冷蔵庫にペットボトルを入れてから、白井が寝ているソファの下にうずくまった。
万が一、白井が夜中に起きて裸足のままトイレに行ったりするといけないから、「ちゃんとスリッパを履いて」って言わないとって思って。
「でも、俺、白井が起きたことに気づくかなぁ……」
かなり眠かったから、一回寝たら起きられないかもって思ってたんだけど。
朝、いきなり目が覚めた。
どうやら白井に踏まれかかったっぽいってことがわかって焦ったけど。
「……びっくりしたかも」
別に痛くはなかったけど、すぐに起き上がったら白井もちょっとびっくりしてた。
「おはよー。まだ掃除機かけてなくて、危ないからスリッパ履いて歩いてね」
ちゃんと言えたって思って満足してたら、白井はちょっと顔を顰めた。
白井に掛けてあげた毛布と俺の顔、それから、スリッパとゴミ箱と。
いろんなものを見比べていたけど何も言わなかった。
「待ってて、今、水持ってくるから。あ、今度はちゃんと買ってきたやつだから、おいしいと思うよ」
パタパタとキッチンへ走っていって、新しいコップに水を入れた。
「冷たくていい感じ」
エアコンの効いた部屋に冷たい水。目一杯注いでしまったから、こぼさないようにそろそろと歩いて戻ったら、白井は辞書の上に置かれた十円玉と一円玉を見つめていた。
どうしたんだろうと思いながら、こっちを向くのを待ってたら、
「……貯めておくんじゃなかったのか?」
いきなりそう聞かれて。
「うん、貯めておくよ。今日、貯金箱作ろうと思ってるんだ」
答えたらまた変な顔をされてしまった。
「はい」
コップを差し出したら、今度はちゃんと受け取ってもらえた。その時、白井のズボンのポケットからポトリと四角い箱が落ちた。
「タバコ吸うんだ?」
今まで一度も見たことなかったなって思いながら聞いたけど。
白井からの返事は「吸わないけどな」だった。
じゃあ、どうして……って不思議だったけど。
「吸うならやるよ」
白井はダルそうに箱を拾い上げて、ライターと一緒に俺に投げた。
「……ありがと」
ホントは俺もあんまり吸わないんだけど。
せっかくもらったから、一本咥えて火をつけてみた。
白井がくれたタバコは中野が吸ってたヤツと違って軽い匂いだったけど。
辺りに煙が広がると、胸がキュッと苦しくなった。
白く煙った部屋に、二人きり。
テレビもついてなくて、ただ静かな空間。
いつも、こんな朝だった。
「……何、泣いてんだよ。鬱陶しいな」
白井が眉を寄せたのを見て、自分の視界がにじんでいることに気付いた。
「泣いてないよ。ちょっと目が痛かっただけ」
鬱陶しいって。
中野にもおんなじことを言われたなって。
思ったらまた目と鼻の奥が痛くなった。
涙なんかこぼしたら、白井だってきっと嫌な顔をするだろうから。
ムリして頑張って、できるだけ普通に話そうとした。
「……な、白井……泣いてるヤツって鬱陶しいかな……」
俺ならそんなふうに思わないけど。
大人になるとみんなそう感じるのかもしれない。
誰かが泣いてても、大丈夫かなって思わない人になってしまうのは、すごく悲しいことみたいに思えた。
「鬱陶しいっていうかな……慰めてやらなきゃいけないみたいで面倒だろ」
どうでもいい相手にかかわりたくないからな、って白井が吐き捨てて。
「……ふうん」
本当は「そんなことないけどな」って言いたかったけど。
でも、そう答えるしかなかった。
中野にとっても白井にとっても俺はどうでもいい相手だから。
きっとすごく面倒だったんだろうなって思って。
「そっか……」
だったら、せめて鬱陶しいと言われないようにしなくちゃって思って。
「じゃあ、ガラス、落ちてるといけないから、掃除機かけようかな」
