Tomorrow is Another Day
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泣き疲れて頭がボンヤリして。
ちゃんと目も開いていて、頭も起きていて。
全部がピリピリしてるのに、意識がなくなりそうな変な感じのまま。
耳に入ってきたのは車が止まる音。
それから、ザクザクと凍った雪を踏む音。
「……誰か……来た……」
足音は一人だけじゃなかった。
玄関から廊下を通ってくる間、あちこちでドアを開け閉めする音が聞こえた。
「……た……すけて」
叫ぼうとしたけど、のどからは空気が抜けるだけで、ほんの少しも声にはならなかった。
ドアの所まで這っていこうかと思ったけど。
身体はガタガタ震えるだけで少しも動かなくて。
声の変わりに涙が出た。

―――……お願……い……

心の中でつぶやいた時、部屋のドアが開けられた。



立っていたのは俺の知らない男。
まだ夜も明けてないこんな時間なのに、きっちりとしたスーツ姿で髪を整えて、ネクタイをしてた。
そいつは俺の顔をチラッと見たあと、床に広がった血と黒服に視線を投げた。
ドアの方向からなら黒服の顔が見える。
死んでるって分かるはずなのに、そいつはぜんぜん驚いた顔もしてなくて。
ただすごく嫌そうに顔をゆがめただけだった。
「……ね……――――」
誰かが来てくれたらちゃんと声も出るって思ってたけど。
涙が乾いた頬が引きつって唇と体が震えるだけで、かすれた空気しか出てこなかった。
泣きはらしたせいで目が痛かった。
それでもそいつの顔をじっと見てたら。
「一瀬君だね?」
そいつは静かに俺の名前を呼んで、黒服の身体を跨いで目の前に立った。
「……う……ん」
音の出ない声で返事をして、震えながら何度も頷いて。
そいつを見上げたらまた涙が出てきた。
この人は刑事で、俺のことを探しに来てくれたのかもしれないって。
そんなふうに思ったのは、きっちりした服装とまともそうなしゃべり方のせい。
だとしたら、ちゃんと説明しないとって思ったけど。
何から話せばいいのか分からなくて口だけパクパクしていたら、そいつはまた顔を歪めた。
そのあと、部屋に入ってきた男の一人に俺を車に連れて行くように言った。
「……ね、ロープ……」
手足を解いて欲しいってなんとか伝えようとした。
でも、ちゃんと聞こえているはずなのに、そいつは何の反応もしてくれなかった。
どうして……って思った瞬間。
「後から着く連中にこれを片付けるように指示しておけ」
男がそう吐き捨てた。
死んでる黒服をあごで指して。
ものすごく偉そうな態度で。
「かしこまりました」
忌々しそうに口元をゆがめて部屋を出ていった。
男の後ろ姿を見ながら、俺はまた空白になった。

あの口調。
それから、声。

それは、間違いなく白井の事務所に来ていた男のものだった。
土足のまま事務所に上がりこんで、白井に無茶な仕事ばかりさせていたあの……―――

それを悟ったとき、目の前が真っ暗になった。
助けに来てくれたわけじゃない。
だって、コイツらは中野から情報をもらうために俺を探してたんだから。


部屋に残った男は、ガチガチと震えたままの俺を無言で担ぎ上げて部屋を出た。
外はまだ夜で。
建物の前にはワゴン車が一台止まっていた。
車の横に立っていた男がドアを開けて。
その後、俺は一番後ろのシートに放り投げられた。
首から上が自分の頭とは思えないほど重く感じられて。
投げられた時、身体がガクンと揺れた衝撃は感じたけど、前のシートにぶつけたはずの足に痛みはなかった。
「……う……っく」
口を開くと車の匂いと暖かい空気が一気に身体の中に入ってきて、少しだけホッとしたけど。
冷え切った皮膚や手足は車内の暖かさなど少しも感じなかった。
「……ね……ロープ……手、痛くなって……」
声が出ることを確かめながら、切れ切れの言葉を出す。
返事なんてしてもらえないのはわかってたけど。
一人でここに置き去りにされるのだけはどうしても嫌だったから、必死で見たこともない男に話しかけ続けた。
でも、俺の頼みはあっさりと全部聞き流された。



そのうちに他のやつらが車に戻ってきて、最初に部屋にきたスーツの男が助手席から冷たい口調で車を出すように指図した。
ゆっくりと動き始めた時、窓の外はまだ真っ暗だったけど。
縛られたままの手足にもまともに血が通い始めた頃には、木の間もうっすらと明るくなってきた。
車の中には俺の他に4人。
運転席には俺を担いでここに運んだ男。
助手席には白井の事務所にきていた偉そうな男。
それから、俺の隣に一人。後ろに一人。
誰一人話さない車の中には、張り詰めた空気が漂っていた。
辺りがすっかり明るくなって、外の風景が見えるようになった頃、隣の男がポケットから何かを取り出した。
銀色の四角いものの上には、白くて丸い錠剤が並んでいた。
またそれを飲まされるんだと思った瞬間、急に吐き気がこみ上げてむせ返った。
視界の隅で隣の男が顔を顰めるのが分かったけど、咳は止まらなかった。
苦しいって思いながら丸くなっていたら、助手席の男が厳しい口調でそいつに言った。
「薬は後だ」
隣の男はその言葉に頷いてから俺に目隠しをさせた。
「一時間程度だからな。騒いだり暴れたりするなよ」
そう言った後、口にタオルを噛まされた。



