Tomorrow is Another Day
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二、三の言葉と面倒くさそうな返事のあと、すぐに電話は切れて。
その直後、車から降りる人影が見えた。
逆光の中。
長いコートを着て、火のついていない煙草をくわえていた。
後ろにチカチカと点滅する街路灯。
顔は良く見えなかったけど。
間違うはずなんてない。
「……中……野……―――」
見慣れた仕草でポケットから取り出したライターから小さな炎。
それと入れ替えに鈍い光が空中にぼんやりと浮かんだ。
「中野さんというのがご本名なんでしょうかねぇ……。まあ、私どもには関係ありませんが」
薄く笑ったままの男の手にキラリと光る金属。
その冷たい刃先がのどに当たった。
「な……んで……」
中野がここにいる理由。
俺が捕まっている理由。
考えようとして。
でも、心臓の音が頭の中に鳴り響いていて、焦れば焦るほど全てが空白になっていった。
その間にニヤニヤ笑いの男の合図と共に、後ろのシートに座っていた男が車を降りた。
ゆっくりと歩いていく真っ黒な男の後ろ姿。
ズボンのポケットに銃が見えた。
「おやおや。白井さんの事務所で隠れて話を聞かれていたんじゃなかったんですか?」

聞いてた。
白井を雇っている奴らが欲しがっているどこかの会社の情報。
それを握っている男と話をつけるために手紙を渡して……――――

「……でも……」
何かが、欠けている気がした。

白井から聞けなかったことの中にそれが入っているんだろうか。
それとも……―――

うまく働かない頭の中。
「……それがうまく行ったら、白井は事務所を出るって……」
口の中で呟きながら。
今までに聞いた説明の全部を一生懸命に思い起こしている途中で。
「そうですよ。ちゃんと解っていらっしゃるじゃないですか。でしたら、今、この状況についてもご説明は不要でしょう?」
意地悪い笑みと一緒にそいつが視線を投げた先で、中野とさっき車を降りた男が距離を置いて向かい合っていた。
「彼がその相手ですよ。久世社長の片腕と聞いていますが、本当は何をなさっている方なんでしょうね?」
何かご存知ありませんか、と聞かれたけれど。
「そんなの知ってるわけ……」
それ以前に、俺はまだこの状況がよく分かっていなかった。
何から考えたらいいのか。
どこにヒントがあるのか。
中野が、どこでなんの仕事をしているのか。
ううん、それよりも……――――

目を見開いたまま。
何も考えられなくなって、続ける言葉を失った。
「だって……でも……」

こいつらが情報を得ようとしている相手が中野なら。
捜してる子供って……―――

「弟さんではという話でしたが、どうやら違うようですね」
血は繋がっていないのでしょう、と尋ねられて。
「……な……に……?」
聞き返したけど。
「おや、まだ貴方がここにいる理由がお分かりじゃないのですか?」
目の端でしか捉えられないそいつの顔を見ようとして首を動かした瞬間、ナイフの先端がスッと肌をすべった。
「おっと、動かないでください。小型ですが、貴方が思っているよりもずっと良く切れますからねぇ」
咽喉を裂くのなんて簡単ですよと言いながら、クックッと笑った。
刃物と同じくらい冷たい男の手が俺の首に触れて。
そのあと目の前に突きつけられた指にはわずかに血がついていた。
「大丈夫ですよ、かすり傷ですから。放っておいてもすぐに直るでしょう。毒なんて塗ってませんから安心してください」
そう言った口元が不自然に歪んで、笑いを堪えているのだとわかった。
おかしいことなんて何もないのに。
笑い続ける男。
何かが狂ってるのかもしれないと思った。
「ですが、これからは迂闊に動かないでくださいね。事が済むまで大切な身体に傷をつけるわけには行きませんから」
頭の中をただ通り過ぎていく言葉。
飲まされた薬のせいなのか。
耳鳴りと、吐き気とめまいが一緒に襲ってくる。
「……でも……俺……探している子供の身代わりは……断ったのに……」
自分の耳にもそれはうわごとのように聞こえた。