他のことをすればその間に気分も変わるだろう。
どこへ持っていったらいいのか分からない気持ちなんて消えてなくなるだろうって。
なのに。
「ったく……掃除機みたいなデカい音立てるなよ」
白井は本当にダルそうに頭を押さえながら眉を寄せた。
「じゃあ、掃除機やめておく? 代わりに2回くらい拭き掃除したら大丈夫だと思うから、それでもいいよ?」
もう部屋も明るいから、よく見ればガラスだって発見できるはずって思ったんだけど。
「30分で帰るからな」
俺の案をあっさり却下して、白井は掃除の間だけ外出することになった。
「いってらっしゃい。気をつけてね」
俺にまでダルいのが移りそうだなって思いながら、玄関で白井を見送った。
「ホントは俺と一緒にいるのが嫌だったのかなぁ……」
俺が泣きそうになってたから、面倒になったのかもしれない。
ううん、本当はそんなことがなくても、俺と一緒なのが嫌なのかもしれないって。
そう思ったら、また悲しくなってきた。
深呼吸して気分を変えようって思ったけど。
「……誰もいないから、いいよね……」
結局、ガマンできなくて、部屋の真ん中で少しだけ泣いて。
それから、気を取り直して急いで掃除をすることにした。
「帰ってくるまでにピカピカにしておこうっと」
俺のことはどうでもよくても、部屋がキレイなのは喜んでくれるかもしれないから。
「拭き掃除まで終わるかなぁ」
30分で帰ってくるなら、なんとかなるかもって思ったけど。
小さなガラスが残らないように丁寧に掃除機をかけていたせいで、拭き掃除になる前に白井が戻って来てしまった。
これじゃあんまりキレイになった感じがしないから、きっと喜んでもらえない。
「ねー、まだ30分経ってなかったよね」
ちょっとだけ言い訳っぽかったけど。
白井はどうでもよさそうに掃除機を片付けて、
「もういいから。手、洗って来いよ」
俺を洗面所に追い払った。
そこにかかってるタオルを使って手を拭いてしまうと血が付くかもしれないって思ったから、濡れたままで戻ってきたら、白井にティッシュを渡された。
「ほら、ちゃんと拭いて。そこ座って。まず右手貸してみろ」
ソファに座った白井の前にはドラッグストアのロゴの入ったビニール袋と消毒液とバンドエイド。
「白井もどこかケガしたの?」
聞いてみたけど。
「いいから、早くしろよ」
ちょっと強引に俺の手を引っ張った。
もしかして俺を手当てするためなのかなって思ったら、なんだか不思議な気持ちになった。
「……買ってきてくれたの?」
白井を見上げてちょっとだけ聞いてみたけど、何も答えてもらえなかった。
ただ俺の手だけを見ながら、消毒液をかけて、ティッシュで軽く拭いて。
それから、バンドエイドを貼って。
黙々とそんな作業をしていた。
「あ、左手は自分でできるよ?」
白井が面倒くさそうだったから、一応そう提案してみたけど。
「おまえな、自分に人並みの器用さがあると思ってるなら考えを改めろよ」
もっと不機嫌そうな顔になる理由がわからないんだけど。
「なんか……それって、もしかして俺が器用じゃないってこと?」
きっとそうなんだろうって思ったけど。
白井は無言で左手を取ると三つのうちで一番大きな傷にシュシュッと消毒液をかけた。
「うあっ……右手より染みるかも」
かけられるたびに手がビクって動いたけど。
白井にしっかり掴まれていたから、引っ込めることもできなかった。
「ちょっと我慢しろよ」
いつもと同じくらい愛想のない声だったけど。
なぜか今日は少しだけ優しく聞こえた。
「……白井」
呼んでみても俺の顔なんか見てくれなくて。
でも。
「なんだよ」
