Tomorrow is Another Day
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中野の車が見えなくなってから、黒服の男が紙袋を抱えて戻ってきた。
「へっ、こんなガキが一億とはな」
ドサッという音は後ろのシートに投げ出された紙袋。
中野が黒服に渡した札束の重み。
「ただの紙切れなんて交ざってねえだろうな」
黒服がひとりごとを言いながら札束を取り出して、パラパラとそれをめくった。
「大丈夫でしょう。面倒なことはお嫌いな方らしいですからね」
ニヤニヤ笑いの男がそう言ってチラリと俺の顔を見た。
「無傷で返すようにと言うのがあの方のご希望ですからね。この子がこちらの手元にある限り下手な細工はなさらないでしょう」
黒服がまた「こんなガキがな」と吐き捨てて、札束を紙袋に投げ入れた。
「どういうご関係ですか? 兄弟にしては年が離れ過ぎているように思えますが」
そのあと中野の年を聞かれたけど、俺は黙って首を振った。
「では、どこかの女性に産ませたご子息なんでしょうかね。まあ、私には関係ありませんが……知りたい方もいらっしゃるみたいなんでねえ」
そう言いながら何かを図るように視線が動く。
それに気付くこともなく黒服がまた「へっ」と吐き捨てる。
「親もいねえようなガキ、他に使い道なんてねえよ。とにかくさっさとズラかろうぜ。ヤツの気が変わって警察にチクられないとも限らねえ。こんなガキの一人や二人、見殺しどころか自分の手で殺れるようなヤツだからな」
どこかで焦りを隠せない黒服とは対照的に、ニヤニヤ笑いの男はゆったりと運転席を降りた。
「では、準備をしましょうかね」
張り付いた笑顔のまま助手席のドアを開けて、俺の体を縛っていたロープを解いた。
「手足は縛ったままで後ろに運んでください。また眠っていただかなければなりませんが、万一のことを考えてね」
その前に金を……と言われ、黒服は指示されたとおりトランクに紙袋を放り込んだ。
それから、面倒くさそうに俺を抱き上げるとリアシートに運んだ。
乱暴に投げ出されてシートに倒れこんだ時、体を起こす間もなくバサッと毛布をかけられて。
その後、足元でバタンとドアが閉められてすぐにロックされた。
反対側のドアから乗り込んできた黒服は変な笑いを浮かべながら俺を見下ろしていたけれど。
「検問でもあったらまずいですからね。不自然に見えない程度に首に何か巻いておいてください」
運転席にいた男にそう言われるとシートの下に置いてあった袋から真っ黒な布を取り出した。
大きなハンカチのようだったけれど、男がバサッと振るとホコリっぽい臭いがした。
黒服はビシッとそれを伸ばしながら、しばらくの間ニヤニヤ笑いでこちらを見ていた。
視線の先は俺の首筋。ナイフの刃先でつけられた傷。
血はもうすっかり乾いていて、それほど痛みもなかったけれど。
少しでも動くとピリリッと肌が引き攣れて、すごく嫌な感じがした。
それに気付いたみたいに、ニヤニヤ笑いが運転席から少しだけ振り返って、
「くれぐれも傷口を広げるような真似はしないでくださいね」
いつもより少し厳しい口調で注意した。
当然、その言葉は俺に対しての警告と受け取ったけど。
「―――分かってるさ」
返事をしたのは、黒服の男だった。
口の端で笑いながら。
でも、視線はまだ俺の首筋に注がれていて。
それに気付いた時、不意にゾクリと背中に冷たいものが走った。


