Tomorrow is Another Day
- 87 -




抱かれたあと、30分くらいの間はただぼんやりしていた。
白井も別に話したりはしなくて。
でも、俺がちゃんと泣き止むまで抱きしめていてくれた。
「……ごめんね。もう大丈夫だから」
やっと普通に話せるようになって、少しだけ離れてみたら、白井は俺に毛布をかけなおした。
それから、散らばっていた服を適当に着込んで、エアコンのスイッチを入れて。またベッドに戻るとそっとため息をついた。
「おまえのこと、アイツに話さなければ良かったな」
そんなことを言うから。
本当は何がダメだったのか、よけいに分からなくなった。
「……金のこと、白井に話しておけばよかったんだよね」
そしたら、白井がアイツにちゃんと説明してくれただろうから。
破られることもなかったはずだし、破られたことを白井が気にする必要もなかったのに。
「……ごめんね」
やっぱり俺がいけなかったんだなって思って泣きながら謝ったけど、白井は苦笑いをした。
「言う必要なんてないだろ。おまえの金なんだから」

涙で冷たくなった頬に触れる白井の手。
優しくて、温かくて。
なんとなく闇医者のことを思い出した。

目の前にあるのは白井のシャツのポケット。
しわくちゃな上に涙でグチャグチャになってたけど、もっと近くにいたくて鼻先を押し当てた。
急いで着たせいでボタンがちゃんと留められていないシャツを見ながら、思い出すのはやっぱり中野のことで。
いつでもスーツ姿だったけど、シャツがしわくちゃだったことなんてなかった。
それに、慌ててるところだって一度も見たことはなかったな……って、なんとなく思った。
中野が一番疲れて見えたのは、きっとアイツにふられた日。
ネクタイを傍らに放り投げて、ぼんやりしてた横顔。

そんなどうでもいいことが頭の中を通り過ぎていったとき、白井が不意に口を開いた。
「どんな男だったんだ?」
胸に押し当てた耳にじんわりと響く白井の声は少し寂しそうに聞こえた。
「……誰が?」
「おまえが好きだったって奴」
なんでそんなことを聞くのか分からなかったけど。
「どんなって……言われても……」
記憶の中は静かな空間。
新聞を読む横顔と、窓から見える夜景。
それから、タバコの匂い。
「背が高くて、手が大きくて……いっつもスーツ着てて」
あんまり話さなくて。
一度も笑ったことがなくて。
「……いつだって俺のことなんてぜんぜん見てないし、話だって聞いてなさそうなのに、俺の言ったこと、全部ちゃんと覚えてて」
本当は「優しかった」って言いたかったけど。
でも、「どこが?」って聞かれたら、答えられないような気がして。
「俺、いっつも公園でそいつの帰りを待ってて、『おかえり』を言って、朝になったら『おはよう』と『いってらっしゃい』を言って」
でも、楽しかったんだよ……って言ったら、白井は困ったような顔のまま少しだけ笑った。
それから、
「そいつにちゃんと好きだって言ったのか?」
そんなことを聞きながら。
白井の唇がおでこに触れて。
背中に回されてた手が俺の体を引き寄せた。
「……ううん」
何度も言おうって思ったけど。
でも、言えなかった。
「最初に会ったときは、そいつに恋人がいて……」
それも、俺じゃ絶対に勝てないような相手。
どんなに頑張っても追いつかなくて。
比べられたら悲しくなるほどキラキラしてた。
「……男の人なんだけど、歩いてたらみんな思わず振り返るくらいキレイで……白井だって見たらきっとびっくりすると思うよ」
華やかで。でも、控えめで。
中野はすごく大事にしてた。
「女ならともかく、世の中に振り返るくらい綺麗な男なんていないだろ」
白井はそう言って笑うけど。
「ホントなんだって」
キレイな人だから。
危ないことにあわないように、誰にも触れさせないように。
「そいつのこと、すっごく大事にしてたんだ」
羨ましくて。
悲しくて。
ひどいことを言ってしまったこともあった。
中野の大切な人。
優しい声で名前を呼んだ、たった一人の相手。
「ふうん……まあ、通り過ぎる奴が振り返るほどの美人と付き合ってたら、人生楽しくて仕方ないだろうけどな」
白井が言う通り。
アイツと一緒だったら、弟のことも忘れていられたのかもしれない。
忘れられなかったとしても。
また新しくやり直せるような気がしたのかもしれない。
「……うん」
中野に笑いかけるアイツを見たことはなかったけど。
目の前で微笑まれたら、きっとキレイな気持ちになれただろう。
大切な人を守りながら。
優しい気持ちでいられただろう。
「いつも、いいなあって思ってたんだ」
アイツみたいに美人に生まれてきたかったなんて言わないけど。
「……誰にも似ないで生まれてきたかったな」

好きになってもらえなかったとしても、まっすぐに見てもらえたかもしれないのに。
弟の代わりじゃなくて。
ちゃんと俺のことを見てもらえたかもしれないのに。

考えていたら、また泣いてしまいそうだったから。
慌てて悲しい気持ちを飲み込んだ。
「なんだよ。おまえ、そいつの嫌いな奴にでも似てるのか?」
白井の声が耳元で響いて。
「……ううん」
思い出さなければ悲しくなんてならないのに。
今すぐ全部忘れてしまえればいいのに。
「昔、そいつが好きだった人」
何年経っても忘れられなかった相手。
出会った日からずっと、中野は俺のことを通り越して見つめていた。
「過去形ってことはもう別れたってことなんだろ?」
気にするようなことじゃないだろって言われたけど。
「……うん。……でも、そいつ、死んじゃったんだ」

『じゃあね』って言って、手を振って。
笑ったまま雨の中に消えていった。
遠い過去。
でも、今でも中野の中にいる人。

「それってさ、白井だったらどう思う……?」
顔を上げたら白井は苦笑いして。
たったひとこと、「最悪だな」って言った。
だから、俺も「そうだよね」って答えて。
そっと目を閉じた。

会いたくても、もう二度と会えない弟と。
大好きなのに別れてしまったアイツと。

「お互い好きな気持ちのまま会えなくなるのって、どれくらいツライのかな」
俺はぜんぜん好きになってもらえないまま会えなくなったことしかなくて。
だから、中野の気持ちは分からない。
お互い好きになった誰かと、俺もいつか別れることがあるんだろうかって考えてみたけど。
でも、それよりも、俺のことをちゃんと好きになってくれる人がいるのかだって分からないなって思ったら、また少し悲しくなった。
「どれくらいって言われてもな」
白井はそんな前置きをしてから、
「お互い気持ちが残ってるって思ったら、忘れるのは大変だろうな」
もう駄目なんだって分かっていたら、気持ちが諦める準備をしているから早く忘れられるんじゃないかって言われて。
「……そうだね」
少しだけ頷いた。

忘れたくても忘れられない。
そんな気持ちだけは俺にも分かる。

「……ね、白井」
聞いてみたって何も変わらない。
でも。
「最初からぜんぜんダメだったら、どれくらいで忘れられるのかな…――」

聞いてから、すごく後悔した。
たったこれだけを聞くのに、なんでこんなに悲しくなるのかわからなくて。
「泣くなよ」
「……うん」
悲しくても、涙なんて出なければいいのに。
だったら、誰かを困らせることもないのに。
「まあ、無理に忘れようとしても、どうにもならないもんだからな」
白井の返事がそっと耳を抜けていく。
「……うん」
答えた後、白井に何度もごめんねって謝りながら、もう一度泣いて。
抱き締められたまま眠り落ちた。



Home    ■Novels    ■TomorrowのMenu    ■Back     ■Next