そんな返事も冷たくは聞こえなかった。
「ありがとね」
白井にとって俺はどうでもいい相手だろうし、泣いたって慰めるのも嫌なんだろうけど。
それでもちゃんと心配してくれたんだなって思ったら、また涙が出そうになった。
泣かないように何度も瞬きをして、右手でバンドエイドの箱を持って。
「わー、すごいね。水がしみこまないタイプって書いてある」
泣かないって決めたんだから。
これくらい平気。
「……でも、空気は通すんだ。かっこいいかも」
端からずっと説明書きを読んでいたら、最後の行くらいでやっと涙が止まって。
水が入らないなら試しにあとで手を洗ってみようかなって思っていたら。
「だからって、わざと濡らすなよ」
白井には見抜かれていた。
「えー……なんでわかったの?」
それにはちょっとビックリで、手を濡らす実験ができないのはちょっとガッカリだったけど。
でも、俺が考えてたことを分かってくれたんだなって思うのがすごく楽しかった。
「ほら」
渡されたドラッグストアの袋の中にはゴム手袋が入っていて。
「拭き掃除の時はこれをはめろよ。菌が入って医者に行かなきゃならなくなったら面倒だからな」
白井はそう言うんだけど。
「でもさ、濡れないんだから、バイキンだって入らないんだよね?」
俺はそう思ったんだけど。
白井が面倒くさそうな顔をしたから、あわてて「うん、じゃあ、そうする」って返事をしなおした。
今日はもう掃除はしなくていいって言われたんだけど。
「大丈夫だよ。すぐ終わるから」
白井が優しかったから、お礼のつもりでいつもより頑張って床を磨いた。
その間ずっと白井はベッドで眠っていた。
やっぱり二日酔いはひどいらしくて、顔色もよくなかった。
「水、置いとくね」
起きたらすぐに飲めるようにサイドテーブルにペットボトルを置いてみたけど。
白井は本当にぐっすり眠っていて、掃除がすっかり終わっても起きる気配はなかった。
こんなに具合悪そうなのに、バンドエイドを買ってきてくれたんだなって思って。
「……ありがと」
もう一回こっそりお礼を言ってから、俺もベッドの下で丸くなった。
目を開けたら、隣りに誰かがいるって楽しいかもって思いながら。
中野の家を出てから今日までの間で、一番気持ちよく寝ることができた。
薄く意識が戻ったとき、カーテンの隙間には赤と紫の雲が見えてた。
「……うわ、もう夕方??」
寝ぼけたまま目を擦ると、部屋は白く煙っていて、タバコをくわえている白井が視界に入った。
「……あれ? 吸わないんじゃなかったの?」
白井はそれには答えずに「起きたのか」って言って、短くなったタバコを消した。
「それにさー、二日酔いの時ってタバコおいしくないよね?」
なんとなくそう聞いたら、白井がまた顔をしかめた。
「おまえな、今までどういう生活してたんだよ」
呆れた感じの声だったから、
「俺じゃなくて。母さんが……」
そんな言い訳をしてみた。
「おまえの母親、水商売か?」
別にバカにしてるとかそんなんじゃなさそうだったけど。
「……うん……どうしてわかるの?」
「おまえ、そんな感じだからな」
その言葉に少しだけ暗い気分になった。
白井もそれに気付いたみたいで。
「何か気に障ったのか?」
そう聞いてくれたけど。
「……ううん。白井のせいじゃなくてさ」
水商売の子って感じだねと言われるたび、母さんはすごく気にしてた。
それでいじめられたりしたわけじゃなくても。
「……水商売ってダメなのかなぁ……」
おじさんもおばさんもいい顔はしてなかったから、きっとそうなんだろうってことは分かってるけど。
「おまえの父親は何も言わなかったのか? 普通、母親がホステスしてたら、嫌がるだろ?
