Tomorrow is Another Day
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コンビニの前にある電話を通り過ぎて駅まで行った。
駅の前ならちゃんと電話ボックスになっているから、中はそんなに寒くないんじゃないかと思って。
それから。
なんとなく白井に見られたくなくて。
たとえば今帰ってきても、そこなら絶対に見つからないと思って。

気持ちが焦って小走りになる。
並んだボックスの中で、一番キレイなところを選んでドアを開けた。
電話の前に立って深呼吸をして。
すっかり温かくなったコインを一つ、ゆっくりと入れた。
本当は闇医者に電話するつもりだった。
でも。
「こんな時間に電話したら、迷惑だよなぁ……」
まだ日付は変わってないかもしれないけど。
闇医者は一緒に住んでる人がいるんだから、夜中に電話が鳴ったらきっとびっくりする。
「……中野なら、大丈夫かな」
ためらいながら。
でも、指は勝手に番号を押していく。
電話で話したことなんてほんの数回だけなのに。
今でも耳に残ってる。
受話器から聞こえた無愛想な声。
それだってすごく面倒くさそうで、呆れたような口調でしか話してくれなかったけど。
「……声、聞けるかな……」

少しだけでいいから。
中野が出たら、すぐに切るから―――
そう思いながら、少し震える指で最後のボタンを押した。
そっと耳に当てた受話器は冷たくて。
心臓の音が跳ね返ってくるような気がした。

何度目かの深呼吸の後。
コインが落ちる音が電話ボックスに響いて。
吸い込まれそうなほど静かだった空気が揺れた。



無意識でも押せるほど、気持ちの中にしみこんだ番号だから、間違えるはずなんてない。
この受話器の向こうには、中野が煙草をくわえたまま面倒くさそうに立っているはず。

こんな時間なのにまだ外にいるみたいで、人の声や街のざわめきが途切れることなくあふれてきた。
何も言わないのはいつものこと。
でも、中野がそこにいるんだって思った。

遠い場所。
でも、同じ時間。
沈黙が流れるだけの空間だけど。
煙草の匂いが伝わってくるような気がして。
嬉しいのか淋しいのかよくわからなくなった。

あと少し。
いたずらだと思って中野が電話を切るまで。
その間だけでいいから、このままでいさせて……って、願いながら。
そっと空を見上げた。

こぼれ落ちてくるのは、本当は忘れてしまいたい大好きな街の音。
電話ボックスの外は、一度離れたら2度と戻ってこないかもしれない静かな町。

ほんの少しだけでも中野と話したいって思ったけど。
声を出したら、泣き出しそうな気がしたから。
結局、何も言えなかった。

コインは次々と落ちて、残りは数枚。
泣かないように唇を噛みしめて。
握り締めたコインが全部なくなるまで、ずっとこうしていさせてって願いながら。
ぴかぴかの百円玉をそっと差し入れた。
呼吸をするたびに白く煙るガラスの向こうは、新宿ではネオンに消されて良く見えなかった星空。
キレイだなって思って。
ふっと息を抜いた、その瞬間。


『――……どこからかけてるんだ』


不意に耳に届いた声。
いつもと同じくらい無愛想だったけど。
でも、いつもよりずっと優しくしみこんでいった。
ここにいるのが俺だって、まるっきり分かっているみたいで。
そしたら、目の前がにじんで見えなくなった。

声をあげて泣き出さないうちに電話を切ろう。
そう思って、慌てて受話器を耳から遠ざけようとしたけど。

『金は持ってるのか』

優しく響く。
その口調も、言葉も。
本当は一秒だって忘れたことがなかった中野のもの。
「……うん」
元気でやってるって伝えるために電話をかけたのに。
ちゃんと「バイバイ」って言おうって思ってたのに。
どうしてもできなかった。
「……中野にもらった金……まだ、全部持ってるよ」

約束したのに。
あの日、屋上から空を見上げて。
もう、戻らないって約束したのに。

「……中野、あのね―――」

『帰っていい?』って。
聞いてしまいそうになった。
でも。
その言葉だけは泣きながら飲み込んだ。

屋上から白い花を眺めていた中野の横顔と。
闇医者の机に飾られていた写真の笑顔と。
いろんなことが一度に通り過ぎていったから。

「……ごめんね……」

言えたのは、それだけ。
耳から離した受話器から、かすかに中野の声が聞こえたけど。
ガチャンと重い音が響いて。
後は全てが静まり返った。

ごめんね、夜中に電話して。
元気だった?
楽しいことはあった?
クリスマスは何してた?
もう、あの鍵は誰かに渡した?

話したいことも、聞きたいことも、たくさんあったけど。
結局、何も言えなかった。
今は目の前に涙が見えるだけで。
駅も街も、涙と一緒にポロポロと落ちていった。

狭いガラスケースの中。
ぺったりと座り込んで。
思い切り泣いた。
もういいやって思えるまで、泣いてしまおうと思った。

白井と「一緒に行こうね」って約束したのに。
気持ちの整理なんて少しもできてなくて。
「ごめんね、白井」
きっとこの先ずっと、忘れることなんてできないって。
本当はそんなこと最初から分かっていたのに。

嘘ついて、ごめんね……―――



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