車はもうほとんど通らなくなっていた。
遠くに見えていたはずの明かりも減ったような気がした。
じっとりとした沈黙の中、不意に振動音が聞こえて。
黒服はやっと俺の首から視線を逸らした。
運転席では作り笑いの男が片眉を歪ませながら小さな携帯を取り出して。
チラチラ光る画面に目を遣ると、忌々しそうな顔で舌打ちして車を降りた。
バタンとドアが閉まって、またなんの音も聞こえなくなった。
こちらに背中を向けて電話をしているニヤニヤ笑いが、誰とどんな話をしているのかなんてまったくわからなかったけど。
こいつらにとって面白い話じゃないってことだけは確かなようだった。
少しでも何か聞こえたらと思いながら、車の外に意識を集中してたら、黒服にいきなり胸元を掴まれて。
視線を移したら、その手にはさっき取り出した真っ黒な布が握られていた。
「顔を上げろ」
傷口を隠すための布は近くで見ると薄汚れているのが分かって。
不安と緊張で思考を止めてしまった頭の片隅で、バイキンでも入ったらどうするんだろうなんて少しだけ思った。
「早くしろっ!」
なんだか変にイライラしている男をこれ以上怒らせないようにって思いながら、言われた通りにあごを上げた。
でも、縛られているせいか傷口が引きつるせいか、中途半端にしか上を向けなくて。
そしたら、いきなり乱暴に髪を掴まれて、グイッと後ろに引っ張られた。
「……うぁっ……!」
痛いと言おうとした時、口を塞がれて、体ごとシートに押し付けられた。
傷口を隠すだけのはずなのに。
「―――声、出すんじゃねえぞ」
低い声がすぐ耳元で聞こえて。
布切れを握っていたはずの手に、ナイフが光っていた。
「……な……に……?」
聞き返す間さえなく、肌の上をスッと冷たいものが滑った。
「……っ……!!」
その嫌な感触の後、じんわりと血がにじんで行くのがわかった。
叫びたいのに、声なんて出なかった。
ただ、動けずにいる俺の目の前で黒服の目がゆっくりと視線を下げて。
同時に首から胸元へ血が流れていった。
それを追いながら、また薄く笑う目。
「……い……やだ」

狂っている。
流れる血を見て、口元に浮かんだ微笑み。

凍りついたように体が強張って、ピクリとも動けないでいる間に電話が終わって。
耳元で「くそっ」という呟きが聞こえて、すぐに俺の首に黒い布を巻きつけた。
「できましたか? なら、行きましょう」
静かに運転席に戻った男は、黒服の冷たい目にも新しくつけられた傷にも気付かずにハンドルを握った。
「おっと、その前に薬ですね」
運転席から伸びた手には小さな錠剤が乗せられていて。
それを見たとたんに来るときの嫌な眩暈が押し寄せた。
ぐっと息が詰まる。
つばを飲み込むのさえ苦しいほどなのに。
黒服は口元に笑みを浮かべたままそれを受け取ると、俺の口の中に押し込んで無理矢理水で流し込んだ。

車はゆっくりと大きな通りに出て、街の明かりが見えるのとは反対の方向へ走り出した。
「では、しばらくいい子にして眠ってくださいね」
一瞬だけ振り返ってニヤリと笑った運転席の男の声がそこでの最後の記憶だった。


黒服の怒鳴り声と、作り笑いの声。
現実の匂いのする不安な夢の中、俺は何度も何度ものどに傷をつけられた。
流れる血を自分の手で拭いながら。
空白の頭の中に袋から溢れ出した札束の意味がグルグルと巡っていった。

白井が言ってた男が中野で。
中野が探してたのが俺で……―――

鮮明に残る。
黒服が重そうに抱えていた札束。
それを目の当たりにしても、まだどこかで納得できなくて。

白井がいなくなったことも。
俺がここへ連れてこられたことも。
紙袋に入れられた札束のことも。
全部、嘘みたいで。
本当は目を覚ましたら、白井のベッドの上にいるんじゃないかって思った。
でも。