それともオヤジはヒモだったのか?」
それも、子供の頃、いろんな人に聞かれた。
やっぱりみんな同じことを言うんだなって思いながら。
「……ううん、父さん、いないんだ。生まれた時から親は母さん一人」
俺は別にそれでいいって思ってたけど。
みんなが「大変だね」とか「可哀想にね」って言うから。
それもきっとダメなんだろうって、少し大きくなってから分かった。
でも、白井は「へえ」って適当に頷いただけで、そのあとしばらくは何も言わなかった。
せっかく仲良くなれそうなのにこんな話をするのは嫌だったから、一生懸命次の話を考えていたら、
「水商売してる女ってな、こっちが引くくらい強かなヤツもけっこういるけど、そうじゃない奴は気が良くてちょっと足りないんだよ」
白井が突然そんな話をした。
「……ふうん、そうなんだ」
だから、なんなのか、俺にはよくわからなかったんだけど。
「おまえ、母親似なんだろうな。……まあ、どうでもいいことだけど」
どうしてそう思ったのかとか、そういうことは全然わからないまま。
「……うん」
母さんに似てるってことはみんなに言われてたから、ただ小さく頷いた。
そのあとは少しの沈黙。
さっきまでは何か話さなきゃって思ってたのに、不意に昔のこととか、いろいろ思い出して。
なんとなくしゃべる気になれずに黙り込んでいた。
でも。
「……たまにはなんか美味いものが食いたいよな」
新しいタバコに火をつけた白井はぼんやりそうつぶやいて。
それから、伸びてきた俺の髪を耳にかけた。
「今日は外に食いに行くか?」
白井は上向きにふうっと煙を吐き出して、そのまま宙を見てたけど。
「あ……でも、俺、まだ金貯まってないから……」
誘ってもらったのは嬉しかったけど。
俺が持ってるのは今朝のおつりと中野からもらった金だけ。
でも、それはどうしても使いたくなかったから。
「また、今度でもいい?」
そしたら、一緒に行きたいなって思って聞いたんだけど。
「あのな、誰もおまえが金持ってるなんて思ってないって」
白井はそこで初めて少しだけ笑って、俺に服を着込むように言った。
「つっても、そこのファミレスだけどな」
笑ったままの口元でそう告げて。
「ホントにいいの?」
もう一度だけ確認したら、ほんの少しの沈黙のあとで、
「……ちょっと足りない女ってな、意外と可愛いもんなんだよ」
俺が聞いたこととはぜんぜん違う答えを返した。
その夜、白井は出かけなかった。
だから、「今日は飲みに行かないの?」ってちょっとだけ聞いてみたけど。
「おまえがやめろって言ったんだろう?」
「……うん、だって」
白井がつらそうだったから、行かなければいいのにって思っただけで。
「……じゃあ、やめたの?」
その質問に「当分はな」って返事があった。
「そっかぁ」
良かったなって、思わずにっこり笑ってしまったけど、白井はそれについては何も触れずに。
「夕べ、悪かったな」って、少し困ったような顔を見せた。
その日から俺はソファで寝ていいことになって。
「ほんと?」
確認をしながらも白井の返事を聞く前に毛布を抱えて走っていった。
毛布を縦に半分に折って、その間に挟まってみて。
「気持ちいいー」
白井がなんで急に優しくなったのかは、あんまりわからないんだけど。
「でも、なんか、大丈夫な気がしてきた」
中野のことは忘れて。
ここで頑張れるかもしれないって。
記憶の中は、いつでも白く煙った部屋。
いくつも新聞を積み上げて、何の感情もなさそうな顔で読んでいた。
こんなふうに。
二人きりの部屋。
二人きりの時間。
思い出すと、また少し胸が痛くなる。
「……でも、頑張ろうっと」
楽しかったことを全部気持ちの奥にしまいこんで。
「いいから、電気消せよ」
どんなに会いたくても、帰りたくても。
「うん。おやすみ、白井」
これから先はここで頑張ろうって思った。
きっと泣かないでやっていけるって思った。
|