Tomorrow is Another Day
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「……白……井」
汚れた服。
バサバサの髪。
左の頬と目の下が青く腫れ上がっていて、あごにもアザができていた。
「どうして……ケガなんて……」
窓が閉まってるから俺の声なんて聞こえるはずないけど。
白井は少し気まずそうな顔でこっちを見た。
腕は背中に回されていて、両脇には男が一人ずつ。
だから、ケガの理由はなんとなくわかるような気がした。


助手席の男が軽くあごをしゃくると白井は俺の後ろの座席に押し込まれて。
その後から一緒にいた男の一人が乗ってきた。
白井に話しかけようと思って、顔だけ後ろに向けようとしたけど。
首筋の傷が引きつって、また倒れた黒服の背中が過ぎっていった。
震えそうになるのをこらえながら、それでもやっと白井の顔を見て。
「……よかった。無事だったんだ」
そう言ったら、
「おまえもな」
白井はいつもと同じ困ったような顔で少しだけ笑って見せた。


「車を出せ」
助手席の声と同時に前を向かされた。
その間も白井の隣に座ってる男が何度もこちらを見てた。
体は大きいのになんだか神経質そうな感じで、何度も窓にかかっているカーテンみたいな布を直してた。
「これからどうなるの?」
少しだけ振り返って聞いてみたけど。
白井は「俺に聞くなよ」って苦い顔をしただけだった。
その間に白井は手を解いてもらったけど、俺の手足は相変わらず縛られたままで、もうちゃんと血が通ってないような気がした。
それでも、白井がいるって思ったら、気持ちはずいぶん軽くなって。
ふうっと息とついたら、急に眠くなった。
ついでにあくびをしたら、すぐに見つかって。
「ちょうどいい。眠らせておけ」
助手席がそう言うと、隣に座ってる男が俺の口の前に白い錠剤を出した。
それは、たぶん来る時に飲まされたのと同じ物。
飲んだらまた吐き気がするだろうって思ったから、ギュッと口を閉じていたけど。
後ろの席から白井が身体を乗り出して、男の手からそれを受け取った。
「ただの睡眠薬だから、飲んでおけよ」
大丈夫だからって言いながら、そっと俺の唇に当てて。
「……うん」
水を飲ませる時、頬に触れた白井の指は俺の記憶よりもずっと温かかった。
「少し休めよ。寝てないんだろ?」
ついたら起こすからなって言われて、もう一度「うん」って答えて。
そのとき助手席の男の口元が変に歪んで見えたけど。
白井がいるんだから大丈夫。
そう言いきかせながら目を閉じた。



どれくらい経ったのか分からなかったけど。
バタンという音が聞こえて、薄く意識が戻った。
でも、頭の中が霞んでいて窓の外の風景はぼんやりとしか見えなかった。
俺はまだ車のシートの上で。
身体は自分のものとは思えないほど重くて、指先さえ動かせないまま。
確認できたのは四角いコンクリートの柱とあちこちに置かれた工事現場のような資材。
でも、空はなくて、低い灰色の天井が見えるだけだった。

……地下の……駐車場……―――

半開きのドアの向こうからわずかに漏れてくる喧騒。
そして、どこか懐かしい匂い。
意識の片隅でそんなことを感じながら。
でも、どうしても目が開かなくて、すぐにまた深く落ちていった。

