって鳴ったから、
「うわ、ちょっと待ってよ」
またクローゼットに隠れるんだって慌てて飲み込んだけど。
「いいから、そこに座ってろ」
今日はソファに座ったままでいいみたいだった。
入ってきたのは普通のオヤジ。服装も普通のジャケットに普通のパンツ。あまりにもそのへんのオヤジ過ぎて何の記憶にも残らない感じだったけど、ちゃんとスリッパを履いて入ってきてくれた。
「調子はどうですか、白井さん」なんて適当な挨拶をしてから、白井の机の横に立って。
たまにチラチラと俺の方を見てた。
それから、今度は白井が「どうだ?」って聞いて。
オヤジは「そうですね。ちょうどいいかもしれません」なんて答えてた。
「キミ、家出中なんですか?」
オヤジはこっちを見て少しだけ笑うと唐突にそんなことを聞いて。
「……もしかして警察の人?」
思ったことをそのまま質問したら、「違いますよ」ってまたニッコリ笑った。
「ご家族の方が心配しているでしょう。捜索願い、出てるんじゃありませんか?」
なんとなく全体的に白々しい感じの話し方なんだけど。
でも、偉そうでもないし、ちゃんと返事はしておくことにした。
「ううん。出てないよ。だって、もうずっとこんなだから」
おじさんから捜索願いってヤツが出てたとしても、本当は探してなんかいないだろう。
見つからなくても全然構わないはずだから、きっとそんな返事で大丈夫。
「そう。じゃあ、ここへ来る前は何をしてたのかな?」
「えっと……ホームレス」
ウリをしてることを言っていいのかどうか分からなかったから、とりあえず嘘にならない返事をした。
「そうか。一人で偉いね」
そんな言葉もなんだか棒読みしてるみたいで全然心がこもってなかった。
オヤジはそのあと白井に「しばらく様子を見ましょう」って言い残して帰っていった。


「もしかして、俺、警察に連れてかれるの?」
心配になって聞いたけど、白井の返事は俺にとって嬉しいものだった。
「いや。メシは食わせてやるから、ここで働けよ。掃除と洗濯とその他の雑用。寝場所はカーペットの上だけどな、毛布くらいは貸してやるよ」
「いいの?」
「ただし、ここで雇われてる間は客を探しに行くな」
とりあえず冬の間は食べるものと寝るところが確保できればいい。
後のことはここを追い出されてから考えても同じだもんな。
「うん。よかった」
食事は昼と夜の2回で、昼は白井と一緒にここで食べる。
夜は白井がいないから、自分の分だけコンビニで買ってくる。
掃除は朝、9時までに全部終わらせる。電話は取らない。客が来たら、とりあえずクローゼットの中に隠れる。
「わかったな?」
「うん」
難しい仕事はなさそうだし。
それに、けっこう楽しそうでいいかもしれないって思った。



それからは毎日同じことの繰り返し。
決まった時間に起きて、掃除をして、昼になったら二日酔いの白井を起こして、昼ごはんを食べて。
きっとこのまま何となく春になるんだろうって思った。
「それはそれでいいんだよね……」
いいのかどうか、本当は分からなかったけど。
「何が?」
「……ううん、ひとりごと」
白井はちょっとずつ話し相手をしてくれるようになった。
最初に俺が思ったよりもずっと忙しそうだったから、いないときも多かったけど、普段はそれほど冷たいヤツでもなかった。
事務所にいる日は書類を読んで、それをまとめて分厚いファイルを作って。
出かけている日は何かの調査をしてるみたいだった。
でも、いつもあんまり機嫌はよくなくて、ついでに毎日二日酔いだった。
「白井さ、酒飲むのやめたら?」
俺も二日酔いになったことがあるから、すっごくつらいのは分かってた。
だから、そう言ってみたんだけど。
「浮浪者のくせに口出しするな」
やっぱり怒られてしまった。
「……うん」
こんなことの繰り返し。
白井の機嫌が悪い時は俺も黙って過ごす。
中野の時と違って、少しでもいいから話したいとか、どんなでもいいから返事が欲しいとか、そういうことはあんまり思わなかった。
退屈になると仕事をする白井から見えないところに座り込んで、床の上に辞書とノートを広げてみた。
少しは勉強しようかなって思ったときに限って、いつも唐突に「おい」って呼ばれて。
「なに?」
今日、頼まれたのは買い物だった。
駅の反対側のスーパーより、さらに少し遠い場所にある電器店だった。
道順は難しくなかったから、渡された千円札を握り締めて買い物に行って。
走って帰ってきたら、白井は出かける用意をしていた。
そんなのもいつものこと。
この後、白井がどこに行くのかなんて俺は知らないし、別に知りたいとも思わなかった。
「はい、これ。それから、おつり」
300円よりちょっと少ないおつりを返そうとしたけど、白井はレシートだけを受け取った。
「白井、これ……」
それでも渡そうとしてたら、「おまえにやる」って言われて。
「ホントに?」
いいのかなって思ったけど、もらってしまった。
「100円も10円もまだ新しいから、キレイかも。汚れないように貯金しておこうっと」
フロアの隅っこにまとめて置いてある自分の荷物の前に辞書を置いて。
その上にキラキラの100円玉と10円玉を並べて飾ってみた。
白井は何か言いたそうな顔でそれを見てたけど、結局、何も言わずに出かけていった。
「いってらっしゃい」
見送ってから、ちょっとだけ憂鬱になる。
帰ってくるときは機嫌が悪いって分かってるから。
「また蹴飛ばされたりしたら、やだもんなぁ……」
白井がベッドに行くまでの道筋には寝ないようにしようと思って、キッチンと事務所の境目に毛布を敷いた。
「これなら寝室と逆方向だし、絶対大丈夫。俺って頭いいかも」
そう思っていたのに。