嫌だって断ったとき。
白井は「仕方ない」って言ってくれた。
だから、その話は終わったはず。
なのに。

「もちろん、貴方は彼が捜している子供の身代わりなどではありませんよ」
そいつは俺のシャツから、はみ出たお守りの袋をつまみ上げて、また口の端で笑った。
それから。

「そう言えば、お解りでしょう ……一瀬護さん」

空白の頭の中。
虚ろに響く言葉。
首さえ動かせずにいる俺の視界の隅。
冷たい笑みが映って。
「ずいぶん探したんですよ」という声が、音のない空間に響いて消えた。

重苦しい沈黙の後。
「……中野が……なんで……」
かすれた問いかけが聞こえなかったのか、そいつはニヤニヤしたままポケットから紙切れを取り出した。
「まさか貴方があの時の子供だったとは」
ヒラヒラさせたのは俺の写真。
焦点の合っていないブレた写真だったけど、それは確かに俺で。
北川から借りた制服を着ていた。
「初めて白井さんの事務所でお会いした時には気付きませんでしたよ。ずいぶんお痩せになったんですねえ……いえ、やつれたというべきでしょうかね」
笑いながら続けられる言葉。
「おや、一瀬さんは覚えていらっしゃらないですか? それは残念です。まあ、覚えてらっしゃったら、疾うに逃げ出していたのでしょうけどね」
そう言われて、視線だけ動かして男の顔を見たけれど。
患者モドキの中にも北川の店に来ていた客の中にも、こんなヤツはいなかった。

―――だとすると……どこで……?

目を閉じて記憶の中をかき回した。
北川の事務所、中野のマンション、診療所、闇医者と一緒に行った病院……
でも、思い当たることはなかった。
「思い出せませんか? 貴方がアルバイトをされていたお店を出た所で声をかけたことがあるんですがね」
そこまで言われて。
薄い記憶がぼんやりとした輪郭で通り過ぎた。
店の帰りに声をかけてきた。
普通の服で普通の人で、何のひっかかりもなくて。
気持ちの中に残らないタイプの男。
『遅いから送ってやる』って言われて。
でも、どこかで嫌な感じがして、走って逃げた。
あのあと会うこともなかったから、そんなことはすっかり忘れていた。
「……補導……されたんだ……と……思ってた……」

