そのまましばらく白井にしがみついて泣いていたけど。
ピンポンって音が部屋に響いて、慌てて袖口で顔を拭いた。
白井に「大丈夫か」って聞かれて、頷いて。
そしたら、やっと白井も面倒くさそうに立ち上がってドアを開けにいった。
「おや、どうしたんですか?」
入ってきた男は俺の顔を見るなりそう聞いた。
泣いてたってことはバレバレだと思ったけど。
「ううん、なんでもないよ」
とりあえずそう返事をした。
「なら、いいんですけどね」
そう言って、そいつは俺にシュークリームの入った箱を手渡した。
「ありがと。コーヒー入れてくるね」
もう一度ちゃんと顔を拭いて。
心配そうにこっちを見てる白井の側を離れてキッチンへ行った。
シュークリームをのせる皿を出してトレーに並べたとき、ふと思い出したのは診療所のこと。
「こんなの、久しぶりだなぁ。みんなで食べると楽しいんだよな」
毎日毎日闇医者や患者モドキとお茶をした。
闇医者の入れてくれた紅茶はおいしくて。
少し思い出しただけでも、それはとても暖かくて楽しかった。
「なんであんなに楽しかったのかな……」
名前しか分からない俺のことも、みんなちゃんと友達にしてくれた。
しばらく診療所に遊びに行かないでいると、「心配してたんだよ」って言ってくれた。
「……みんな、今頃なにしてるのかなぁ」
俺がいなくてもきっと前と同じように楽しくテレビを見たり話したりしてるだろう。
そう思ったら、また涙がこぼれた。
早く泣き止まなきゃって思ったとき、
「どうしたんですか?」
背中から急に男の声がして。
「……う……ううん。なんでもない」
いつの間にキッチンへ来たんだろうって思って、ホントはかなり驚いたけど、なんとか普通に返事をした。
「白井さんと喧嘩でもしたんですか?」
一応、心配してるみたいな口調なのに、こいつのはぜんぜん気持ちがこもってなくて。
だから、ちょっと安心した。
だってこんなつまんないことで真剣に心配してもらうのは悪いから。
「ホントになんでもないよ」
もう一度そう言ったら、「そうですか」って棒読みの返事があって。
それから、「じゃあ、戻りましょう」って背中を押された。
「うん」
トレーにのせたコーヒーとシュークリームを持ってソファに戻った俺を見て、白井は「まだ泣いてるのか」って呆れてたけど。
でも、顔はちょっと困ってた。
心配してそうなことを言うのに作ったような笑いを浮かべてるこいつとは正反対。
だから、白井には心配かけたくないなって思った。
「ううん。もう大丈夫。泊めてもらえるようになってから、なんか、気が緩んだかも」
返事をしながらテーブルにコーヒーと皿を並べて。
そしたら、向かいに座ってた男が「仲良くやってくださいね」って、また変な笑いを浮かべた。
俺、こいつのことあんまり好きになれないなって思いながら隣りを見たら、白井も同じことを思ったみたいで、少しだけ眉を寄せていた。
「ちゃんと仲良くしてもらってるよ」
少しムッとしてそう答えたら、男はあいまいな笑いを浮かべたままシュークリームを手に取った。
濃くなってしまったコーヒーに少し多めに砂糖を入れて、ムキになってかき回した。カチャカチャという音の後ろには変な静けさが流れてて。
男は相変わらず作り笑いのまま。
白井は眉を寄せたままカップを手に取ることさえしなかった。
なんだか気まずくて、なにか話そうかなって思ったとき、白井が口を開いた。
「……それで、本当に大丈夫なんだろうな」
なんの流れもなく突然始まる会話。
いつものことだけど、すごく仲間外れな気分になる。
でも、本当ならクローゼットの中に隠れていなきゃいけない俺をここに座らせておいてくれるんだからって思って、邪魔しないようにおとなしく座ってた。
「白井さんは意外と心配性ですね。大丈夫ですよ。あんまり敏い子ではいろいろ不都合もありますけどね。まあ、無事に済めばこの子もお小遣いをもらって好きなところへ行けますし、あとのことは白井さんにお任せしますよ」