体が宙に浮く感触。
それから、どこかに放り出された衝撃。
運ばれて下ろされたんだってことは分かったけど。
「……ん……っ」
意識をムリやり引きずり出されたような不快感に目を開けると、ニヤニヤした笑いが見えた。
「さっさと起きろ」
まだどこか夢から覚めていないみたいな、ダルくてぼんやりした感じが俺を占領していた。
それでもなんとか上半身を起こして目をこすって。
そのとき初めて手足が解かれていることに気付いた。
俺が投げ出されたのはカビ臭い部屋の隅にあるソファの上。
キッチンのないワンルームマンションみたいな殺風景な空間にはドアが3つ。
でも、窓は見当たらなくて、ひどく変な感じがした。
明かりと言えるものは足元に置かれた小さな球形のライトだけ。
部屋の反対側までは届かないような弱々しい光だった。
「まず服を脱げ。妙なもんを隠してないか調べるからな」
部屋には男が一人。
車に乗っていたヤツらとはぜんぜん違ってて。
若かったし、スーツも着ていなくて、ついでに髪は長めで毛先がバサバサで、しかも黄色っぽくなっていた。
北川の店にいたバイトをもっとだらしなくしたみたいな感じだなってぼんやり思いながらTシャツを脱ぐと、目の前にまたニヤニヤした笑いが広がった。
「今時、こんなもんを肌身離さず持ってるヤツがいるのかよ」
そいつの指がつまみ上げたのは俺の首にかかっていたお守りの袋。
「……あっ……」
金だと分かったら、きっと取り上げられてしまうから。
「返して……お願いだから―――」
頼んでみたけど。
「ずいぶん厚みのある護符だな」
そいつは俺の首からお守りの袋を取り上げると、口ひもを緩めて片目で中を覗き込んだ。
でも、部屋が暗すぎてよく見えなかったみたいで、すぐにまたキュッとヒモを締めた。
それからタテと横に軽く何度か折り曲げたあと、
「まあ、いいか。紙切れなんてここじゃなんの役にも立たねえしな」
そう言ってポイッと投げて返した。
「……ありがと」
よかったって思いながら、また首にかけたら、
「もういいぞ」
って声がして。その言葉の後で「面倒だから風邪なんか引くなよ」って、服を投げてよこした。
だから、こいつはそんなに悪いヤツじゃなさそうだなって思って少しホッとした。
「ね……白井がどこへ行ったか知ってる?」
聞いても教えてくれないだろうなって思ってたけど。
そいつからの返事は、「そのうちに来るだろ」っていうあっさりしたものだった。



その後、そいつは俺をソファに座らせて。
「んで、中野ってヤツはそれが本名なのか? 家族はいないのかよ? 仕事は何してんだ?」
いろいろ聞いてきたけど。
「全部知らない」
そう答えたら鼻で笑われた。
「じゃあ、おまえとどんな関係なんだ?」
別に関係なんてないんだって言ったけど、信じてはもらえなくて。
仕方がないから、「俺がホームレスしてた公園の近くに住んでるんだ」って、それだけ答えた。
でも、やっぱりそんな答えじゃぜんぜんダメで。
「なら、なんでおまえに一億も払う? ただのガキにそんな金を払うはずないだろ?」
今度は少し厳しい口調で言われたけど。
それ以上なんて説明していいのか分からなくて俯いてたら、
「ち、使えねえガキだな」
そんな言葉と一緒に俺が座ってたソファを思い切り蹴飛ばした。
それから、すごく不機嫌な声で、
「今のうちにその神様とやらにお願いておくんだな」
そう言って、俺の首にかかってるお守りの袋に目をやった。
「……何を……?」
お願いすることなんてあったかなって思いながらそいつの顔を見たけど。
そいつは笑ったまま、「白井に聞いてみろ」って言っただけだった。