でも。
間違いない。
あのときの男だ……――――

「思い出していただけたようで光栄ですよ」
そんな言葉を吐きながらもそいつの顔はフロントガラス越しに見える中野と黒服に向けられていた。
視線の先で続けられている遣り取りは聞こえないけれど。
どんな話をしているのかなんて考えるまでもない。
ただ中野がいつもと変わりなく見えることだけが救いだった。
「一時は彼がこちらの動きを探るために貴方を送り込んだのかと思いましたが、本当に偶然だとは。神様に感謝しなければいけませんね」
忍び笑いと。歪んだ口元。
「もっとも、貴方にとっては不運でしょうけれど」
そんな言葉がひどく冷たく響いて、毛布を被っている身体に震えが走った。
「……白井は……知ってたの……?」
やっと吐き出した質問に男は、「もちろん知らなかったでしょうね」と返事をした。
それを聞いて少しだけホッと息をついたとき。
「……もしご存知だったら、貴方を彼の元に帰すとはおっしゃらなかったでしょうから」
張り付いたような笑い顔が俺に向けられて。
その後、聞きたくなかった言葉が降ってきた。
「このお金が手に入れば、可愛いお嬢さんに十分な養育費を送って差し上げられますから、一番高く売れそうな相手に貴方をお渡ししたと思いますよ」
離婚なんてなさらなければいい父親だったはずですからね、と言って。
そいつはまた笑った。
「さて、ご説明はこれくらいにして……あちらのお話は順調なようですよ。彼の声、お聞きになりたいですか?」
そいつはゆっくりと窓側の耳に入れていたイヤホンを外して、突きつけられていたナイフを下ろした。その後、その手でポケットに入れられていた四角い機械からイヤホンを引き抜いた。
『――……の……場所で……残りの金を受け取ってからガキを引き渡す』
突然漏れ出したザーッという音。
それに混じって聞こえる声。
しゃべっているのは黒服の男だろう。
ザラついた声が耳に障った。
その斜め前で中野はただいつもと同じように立っていて。
男の一方的な話を聞き流しているように見えた。
『例の情報なしで引き渡してやろうって言ってるんだから、感謝するんだな。情報を取られたら、今度はアンタが久世に始末されるんだろう?』
中野はそれにも何の返事もしないままくわえていた煙草をアスファルトの上に落とした。
それから、抱えていた紙袋を、面倒くさそうに男の足元に放り投げた。
『仕掛けなんてしてねえだろうな。自分で開けてみろ』
黒服に言われた中野はやっぱり面倒くさそうに袋の側までくると、いきなりそれを蹴り倒した。
『手荒なことを……まあ、いい』
横倒しになった紙袋の口がぱっくり開いて中から飛び出した長方形のものを黒服が慌てて中にしまいこんだ。
中野はそれを見下ろしていたけど、内ポケットに手を入れようとした時、黒服に銃を向けられた。
『おっと、俺が車に戻るまで動くなよ。アンタの命はもちろんだが、それよりも大事なガキを切り刻まれたくねえだろ?』
そう言ってこちらに向かって片手を上げると、下ろされていたナイフが再び俺の首筋に当てられた。
『そういうことだ。迂闊に動くんじゃねえよ』
四角い機械の中から黒服の笑い声が聞こえて。
中野が手を下ろすとナイフを握っている男も笑い出した。
「よかったですね、一瀬さん。どうやら彼は貴方を買い取る気があるようですよ」
袋の中身はお札の束ですよと言いながら、男が立てた指は5つ。
「今夜いただいたのが5千。残りの半分は明後日。そういうお約束です」
「……なに……それ……」

そんなことあるはずないって思った。
でも。
チカチカと点滅を繰り返しながら弱くなっていく鈍い光の中。
佇んでいるのは、間違いなく中野……――――

「どうですか、一瀬さん。ご自分の身柄に一億のお金を払う方がいらっしゃるご気分は?」
「……う……そ……」
絶対に。
そんなの、嘘なんだから。
「だって、中野は……」

戻ってくるなって言ったんだ。
俺のことを探してるはずなんてない……―――

「そんなの、ぜったい……」
言いかけた言葉はザーッという雑音と黒服の声に消された。
『神田にはうまく言ってある。向こうが動く頃にはガキはアンタの手元に戻ってるさ』
それでいいだろ、という言葉の途中で、消えそうになっていた明かりがパッと元の色を取り戻した。
眩しそうに目を細めた黒服から二メートルくらい離れた場所で、中野はいつの間にか新しい煙草を取り出して火をつけた。
それから、ゆっくりとこちらに身体を向けた。
「……中……野……―――」
車さえ滅多に通らないような淋しい場所。
俺はライトさえついていない車の中に座ってて。
ここにいるのが俺なのかどうかなんて、絶対に分からないと思うのに。

『―――大人しくしてろよ』

真っ直ぐに向けられた視線。
機械を通して耳に入ってきた声。
「……なんで……? 俺だって分かるの……?」
そう思った瞬間、気持ちの中で何かがプツンと切れて。
「……中……野……中野っ……中野っ!!」
気がついた時には、泣きながら叫んでた。
怖いとか、助けて欲しいとか、そういう気持ちより。
今すぐ走っていって、中野と話したくて。
でも。
「さすがにマイクがあることに気付いていらっしゃいましたか。ですが、残念ですね。こちらの声は彼には聞こえないんですよ」
男がニヤニヤ笑いながら見送る中、中野は黒服に促されて車に乗り込んだ。それから、振り返りもせずに暗い駐車場を出て行った。



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