私には関係ありませんからね、と言って薄く笑ってから、男はコーヒーカップをテーブルに置いた。
「……それって……」
ついさっきまでずっと俺だけ仲間はずれって思っていたけど。
どう考えても「この子」は俺のことだ。
ってことは、もしかしてちゃんと聞いてないといけないのかもって思って。
ちらっと隣りを見たけど、白井は深刻な顔でコーヒーカップを見つめているだけで俺には何も言ってくれなかった。
その代わり、苦い顔でまた別の話を始めた。
「それよりも神田には……」
俺の顔も、男の顔も見ないで話を続ける白井はなんだかすごく憂鬱そうで、今はあんまりいろんなことを聞いちゃいけないような気がした。
「まあ、そう慌てずに。こちらの動きなど事務所の方々は気にしていないでしょうから、ゆったり構えていてください。久世さんの件もこちらで調べますから、白井さんは彼らのお守をお願いしますよ」
これは偉そうなヤツらと話していたことの続き。
さすがにこの辺は俺には関係なさそうだけど。
でも、念のため、あとでちゃんと白井に聞いてみようと思いながら、シュークリームの最後のひとかけらと口に入れた。
「ごちそうさまでした」
さっきおにぎりを食べたばっかりだけど、甘いものはおいしいよなって思ってたら、白井が自分の皿を俺に渡した。
「食べていいの?」
甘いもの嫌いなのかなって。
そんなことを考えた時もやっぱり中野の顔が横切ったけど。
「……ありがと」
礼を言って隣を見たら、白井と目が合った。
きっとまだ俺のことを心配してるんだなって感じだったから。
それが嬉しくて、思わずにっこり笑ってしまった。
なんだかよくわからないけど、白井の側ならきっと大丈夫って思ったのに。
俺のななめ前に座っていた男が不意に笑って、また不安な気持ちが通り過ぎた。
男は顔に張り付いたような笑顔のまま、上着を手に取って。
「では、白井さんも何かとお忙しいでしょうから、私はこの辺で」
そんなことを言って立ち上がった。
抑揚のない平坦な言葉だったけど、白井の頬がピクッと動いた。
「……どういう意味だよ」
それも、いつになく不機嫌な返事で、俺はどうしようって思ったけど。
そいつは軽く聞き流してから、
「また火曜日に」
そう言い残して帰っていった。
「あのさ、白井」
作り笑いの男が帰ったのを確認してから、「さっきのことちゃんと教えて」って言ってみたけど、白井からは何の説明ももらえなかった。
「おまえは俺の言う通りにしていればいい。よけいなことに関心を持つな」
俺の顔も見ずに、ただそう言ってテーブルの上に新聞を投げた。
「……なんで話してくれないの?」
また、どこかで何かが動いてる。
俺に関係ありそうなのに、分からないことがもどかしくて。
「話しても、俺がわかんないから?」
白井に「そうだ」って言われたら、「分からなくてもいいから一応話してみてよ」って頼むつもりだった。
でも、返事は違った。
「……話せば、おまえまで深みに嵌めるからな」
だから、知らない方がいいって。
そう言われた。
「でもさ……」
気持ちのどこかがずっと曇ったまま。
何も知らずに過ごしていく方が本当にいいんだろうか。
あの時だって、中野は何一つ教えてくれなくて。
ただ毎日がすごく不安だった。
「……俺、どうしていいのか分かんないよ」
言われた通りにしていればいいって言われても。
こんな気持ちでいるのは嫌だった。
「とにかく―――」
白井はさっきからずっとキツイ口調のまま。
でも、すごく困った顔で俺に言い聞かせた。
「万一、誰かに聞かれるような事態になったら、さっきの奴のことも『たまに封筒を持って来てた』くらいに言っておけ。その他のことは何を聞かれても『何も知らない』って答えろよ」
そんな言葉も決して怒ってるわけじゃなくて。
たぶん、本当に何かを心配してた。
「……うん」
中野も白井も。偉そうな男も、さっき来たヤツも。
みんな同じ匂いがする。
危ない仕事をしてるから、俺には言えないことがたくさんあるんだろう。