白井が戻ってきたのはその少しあと。
「よお、白井。そっちはどうだったよ」
座る間もなく男に聞かれて、白井は少し顔をしかめたけど面倒くさそうに返事をした。
「一から仕切り直しだ。こっちで提示した情報が揃った後、向こうから連絡がくる。最低一週間は先だろう」
その答えに男は何度か頷いた後、口の端で笑った。
「ま、アンタが生きてて良かったよ。他の連中じゃ、話しにならねえしよ。ここだけの話、アンタのことは結構気に入ってるんだ」
少しくらいなら協力するぜって言いながら、そいつは白井の肩に手を置いて、またニヤリと笑った。
「んで、ニセモノはどうしたよ? ポンと一億のカネを払うくらい大事な相手だ。見間違うはずないよな。もしかしてもう処分されちまったか?」
ニヤニヤしたまま続けられる質問に白井は「いや」と答えたけど。
どこか憂鬱そうな表情になった。
「……ってことは、気付かなかったのか?」
ソファの肘掛部分にダルそうに腰掛けた男の口元にさっきとは違う種類の笑みが浮かんだ。
「……だったらこっちもそれなりの対応をしねえとな」
そう言ったあとでチラッと俺の顔を見た。
「何も言ってなかったというだけだ。本当に気付かなかったのかどうかは判らない」
白井は少し慌てたみたいに言葉を足したけど、なんだかすごく焦っているのが分かった。
そして、しばらくの沈黙のあと、男ははっきりと俺に向かって言った。
「だから、さっさと祈っとけって言ったんだよ」
歪んだ表情が何を示すのか俺には分からなくて。
「……なに?」
なのに心臓が急にドキドキし始めて、慌てて隣を見上げた。
その瞬間に白井はふっと俺から顔を背けた。

薄暗い部屋と、男の忍び笑いと。
強張った白井の横顔。

「じゃあな、白井。朝、また交代だ。アンタも休んでおけよ」
そう言われた時も白井は目線さえ動かさなかったけど。
「おまえはこっちだ。来いよ、チビ」
男は白井の態度なんて気に留める様子もなく、俺の手を引っ張って、三つあるドアの一つを開けた。
中はシャワーとバスタブとトイレ。
でもユニットバスみたいなチャチな造りじゃなくて、タイルの壁には鉄のバーがついていた。
何に使うんだろうって思ってたら、
「繋いで行くからな」
いきなりそう言われて。
「……え?」
そいつが上着のポケットから取り出したのは普通より鎖部分が長い手錠だった。
「多少は動ける。シャワーとトイレくらいは片手でもできるだろ」
グイッと腕を引っ張られて、前のめりになったとき、
「部屋に鍵までかけるのに手錠なんて必要ないだろ?!」
後ろから白井の怒鳴り声が聞こえてちょっとびっくりした。
「なんだよ。いくらチビでも野放しじゃ何するかわかんねえだろ? アンタのためにやってんだぜ?」
なんだか疑わしそうな顔をする男に、白井はさっきよりいくらか普通の声で返事をした。
「見張ってるから必要ない。勝手なことをするな」
そう言いながら、腕を掴まれたまま転んでる俺を起こしてくれた。
「……まあ、手足が自由でもこの部屋からは出られないけどな」
もごもごと返事をしながら、ちょっと苦い顔で手錠をポケットにしまった。
それから、「じゃあな」って言って部屋を出ると、乱暴にドアを閉めて少しイラついたみたいにガチャガチャと鍵を掛けた。
白井はしばらくの間ドアに耳を押し当てていたけど、そいつの足音が遠のいたのを確認してから、溜め息まじりに説明してくれた。
「一つのドアに鍵が二つある。中からは開けられない」
バスルーム以外の二つのドアは暗い灰色。
いかにも頑丈そうに見えた。
「……そっか」
ボロボロのソファに座って俺もため息をついたら、バサッと毛布をかけられた。
「少し寝ておけよ。あとで起こすから」
いつもと同じ優しい声にホッとしながら、「ありがとう」って言おうとしたけど、
「その時は寝ぼけてないですぐに起きろよ」
白井は少し厳しい口調になって。
なんでって聞き返す前に低い声でその続きを告げた。
「夜中にここを出る。気持ちの準備をしておけよ」
白井の腕時計は11時20分。
爪の先が指し示したのは文字盤の「2」のところ。
「―――……え?」
驚いて顔を上げたとき、白井はいつになく真剣な顔で俺を見てた。
分かったな、って言われて。
なんて答えていいのかわからないまま、ただ一度頷いた。



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