Tomorrow is Another Day
- 94 -




まだ6時だったけど、ドキドキしながら目を覚ました。
白井はまだ寝ていたから、ベッドに入ったままで今日のことを考えた。
「……何着ていこうかなぁ」
迷ったところで、ちゃんとした服なんてないんだけど。
「でも、久しぶりに会うんだからなぁ……」
持っている服を思い浮かべながら悩んでいたら、事務所で電話が鳴った。
白井はやっぱり気付かずに眠っていたけど。
「ねー、白井。電話だってば」
力いっぱい揺すったらやっと起き上がって、まだ眠そうな顔で事務所のドアを開けた。


電話はすぐに終わって、白井が苦い顔で戻ってきた。
きっとまた嫌なヤツからだったんだろうと思って、朝から大変だねって言おうとしたら、いきなり謝られた。
「悪い。急に仕事が入った」
今日は一緒にお昼を食べて、たくさん話をして、駅まで送ってもらう予定だったんだけど。
「……そっか。でも、仕方ないよね」
これ以上白井に迷惑をかけるのはダメだから、『ひとりで帰れるから大丈夫』って言わないとって思ったけど。
「明日なら見送ってやれるけどな」
白井が残念そうにそう言うから。
「じゃあ、明日にするー」
気がついたら、元気よくそんな返事をしていた。
だって、白井にはたくさん優しくしてもらったから。
最後くらいちゃんと「バイバイ」と「ありがとう」をしてから帰りたい。
「なら、今日は美味いものでも食いに行こう。俺が帰ってくるまで待ってろよ」
「うん」
早く中野に会いたい気持ちに変わりはないけど。
でも、白井のことも大好きだから。
一日くらい大丈夫。
そう思って。

顔を洗って、服を着込んで。
マンションの下まで白井を見送りに行った。
「じゃあね。早く帰ってきてね」
手を振ったら、白井はちょっと照れくさそうな顔をしたけど。
「遅くても3時には帰るから。何食いたいか考えておけよ」
そう言って少しだけ手を上げてくれた。



帰るのは明日になったけど、今日できることは全部済ませておこうと思って。
「自分の荷物はあとでいいから、まず掃除して。それから洗濯して、っと」
3時間かけて事務所をぴかぴかにした。
そのあとキッチンに置いてある食器もちゃんとそろえて、冷蔵庫の中のものもきちんと並べて、窓の裏側まで拭いて。
「電話も磨いたし、掃除機も拭いたし、あとは何しようかな」
俺ができることは全部しようっていろいろ考えたけど、タンスの中のものを全部畳み直した段階で、あとはもうなんにも思いつかなくなった。
「白井がここを出るときの荷造りも手伝ってあげられたらよかったのになぁ」
もし、今日、例の件の返事が来て、すぐに出ていくことになったら、それまで一緒にいようかとも思ったけど。
「でも、それだと帰る決心も鈍っちゃいそうだもんな」
本当は今だってまだ少し迷ってる。
帰ってもまた「邪魔だ」って言われて終わりなんだって気がするから。
「でも、ちょっと会えるだけでもいいもんね」
そんな言葉で自分で励まして。
中野の声を思い出したら、またギュッと胸が苦しくなった。
「……なんで優しそうに聞こえちゃったんだろうなぁ……」
もっと冷たく思えたら、帰りたくならなかったかもしれないのに。
白井と一緒に楽しく暮らそうって思っていられたかもしれないのに。
「けど……ホントに帰っていいのかなぁ」
白井は大丈夫だって言ってくれたけど。
でも、考え始めるとまた揺らいでしまう。
どうするのが一番いいのかなんて、どんなに考えても俺には分からなくて。
「もう、他の事考えようっと」
そう思ったとき、寝室に忘れていた辞書が目に入った。
「あ、そうだ。白井に手紙書こうかな」
白井ならきっと字が汚くても読んでくれるからって、一瞬だけ思ったけど。
「……でも、すごく頑張ってみても、やっぱり中野にジャマだって言われたら、もう一回戻って来るんだもんな」
その時に手紙があったらちょっとカッコ悪いかなって思って。
「やっぱ、やめとこうっと」
こんなふうにグルグルといろんなことを考えても、やっぱり中野にはジャマだって言われそうで。
「こんなんじゃ頑張れないよなぁ……」
もうちょっとキリッとした気持ちになろうって思ったけど。
今から心の準備をしてもドキドキがひどくなるだけだから、それは明日になってから考えることにした。