目隠しをされていても、外が明るくなっていくのは分かった。
相変わらず曲がりくねった山道だったけど、もう半分くらい降りたかなって思った時、車が急にガタガタと揺れ出して、シートの上で身体が跳ねた。
車が止められたのはそれから間もなく。
俺は目隠しと耳栓と口に噛んでいたタオルを外された。
林の中にコンクリートの建物。
でも、車が止まっていたのはその裏側。
2階建てで普通の家のように見えたけど、作りかけみたいに壁もコンクリートの色のままだった。
裏口の辺りは変に煤けて黒くなっていて、なんだかすごく嫌な感じがした。
「さて」
助手席の男が振り返って、嫌な笑いを浮かべた。
「聞いておかなければならないことがあるんだが、正直に答えてくれるね?」
そんな言葉と共に意地悪い笑みが口の端に浮かんだ。
俺の返事を待つ間、運転席の男もミラー越しにこちらを見ていた。
温まったはずの身体がまた震え出す。
眠れなかったせいで何も考えられなくなった頭が痛み始めた。
「……う……ん」
震える唇。のどに渇いた声が張り付いた。
「昨日、ここに来た記憶は?」
そう聞かれたけど。
俺は黙って首を振った。
またゆっくりと前進する車の前に真っ黒な穴のようなガレージ。
建物の一階部分の半分くらいを占めていて半分だけシャッターが開いていた。
車はそこに滑り込んだところで静かに止められた。
「では、質問を変えよう。―――あの車に見覚えは?」
俺の後ろに座っていた男が車を降りて。
そのあと真っ暗な空間に懐中電灯の光りが走った。
照らされた車はどこにでもあるような乗用車。
でも、あちこちへこんで、フロントガラスは割れ、しかもシートは焼けただれていた。
しばらくの間、目の前の光景が気持ちの中を行ったり来たりしてたけど。
ナンバープレートを見た瞬間にコンビニの裏の駐車場が頭に浮かんだ。
「……これ……マンションを出た時……乗ってきた車……」
それだってはっきり覚えたわけじゃなかったけど。
助手席の男はニヤリと笑って、
「ふん、それほど鈍いわけでもないようだな」
そんなことを言って、外に立っている男に向かって頷いた。
懐中電灯を持っていた男は手袋をすると、壊れた車のドアを無理矢理開けた。
その瞬間、黒い塊がいくつも転げ落ちて床に散った。
バラバラになってホコリと一緒にひらりと舞ったそれは確かに札束の欠片。
でも、全部灰になってた。
「五千万が残らず黒焦げだ。―――もっとも受け取るはずだった男も同じ末路だが」
自業自得だとつぶやく声は笑っているように聞こえた。
空白になりそうな頭の中を過ぎっていったのは、作り笑いの男の顔。
「それって……―――」
聞き返しながら、また吐き気がこみ上げた。
慌てて唾を飲み込んだ時、突然外を照らしていた懐中電灯が消えた。
目の前に広がる暗闇。
肺が痛くなりそうなほど冷たくて埃っぽい空気が開け放されたドアから入り込んできて、俺はまたむせ返った。
けど、体が震え始めたのは寒さとは違う何かのせい。
床に流れた血と黒服の死体。
昨日の夜の光景が頭から離れなくて。
「ね……電気……つけ……て」
たったそれだけを告げる声さえ、自分で聞き取れないほどに震えていた。
でも。
「質問に答えてからだ」
助手席にゆったりと座ったままの男から、冷たい返事が戻ってきた。
「どうやって白井のところへ来た?」
張り詰めた車内に響く声。
「誰に指示された?」
答えるまで呪文のように繰り返される。
暗闇の向こうには黒焦げの札束と壊れた車。
「……違……う……コンビニの隣りで寝てて……」
早く終わらせたくて、できるだけ早口で説明しようとしたけど。
そう思えば思うほど、まともにはしゃべれなくて。
暖かいはずの車の中で一人震えながら、切れ切れの説明を続けた。
ホームレスをしてたこと、白井に拾ってもらったこと、掃除をする代わりにおいてもらったこと―――
「では、昨夜おまえをここに連れてきた男は? 白井とよく会っていたのか?」
聞こえているのに、頭を素通りしていく。
3回くらい同じ質問を繰り返されて。
「……わ……かん、な……い」
ようやく答えた時、男の眉がつりあがった。
「ちゃんと答えないつもりなら、ここに置いていくが?」
怒鳴ったりはしなかったけど。
乾いた声でそう言われて、また震えがひどくなった。
ガクガクしながら記憶をひっくり返してみたけど、二人が何を話していたのかはほとんど思い出せなくて。
「……二回くらい……シュークリーム持ってきて」
くだらない記憶。
そんなことがコイツに何の関係があるんだろうとか。
この質問の意図はなんだろうとか。
考えようとしても空回りするだけで。
「それは、おまえに?」
「う……ん、白井は……食べてなかった」
答えながら、ただ震え続けた。
「他には何か持ってきてなかったか?」
「……ううん……なにも……―――あっ……」
答えている途中で、不意に白井に言われた言葉を思い出した。
『誰かに聞かれたら、たまに封筒を持って来てたと答えるように』って言われていたのに。
「なんだ?」
今から付け足す方が嘘くさいかもしれない。
けど。
「……封筒、持ってきてた」
その声は思っていた以上に白々しくて、下手な嘘だと自分でも思った。
でも、男はそれを聞いて「ふん」という顔で頷いた。
そのあと真っ暗な車の外に目を遣って、男のいる方向に軽く顎をしゃくった。
「では、昨日は何と言って連れ出された? 朝、白井に言われたのか?」
何かを探るようにじっと俺の目を見ながら。
「……ううん。白井と一緒に夕飯食べようって言ってて……でも、ぜんぜん帰ってこなくて……そしたら、仕事中に倒れて病院にいるから、一緒に行こうって、昨日の人が」
この質問の裏で何を問われているんだろう。
聞かれても答えてはいけないことがあるのかもしれない。
いろんなことがぐるぐると巡ったけれど。
そう思っても、言っていいことと悪いことの区別なんてできなくて。
ただ、身体の震えだけがどんどん激しくなっていった。
「……ね、もう……」
明るい所に出たいって言おうとしたけど、その先は声にならなかった。
息苦しささえ感じ始めたとき、助手席からまた次の質問が投げられる。
「他に仲間はいたか?」
全部聞いていたはずなのに、頭の中が繋がらない。
「……な……に……?」
聞き返したら、斜め後ろからわずかに見えていた男の口元が歪んだ。
「別荘で撃ち殺された男とそこで黒焦げになってる男以外に仲間はいたか?」
さっきよりも冷たい口調でそう言われて、無意識のうちに壊れた車の方向に目を遣っていた。
今は明かりも落とされていて、そこに車があることがなんとかわかる程度だったけど。
懐中電灯に照らされていた時の残像がやけに鮮明に頭の中に蘇った。