帰ってきた白井はベッドには行かずにソファに倒れこんだ。
しかも、顔が真っ青で、死ぬんじゃないかって思うほどだったから。
「待ってて。今、水持ってくるから」
戸棚からコップを出して、勢いよく水を出した。
白井の方を見たら、ジャバジャバという音に顔をしかめていて、今までで最高に不機嫌な感じだった。
俺だって、ちょっとヤバイかもって思ったけど。
あまりにも具合が悪そうだったから、急いで水を持ってソファに戻った。
でも、
「はい、水」
コップを差し出したとたん、白井は思い切りそれを払い落とした。
ガチャンという音と同時に俺の足と床が濡れて、あたりにはガラスのかけらが飛び散った。
その音にまた顔をゆがめたけど、白井はそのまま何も言わずにソファに突っ伏してしまった。
俺はあまりにもびっくりしてしまって、しばらくそこで固まってたけど。
「……あ」
白井がトイレとかに起きたら危ないって気がついて、慌ててスリッパを持ってきてソファの下に置いた。
それから、ガラスを拾い集めはじめた。
部屋は明るかったけど、透明なカケラは本当に見えにくくて。
拾ってる間に俺は3箇所も手を切ってしまった。
「……まだ残ってるよなぁ……掃除機、かけちゃダメだよね?」
まだまだ朝までは遠い。そんなにうるさくない掃除機だけど、さすがに近所迷惑だもんな。
でも、このままってわけにもいかないから、
「雑巾で拭いておこうっと」
とりあえず、半径2メートルくらいとトイレまでの間とベッドまでの道は拭いておいた。
「これでだいたいは大丈夫なはず」
手を洗ったら、傷口からまた血がにじんだ。
「これじゃ、触ったところが汚れちゃうよな。……お使いでもらった金でバンドエイド買ってこようかなぁ」
放っておいても治るような気もするから、そんなことに使ってしまうのはもったいないかなって、金を握り締めながらちょっと悩んだけど。
とりあえずコンビニには行くことにした。
白井に毛布をかけて、鍵を借りて。
「いってきます」
そっと部屋を出てエレベーターに乗った。


マンションを出たとたんに冷たい風が頬に刺さって。
なんだか急に淋しい気持ちになった。
こんなところで何してるんだろうって。
いつもなら絶対に思わないようなことなのに。
「でも、部屋にいられてよかったんだよなぁ……」
コンビニの前に立ち止まって顔を上げてみたけど、星は見えなくて。
代わりにポツンと小さな雨が当たった。
「……クリスマス、もう過ぎちゃったんだな」
ツリーの飾ってあったレジの前も、すっかりお正月用品に変わっていて。
「つまんないの……」
思い出すのは大きな紺色の袋とキラキラのリボン。
持ち上げたときの感触がまだ手に残ってるような気がした。
「誰にあげたのかなぁ……」
しばらく忘れてたのに。
どうして一人になると思い出してしまうんだろう。

―――……恋人、できたのかな……

あれから全然お祈りなんてしてなかったな……って思いながら、また空を見上げた。
「……ごめんね、俺、嘘ばっかり」
コンビニの前には緑の電話があって。
俺の手の中にはコインがあって。
「……バンドエイド買うの止めて、ちょっとだけ電話してみようかな……」
少しだけでいいから、中野の声が聞きたくて。
そっと受話器を上げた。
投入口に差し入れるとカチャンとコインが落ちる音がして。
もう冷たくなってしまった指でボタンを押した。
思い出さなくても勝手に出てくる番号を口の中で繰り返して。
確かめるようにゆっくりと数字を繋いでいったけど。
でも、最後のボタンだけはどうしても押せなかった。
「……こんな夜中に電話されても、迷惑だよね」
分かってるのに。
俺からの電話なんて、夜中じゃなくたってきっと迷惑だろう。
「……やーめた」
深く息を吸い込んで、受話器を置いた。
落ちてきたコインは冷たくて。
でも、それを握り締めてコンビニのドアを開けた。


結局、バンドエイドは買わなかった。
「一番安いのでもいいかなぁ……」
悩みながらミネラルウォーターのペットボトルをレジに持っていって。
それを抱えてマンションに戻った。



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