そのあと、隅々までピカピカになった事務所の真ん中でうきうきしながら白井を待ってたけど。
「おかしいなぁ。3時には帰ってくるって言ってたのに」
時計を見たら3時半。
それでも「忙しいのかもしれないから」って思ってじっと待ってたけど。
4時になっても白井は帰ってこなかった。
仕事が長引いて遅くなってたとしても、俺に連絡する方法はないんだからどうしようもないんだけど。
でも、なんとなく気になって。
「あ、そうだ。昨日の白井みたいにマンションの下で待ってようかな」
誰かが自分を出迎えてくれるのはすごく嬉しいから、白井だって喜んでくれるかもしれない。
「うん、そうしようっと」
すぐに服を着込んで玄関に行った。
でも、靴を突っかけて出て行こうとした時、いきなりドアが開いて。
「おや、お出かけですか?」
そこにいつもの作り笑いの男が立っていた。
やっぱり顔に張り付いたみたいな冷たい笑いを浮かべてて、俺は反射的に嫌な顔をしてしまった。
「……お出かけっていうか……下で白井を待ってようかなって……」
ボソボソとそう言ってそいつの顔を見上げたら、
「白井さん、体調が悪くてお昼過ぎに倒れたんですよ。今、病院にいるので一緒にお迎えに行きましょう」
作り笑いのままでそう言われた。
白井は言って時間を過ぎても戻ってこないし、こいつに言われたことにおかしい点はないけど。
でも、なんとなく嫌な感じが消えなくて。
「……でも」
ためらっていたら、軽く背中を押された。
「早く行かないと白井さんを寒いロビーで待たせてしまいますよ。今日はご一緒に夕飯を召し上がるんですよね?」
白井と夕飯の約束をしたのは今朝。
ってことはこいつは今日、白井に会ってそのことを聞いたんだろう。
だとすれば倒れたっていうのもきっと本当だ。
「……うん」
返事をしながら、白井は大丈夫なんだろうかって急に心配になった。
「ね、そんなに具合悪いの?」
起きる時も疲れてたからなって思って。
ついでに、一人で帰れないくらい体調が悪いんだったら、一緒に外で夕飯を食べるのもダメだよなってちょっと残念に思った。
「軽い疲労のようですね。いろいろと無理を言う人に使われていると何かと大変なんでしょう」
その言葉と一緒にあの偉そうなヤツを思い出したから。
「……そうだよね」
そんな返事をして部屋を出て、しっかり鍵をかけた。
「さあ、行きましょう。車で30分ほどのところですから」
急ぐように促されて。
にっこり笑ったままの男の後から、エレベーターを降りて、マンションを出て。
行った先はコンビニの裏にある小さな駐車場。
「この車に乗ってください」
その隅に停まっていた黒い車の後ろのドアを開けられて。
シートに座ろうとしたとき、運転席に人が座ってることに気がついた。
「……この人、誰?」
車に半分だけ身体を入れた状態で後ろを振り返ったら、ニヤニヤ笑いの男に「運転手ですよ」と言われたけど。
「……でも、知らない人だもんな」
そいつは黒い服で、黒いサングラスと黒い皮の手袋をしていて。
俺が「誰?」って聞いてもぜんぜん振り向かなくて。
ただ、作り笑いの男と同じようなニヤニヤした口元だけがナナメ後ろから見えた。
なんとなく嫌な感じがして車に乗るのをためらっていたら、
「早くしてくださいね」
その言葉と同時に背中を押されて、シートの上に倒れ込んだ。
慌てて起き上がって男を振り返ったら。
「いい子にしていないと白井さんが困ることになりますよ」
そう言われて。
「……どういうこと?」
聞き返したけど、そいつはニヤッと笑っただけ。
何も言わずにいきなり俺の手を縛って、それから黒い布で目隠しをした。
心臓がバクバクして。背中を冷たい汗が流れた。
「……なんで、目隠しなんか……」
周りが見えなくなったら急に眩暈がして、具合なんて悪くないはずなのに吐き気がこみあげた。
「う……っ、気持ち……悪……」
口を押さえることもできずに身体だけ前かがみになって。
そしたら、頬にペットボトルが当てられた。
「白井さんのところに着く前にこれを飲んでくださいね」
頭の上で男の声がして。
「何?」って聞き返す間もなく、小さくて硬いものが口に押し込まれた。
「言われた通りにしてください」
苦味を感じた瞬間にペットボトルを口に当てられて。
「……んっ……」
生ぬるい水が口から溢れて、むせ返りながらその小さな粒を飲み込んだ。
そのあと男の笑い声と「おやすみなさい」という声が聞こえて。
息苦しさと眩暈の中で次第に意識は薄れていった。




