Tomorrow is Another Day
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そいつが出ていったあと、嫌な空気はなくなったけど。
「……悪かったな」
白井に突然そう言われて、少し戸惑った。
俺の腕を捻ったのも、札を破いたのも全部さっきのヤツで。
誰が悪かったのかって言われたら、聞かれたことにちゃんと答えなかった俺かもしれないし、そんなことくらいで不機嫌になったあいつかもしれないけど。
でも、少なくとも白井はぜんぜん悪くないのに。
「なんで……白井が謝るの……」
理由が分からなくてそう聞いたのに。
白井は困ったような顔で、
「大事な金なんだろ?」って言っただけだった。

視線の先には、変な形で半分に破れた一万円。
ついさっきまで、折り目がひとつだけのキレイな札だったのに。
「……うん」
足元に落ちていた一枚をそっと拾い上げたら、視界がにじんだ。

俺の一番の宝物。
破れてしまっても、それは変わりないけど。

「……これね……大好きだった人にもらったんだ」
なぜか顔を上げられなくて。
気持ちが落ち着くまで手の中の切れ端を眺めていた。
白井はぼんやりしたまま「そうか」って言って。
俺はただ「うん」って頷いて。
静かな部屋の中。
しばらくの間、二人してそれを見つめていた。


あの日。
「おはよう」さえ言えないまま中野のマンションを出た。
中野がどんな気持ちでこれを置いたのか。
なんでいつもよりもずっと多い金額だったのか。
そんなこと、考えてもわかるはずはないけど。
財布から抜き取った札を俺の服の上に置いて、部屋を出ていく中野の後姿が見えるような気がして。
思い出したら、またギュッと胸が痛くなった。


こんな気持ちを持て余すのも、我慢できなくて泣き出すのも、本当はすごく嫌だったし、何よりも泣いたら白井が困った顔をするだろうから。
散らばった札が目に入らないところまで視線を上げて、気付かれないように深呼吸をした。
他の事を考えなきゃ……って思って窓の外を見たら、ちょうど雲が切れて少しだけ部屋が明るくなって。
それだけのことになんだかホッとしていたら、白井が俺の顔を覗き込んだ。
「腕、痛くなかったか?」
捻られたほうの手を上げてみて、肩がちょっと痛いことに気付いたけど。
でも、たいしたことはなさそうだったから。
「ううん……大丈夫」
そう言って首を振った。
白井はそれでもまだ心配そうな顔で俺を見てたけど、
「ホントに大丈夫だよ」
もう一度そう言ったら、やっと「ならいいんだけどな」って言って息を吐いた。

話すこともなくて、途切れ途切れになる会話。
居心地が悪いとか、そういうんじゃなかったけど。
白井がずっと困ったような顔をしてるから。
少しでも気持ちが緩むと泣きたくなった。

金のことだって、きっと白井はずっと前から知ってたんだろう。
けど、今日まで何にも聞かずにいてくれた。
アイツだって、『ちゃんと調べなかったんですか』って言ってたくらいだから、本当は盗んだり、ヤバイことして稼いだ金じゃないのかくらいは最初に確認しなきゃいけなかったんだろう。
「……金のこと、聞いてくれてもよかったのに」
ホームレスで身元もなんにも分からない俺が10万も持ってたら、誰だって怪しいって思うだろう。
そう言ってくれたら、俺もちゃんと説明したと思うのに。
「けど、聞かれたくないことだってあるだろ」って。
そんな返事をするのにも白井はやっぱり困った顔をして。
だから。
「……ごめんね」
困らせてるのは俺だよなって思って、また少し悲しくなった。
ソファに座ったまま、白井に抱き寄せられて。
これなら、泣いてるのを我慢してる顔を見られなくていいかもって思いながら、またひとつ質問をした。
「……なんで、この金を大事にしてるって分かったの?」
何度も袋をひっくり返して中の片づけをしたから、見たことくらいはあったかもしれないけど。
財布にさえ入れていないような金なんて、大切にしてるようには見えないと思うのに。
俺の質問のあと、白井はまた溜め息混じりに視線を落とした。
「……こんなに持ってるくせに、メシも食わずに震えてたら、誰だってよほど使いたくないんだろうなって思うだろ」
そのあと、もう一度「ごめんな」って言って。
本当にすまなそうな顔で一万円札の切れ端を拾い始めた白井を見たら涙がにじんだ。
「半分に破れただけだから、銀行に行けば新しいのに替えてくれるって。だから、そんな顔するなよ」
明日取り替えて来てやるからなって言われて。
でも、俺は首を振った。
白井の手からバラバラの紙切れを受け取ってテーブルに置いて。
「けど、そのままじゃ使えないぞ」
テープでくっつけようかと思ったけど。
「……うん……でも、いいんだ」
結局、そのまま重ねて小さく折りたたんで、何も書いてない方の便箋を持ってきて丁寧に包んだ。

どんな理由だったとしても、中野が俺にくれたものだから。
もらった時のまま、ずっと取っておこうって思って。

「……一生使わないから、このままでいい」
そう言ったとき、テーブルの上に涙が落ちた。
たいしたことじゃないんだから。
こんなのぜんぜん平気なんだから。
早く泣き止まなきゃって思ったけど。
「……悪かったな」
白井がまた謝るから。
その瞬間にぷつんと何かが切れて、涙が止まらなくなった。
俺の前髪をクシャって掴む白井の顔がにじんでこぼれ落ちて。
わけもなく悲しくて。
どうにもならなくて。
「ごめんね」って謝りながら泣き続けた。
白井は困った顔のまま、
「事務所じゃ落ち着かないから」
そう言って、俺をベッドのある部屋に連れていった。


誰も来ない。
電話も鳴らない。
外を走る車の音がかすかに聞こえるだけの部屋で、ベッドの隅に二人で並んで腰掛けて。
その間、白井は何も言わずに俺を抱き締めていた。
泣いてる俺の頬に何度もキスをして、何度も「ごめんな」って言って。
白井が悪いわけじゃないんだから謝らなくていいよって言ってみたけど、やっぱり涙は止まらなくて。
ぐちゃぐちゃに泣いたままキスを返した。


ふわりとベッドに横たえられて、唇がもっと深く重なった。
白井の俺の手がシャツをめくりあげて、するっと中に滑り込む。
「……待って……白井、俺……」
他の人のことを思い出して泣いてるのに。
そんなのダメだよねって言おうとしたけど。
「こんな時はあんまり深く考えずに抱かれておけよ」
泣くためだけでいいなら、一番の相手じゃなくてもいいんだからって。
全部わかってるみたいな顔でそう言うから。
「……そうなのかな」
まだ少しだけ「ごめんね」って思ってたけど。
目を閉じて、そのままギュッってしがみついた。
最初にここへ来た日、白井はけっこう乱暴だったけど。
「……白井、今日は優しいよね」
髪を梳いてくれる手もあの時みたいに冷たくなくて。
頬や耳に触れるたびになんだかホッとした。
「一応、慰めてるつもりだからな」
少しだけ笑って、もう一度、抱き締めてくれた。



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