白井がいつも見てるファイルとか、手紙とか。
それからこの部屋の中にも。
本当は人に言えないことがたくさん詰まっているのかもしれない。
「……じゃあ、俺、掃除するね」
そんな説明だけで諦めていいのか分からなかったから、もうちょっと考えるつもりでそう言っただけ。
なのに、白井は本当にホッとした顔になった。
「なら、少し出かけてくるからな」
よれたコートを着込んでドアを開ける。
「どこ行くの?」
聞いても返事はしてもらえなかったけど。
「いってらっしゃい。気をつけてね」
背中に向かって声をかけたとき、白井は肩越しに振り返って、
「すぐ戻るからな」
俺の顔を見て、ほんの少しだけ笑った。
頷いて手を振ったあと、バタンとドアが閉まって。
俺はなんとなくため息をついた。
「あんなに優しいのにな……」
白井のことも、最初は普通のサラリーマンだと思ってた。
少し疲れてるようには見えたけど、でも、怪しいヤツには見えなかったのに。
「普通の人ってどんなヤツのことかなぁ」
小宮のオヤジはどこかの会社の社長。他の人よりもずっとヒマそうだったけど、それを除けばかなり普通の人っぽかった。
闇医者は自分で闇医者だって言ってたけど、本当はたぶん普通のお医者さん。
患者モドキもみんな近所のじいちゃんとか、その辺のお店の人とか。
「……意外とみんな普通っぽいかも」
中野や北川は、見た目からして絶対に普通の人じゃなかったけど。
もっと昔のことまでいろいろ思い返してみたら、母さんがたまに家に連れてきてた男もみんなどこか違ってた。
「俺って、どうなんだろうなぁ」
そう呟いてみたけど。
「……考えるまでもないよな」
普通なら高校に行ってるはず。
ちゃんと家族がいて、友達がいて、勉強とか部活をして。
「おじさんちに帰って、どこかにバイトに行ってればそれなりに普通だったのかなぁ……」
こんな時、浮かんでくるのはアイツの顔。
紺のスーツと青いシャツ。
それから、華やかな笑顔。
10年も中野の隣りにいて。
なのに、こんな世界に染まることもなくキラキラしてた。
ずっとずっとアイツがそのままでいられるように。
中野が大切にしてきたから。
一生懸命守ってきたから。
「……そうだよな」
ずっと前。
俺がアイツの悪口を言ったとき、「おまえと一緒にするな」って中野に言われた。
自分が気付かなかっただけで、俺はきっとまともな生活なんてしてない人間の匂いがするんだろう。
アイツがいる場所と、俺が住んでる場所。
つながっているはずなのに。
本当は、闇医者の弟が逝ってしまった場所くらい遠いところかもしれないって思った。
「……俺、どうすればいいのかな」
同じ場所に行きたくてもどうにもならないんだから。
だったら、ちゃんと自分のいる場所を確認しながらやっていくしかない。
きっと、そういうことなんだろうって思った。
だから。
「おかえり、白井」
白井が帰ってきてから、もう一度聞いた。
「巻き込まれてもいいからって言ったら、全部教えてもらえる?」
その時、白井は本当に困った顔で振り返ったけど。
ため息のあと、そっと俺の頬に触れた。
それでもしばらくの間は何も言ってくれなくて。
俺の顔と机に放り投げたファイルを見比べながら、もう一度ため息をついただけだった。
「ね……ホントに誰にもしゃべらないって約束するから。それに、白井が困るようなことは絶対にしないから」
そう言って何度も何度も頼む間、白井はずっと眉を寄せたまま俺の顔を見てたけど。
「……わかったよ」
やっとそう答えて、ソファに座るように言った。
それから、自分もその隣りに腰を下ろした。
「万一の時は、誰に何を聞かれても『何も知らなかった』って答えろよ」
それだけもう一度前置きしてから。
「うん。約束する」
やっと、偉そうなヤツのことと、さっきの男のことを話してくれた。
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