帰り際、不意に呼び止められた。
2年の時に同じクラスだった女の子。
『好きです』
うつむき加減に告げられたけれど。
決意がこもったはずの言葉さえすっと耳を通り抜けていくだけだった。
「……ごめん」
沈黙の後の返事は自分でもわかるほど無感情で。
その時やっと彼女に対して申し訳ない気持ちになった。
「理由、聞いてもいい?」
少し困ったように。
でも、無理に笑って問いかけられて、言わなくていい答えを返していた。
「好きな人が……いるんだ」
彼女はただ「そう」と呟いて背を向けた。
ありがとうの一言さえ口にすることができないまま。
去っていく背中を見送るしかなかった。
「悪い。聞こえちまった」
動けずにいる俺の目の前に、自転車の鍵をプラプラと振り回しながら峯村が顔を出した。
「いや、別に……」
言いかけたものの、続ける言葉は思いつかない。
「相沢、好きなヤツいたんだなぁ」
峯村のひとり言にドクンと胸が鳴った。
「そう言えば、相沢ってそういう話はしないもんな」
聞かれ続けたらいつか本当の気持ちを伝えてしまいそうで。
そんな流れになるたびにずっと逃げてきた。
「……人に話すようなことじゃないからな」
言えるものなら、吐き出して楽になりたかった。
けれど、それは我がままに過ぎないこともわかっている。
峯村を悩ませてまで、自分の気持ちにけりをつけたいとは思わなかった。
「なんで? 俺、そんなにアテにならなさそう?」
いつものように笑っていたけれど。
寂しそうに見えるのは気のせいなんかじゃないのだろう。
「いや……」
何度も何度も。
決心して、あきらめて。
ただそんなことを繰り返したけれど。
そのたびに気持ちの奥に積もっていくだけで、薄れることはない。
「まあ、言えないことってあるんだろうけどな」
峯村はそのあとしっかりと口を結んで空を見上げた。
「けどな、相沢」
つられて顔を上げる俺の耳に降ってきた言葉。
「俺はおまえに言えないことなんて一つもないよ?」
その瞬間に目が合って、逃げ出したくなったけれど。
「けど、おまえはそうじゃないんだな」
まっすぐに見つめられて、逸らせなくなった。
「……峯村を信用してないとか、そういうんじゃ……」
ようやく返した言葉。
裏に流れる感情は押し殺したけれど、冗談めかして笑うことはできなかった。
「けどなぁ、やっぱ、話してくれねえじゃん。俺、何がダメよ?」
違うんだと言ったところでその先の説明はできないくせに。
「峯村のせいじゃないんだって……」
バカみたいにそればかりを繰り返す。
嘘でもいいから峯村が納得する理由が欲しかった。
なのに、こんな時に限って何も浮かんではこない。
「俺らって、親友だよな?」
返事を待つその目が何を望んでいるのかくらい、ちゃんと分かっているのに。
だから、言えないんだ……―――
溢れそうになる気持ちを何度も何度も押し込めて。
「……ああ、そうだよ」
答えたけれど。
それは自分の耳にさえ虚ろに響いて、峯村のため息に変わった。
「相沢とは1年のときからずーっと一緒でさ」
すっとまた空を見上げて。
「……なのに、やっぱダメなのかあ」
静かに目を閉じた。
できることなら、出会った頃のまま。
峯村が思い描いているのと同じ、ただの親友でいたかった。
「相沢、」
「……なんだ」
こんな気持ちで見つめることさえ、罪悪感に変わるというのに。
「俺に好きな相手ができても、やっぱ、聞いてくれないわけ?」
峯村の言う「親友」の形。
俺だって、それが分からないわけじゃない。
知りたいと思う。
峯村が話してくれることなら、どんな小さなことでも全部。
けれど、それを告げられた時、まともな返事をする自信はなかった。
思いを寄せる相手のことをどんな顔で話すのだろう。
笑うだろうか。
照れるだろうか。
そう思っただけで、息ができなくなるほど苦しいのに。
「……いや」
「なら、いいけど」
峯村らしくない中途半端な笑顔。
そうさせているのは自分なのに、気の利いた言葉ひとつ出てこない。
苦しくて。
なのに、どこにも気持ちの行き場がなかった。
「なあんか、楽しいことないかなあ。相沢みたいに可愛い女子に『好きです』とか言われてみてぇー」
空を見上げたままの笑顔が、不意に遠く感じた。
「……楽しくなんかないって」
無意識のうちに口をついて出る言葉は、自分でもわかるほど重かったけれど。
「贅沢だなあ」
峯村はわざと暢気な声でそう返した。
そんな言葉に峯村の優しさが見えて、また少し辛くなる。
「……峯村は」
俺には、おまえに気遣ってもらう資格なんてないのに。
「ん?」
「……どんな子が……好きなんだ?」
聞いても仕方ないこと。
なのに、なぜ口に出してしまうのだろう。
「んー? わかんね。その時々だからなあ」
今はいないのかと俺が尋ねる前に、峯村の方からそれを告げた。
「とにかく無事大学生になるまではおあずけだなあ」
そんな言葉に「よかった」と言いそうになって。
気づかれないように慌てて口を閉ざした。
「……あと少しだから、頑張らないとな」
二人で転げまわって遊んでいた頃は時間なんて意識したこともなかった。
けれど。
卒業まで数ヶ月。
たとえば揃って希望通りの大学に進めたとして、その先はあるのだろうか。
「とか言ってー。相沢は楽勝で一流大学の1年生になって、かっわいー彼女作ってんだろうなぁ。んで、俺は予備校生だったりしたら笑えねー」
そんな会話も屈託のない笑顔も。
不安とか焦りなんて微塵も感じさせない。
大学に受かることなど峯村にとってはただの通過点。
それよりもずっと先を見ながら歩いてるから。
けれど、俺は。
「……大学には受かるつもりでいるけどな」
峯村と二人でバイトして、夏にはどこか旅行して。
そんなささやかな日々が全てだった。
でも。
『わりい、相沢。彼女と出かけることになったから』
いつかきっとそんな言葉を聞かされる日が来る。
その時、『そっか。楽しんでこいよ』と笑って言えるだろうか。
親友として、誰よりも祝福してやることができるだろうか。
「じゃ、帰ってお勉強しましょうかね? あー、日曜は模試かあ……」
今はまだ、笑いながらここにいてくれるけれど。
「……土曜に一緒に勉強するか?」
「え? ああ、でも、相沢って土曜は予備校じゃん?」
「たまには気分変えたいしな」
自分のために嘘までついて峯村を引き止める。
今、こうしていられる時間を。
いつか俺の傍からいなくなった後も大切にしまっておけるように。
「どこでやる?」
何一つ疑うこともなく向けられる笑顔に罪悪感は増しても。
「相沢んち? 俺んちでもいいけど、お袋いるかも」
ちらりとよぎる。
二人だけの時間。
甘い光景に眩暈がしそうだった。
「じゃあ、学校の図書館で。……家だと気が緩むから」
誰の目もない。
呼吸さえ聞こえてきそうな空間で。
二人きりでいる自信はなかった。
「OK。勉強するって感じだなあ。……けど、帰りは寄り道しような?」
そんな言葉にやっと笑って。
自転車の鍵を外した。
この時間が、永遠に続けばいいのに―――
叶わない願いを抱いたまま。
見上げると、まだ薄く明りを残す空に最初の星が浮かんでいた。
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