気がついたときには、すっかり夜になっていて、車は真っ暗な場所に止まっていた。
俺は助手席に座っていて、もう目隠しもしてなかったけど。
でも、なんとなく頭がボーッとして、視界はかすんでいた。
「……う……っ」
身体を動かそうとしたとき、全身を縛られていることに気付いた。
首から下全体に毛布が掛かっていて、外からは全然わからなかったけど、手も足もそれぞれガムテープで巻かれていて、身体はシートにくくりつけられていた。
いつの間にか運転席には作り笑いの男。
「気がつきましたか?」
やっぱりこっちを見てニヤニヤ笑っていた。
まだぼんやりしている自分の意識をなんとか取り戻そうとして、一生懸命目を凝らして。
最初に見えたのは車の時計。ピッタリ10時になったところだった。
あれからもう6時間。
眩暈も吐き気も治まっていたけど、モヤモヤした気持ちはもっとひどくなっていた。
「……ここ……どこ……?」
聞いてみたけど、運転席の男は相変わらずニヤニヤ笑っているだけ。
後ろのシートには黒いサングラスの男がいたけど。
ちゃんと振り向くこともできなかったから、そいつがどんな顔をしているのかは分からなかった。

周りは本当に真っ暗で、視界の中には明かりがまったくついていない2階建てくらいの平たくて大きな建物しかなかった。
たぶん潰れたスーパーか何かで、車が止まっているのはその駐車場の隅っこ。
後ろには大きな道路があるみたいで、ときどき車が走り去る音が聞こえた。
少し離れた場所に電柱があって、切れかけた電気がチカチカと不規則についたり消えたりしていた。

周りが見えても、心臓は嫌な音で鳴り続けていた。
リアシートに座っている男がクックッと笑うのが聞こえて、チラリと運転席を見るとそいつもニヤッと笑った。
その時、真っ暗だった車の中をヘッドライトが走り抜けて。
「……いらっしゃったようですね」
それが視界に入ったとき、一瞬、呼吸が止まった。

電柱の下で静かに停められた車。
その色にも形にも見覚えがあった。
でも、世の中に同じ車なんてたくさんある。
そう言い聞かせていた俺の隣で、不意に電話が鳴って。
反射的にビクッとした俺の顔を見て、男はニヤッと笑いながら、ポケットから出したそれを耳に当てた。
「お一人、ですよね?」
男の質問に、
『―――そうだ』
聞き慣れた無愛想な声が電話から漏れた。



Home    ■Novels    ■TomorrowのMenu    ■Back     ■Next