『―――大人しくしてろよ』

ズキンと胸に刺さる聞き慣れた声。
それだけは、間違いなく本物。
だから――――


「……な……かの……」
眠っているはずなのに眩暈がして。
吐き気に襲われて目が覚めた。
薄ぼんやりとした視界は夢の続きみたいにグルグルと回っていて。
それを意識したら胃液がこみ上げた。
口を押さえようにも手は縛られていて、体を動かしたら体にかかっていたロープが腹に食い込んで。
「……うっ……っ」
胃の中のものを吐き出す直前、黒服の手がコンビニの袋を広げた。
「う、ぐっ……は、っ」
何も食べてなかったから、吐き出したものはさっき飲まされた水だけだった。
でも、嘔吐物の酸の刺激がのどを焼いた。
「ちっ、これだからガキは」
車は走っていた道路からわき道にそれて。
止められたのは砂利で埋め尽くされた広い空き地。
見える範囲に建物らしいものは何もなくて、明かりは遠くにポツンポツンとわずかにあるだけだった。
「さっさとしろ」
突き飛ばされるように車を下ろされて、地面に転がり落ちた。
イラついた黒服がガツッと俺の腹を蹴ったけど、すぐに作り笑いの男に叱り飛ばされた。
「丁寧に扱うように言ったはずでしょう。指示に従えないなら、それ相当の対応をしますよ」
いいですね……と言われた瞬間、黒服の目が鈍く光って。
でも、車に背中を向けたまま引きつった口元で「わかった」と返した。
そのあと、水を飲まされて、また吐いて。
「どうやら薬が合わないようですね。ですが、あと少しですから、しばらく我慢していただきましょうか」
これ以上吐かれても面倒だからと、追加の薬を飲まされることもないまま、また車に乗せられた。
俺の隣には黒服の変わりに作り笑いの男が座って、首に巻かれていた布も解かれた。
それを取る時にペリリッと肌から布が引き剥がされる嫌な感じがあった。
黒い布だから見た目にはぜんぜん分からなかったけど、首には乾いて固まった血がベッタリとついていたんだろう。
男の顔からいつもの作り笑いが消えた。
「……クズですね」
すぐ隣に座っている俺にさえ、ほんの少ししか聞こえないような声がそう呟いて。
そのあと、視線は黒服の後ろ姿に注がれた。
肌寒いほどの緊張感が狭い車内に流れて。
黒服もその気配を察したのか、肩越しにチラリと視線を返した。


30分くらい経ってからやっと吐き気がおさまった。
そっと周囲を見回していたら、最初に乗ってきた車と違うことに気付いた。
色も形も内装も良く似ていたけど、中は少しだけ天井が高くて広いような気がした。
「少し揺れますが我慢してくださいね」
そのちょっと前から車は何度も何度もグルグル曲がっていたから、走っている場所が山道なんだってことはわかったけど。
外は真っ暗だったし、しかもフロントガラス以外の窓には黒いシートが貼られていて、周囲がどんな場所なのかはまったく分からなかった。
「ご気分はどうですか?」
吐き気は治まっていたけど、気分は最悪だった。
どんなに一生懸命考えようとしても頭の中は空白のままで、何一つまともな意見は出てこない。
ただ今日の出来事が断片的に通り過ぎて行くだけだった。
怖いのが黒服なのか、隣にいる男なのかさえ分からなくて。
でも、返事をしようとしても、唇が震えて声が出なくて。
何を聞かれてもただ首を振るだけだった。
ぐるりとカーブを曲がるたびに頭の中がグチャッと混ざって、考えようとしていたことを全部ダメにしてしまうような変な感じ。
何度整理しても、自分がここにいる理由が頷けなくて。
この先、どうなるのか、どうしたらいいのかも分からなくて。
自分のつま先を見つめていたら、俺の気持ちを見透かしたように作り笑いが肩を叩いた。
「大人しくしていなさいと言われたのですから、貴方はただ言われた通りにお迎えが来るのを待っていればいいんですよ」
くれぐれも余計なことはしないようにと笑う口元はやはり不自然に歪んでいて、黒服が俺ののどを傷つけた時の目と似ているような気がした。
そう思ったら、またかすかに体が震え始めた。
「寒いですか?」
心配しているような口調で、でも、やっぱり冷たい笑いが俺を見下ろしていた。
ただ首を振ると、また薄く笑って。
「それならいいんですが。今日お泊りいただく場所は車の中よりも少し寒いかもしれませんね」
一日くらいなら我慢できるでしょう、と言う声は俺じゃなくて黒服に向けられていた。
その時、黒服の口元が笑ったように見えて、また嫌な感触に襲われた。
「……中野と会うのって……あさって……?」
夜が明けて、明日になって、昼が過ぎて夜になって。
また夜が明けてあさってになって―――
「朝なの? それとも、夜?」
やっと声を振り絞って聞いたのに。
男の返事は「夜ですよ」という短いもので、他には何も言ってもらえなかった。
「そのときも座ってればいいの?」
車の中で、のどにナイフを突きつけられたまま。
それでも、目の前に中野がいてくれるなら、ガマンできるって思ったのに。
そいつから返ってきたのは、「無事にお会いできるといいですねえ」という冷たい声だった。



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