黒焦げの助手席。
その隣りにあった黒い何か……――――


「……う……っ、ああっっ!!」
半開きになっていたドアから外に出ようとしたけど。
「出して、出してっ!!」
手も足も縛られたままでそんなことができるはずもなくて。
「静かにしろ!!」
男の怒鳴り声の後、身体をシートに押さえつけられた。
みぞおちに入った男の拳。
一瞬、呼吸が止まった。
「うっ……ぐはっ……」
咳き込んだらタオルで口を押さえられて。
息ができなくて、涙がこぼれて。
なのに、
「もう一度聞く、仲間はいたか?」
助手席から、また呪文のように同じ質問が降って来る。
「……んうぅ、んん」
泣きながら首を振ると口に入れられていたタオルが取り除かれた。
見下ろしている冷たい眼は明かに苛ついていて。
怖くてまともに見ることができなかった。
「……電話……してた」
途切れ途切れに蘇る場面。
作り笑いの男の不機嫌な顔。
「時間は? 夕方か?」
頭を過ぎっていったのは車の時計。
ヤツらが中野と待ち合わせた時間はぴったり10時で、金を渡して中野がいなくなった後、電話がかかってきた。
それを取るとき、作り笑いの男は顔を歪ませた。
だから、仲間なんかじゃないかもしれないって思ったけど。
「……夜……10時より、遅かった」
やっと答えると、助手席の男は面倒くさそうに俺の隣に視線を飛ばした。
「嘘ではなかったようだな」
そんな言葉に、「そうですね」という返事があって。
俺の体を抑えていた手が離れた。
緊張が少しだけ緩んだ瞬間、またひどい吐き気がこみ上げて。
むせ返りながら身体を起こそうとした時、ガレージのシャッターが全部開けられた。
差し込む光の先に壊れた車。
それから、運転席に黒っぽい影。
慌てて目を逸らしたけど、残像はしっかりと脳裏にこびりついて、どんなに振り払おうとしても離れなかった。
「……嫌……早く……外に出して……」
震えながら視線を移した先。
助手席の横顔は薄く笑ってた。
「やだ……っ……出して……っ!!」
吐き気と恐怖で身体が震えて泣きながら叫んだ時、頬を叩かれて。
その間に車はやっとガレージを後にした。


明るい光が目を焼いて。
ホッとするはずなのに、なぜかまた不安になった。
「止めろ」
助手席の男が見ていたのは、煤けた建物の前。
そこにはまた別の車が止まっていて。
ガッシリした男二人に挟まれて、顔をいびつに腫らした白井が立っていた。



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