I want

-冬の空色
-




1月の終わりから3年は週に二度登校するだけになった。
それ以外の日は合否の結果を報告しにくる生徒がいる程度で、教室は閑散としていた。
「相沢、私大どうだったよ?」
手ごたえはあったから、いくつかは受かったと思うけれど。
「結果は来週なんだ」
自分の合否よりも気になることがあって返事は上の空だった。


冬休みから今日までずっと峯村と会うこともなかった。
『おまえといると気が緩むからさ』
そう言われ、淋しい気持ちで『頑張ろうな』と返した。
勉強を苦痛だとは思わなかったけれど、ふとした瞬間に峯村のことを思い出す。
ちゃんと机に向かっているだろうか。
嫌気が差したりしていないだろうか。
ペンを持って何時間も座っている姿は峯村には似合わないけれど。
目指すものがあるなら。
限られた時間の中で互いにできることをするしかない。

今はまだ、途中だから……―――



午前中で学校は終わり、峯村のクラスへ向かう。
目を瞑っても歩けるほど通い慣れた廊下。
換気のために開けられた窓から、凛とした空気が流れ込んでくる。
ふうっと吐いた息が白くなることはなかったけれど、吐き出した後に入り込む風の冷たさに自分の熱を感じた。

少し緊張しながら教室の戸口に立って、
「峯村」
声に出して名前を呼ぶと胸が締め付けられた。
「遅いって、相沢。俺らとっくに終わってんだぞ。おまえのクラス、相変わらず注意事項が長いんだなあ」
少し気の抜けたような声と変わらない笑顔。
安堵しながら。
なのに、また苦しくなった。
「どうよ、調子は……って聞くまでもないか。相沢だから何の心配もないよな」
周囲に漂う緊張した空気など感じないかのようにすっかり笑いかける。
三年間ずっと見てきたその笑顔は、けれど少し疲れているようだった。
「大丈夫か?」
思わず口をついて出た言葉に峯村はまた笑顔を見せた。
「慣れないことしてっからなぁ。……けど、結構調子はいいんだ」
「そうか」と軽い返事をしながら、目を細める。
今はただこうして同じ場所を目指していることが嬉しかった。
「それよりさ、俺、初詣行ってないんだ。付き合ってくれねえ?」
明るい笑顔も久しぶり。
「もう2月なのに?」
「そう。願掛けも兼ねて。ってもう遅いか?」
その笑顔がやはりどこか眩しくて、無意識のうちに視線を逸らせた。
「じゃあ、行くか」

目の前のハードルを越えるだけの自分とは違う。
意味もなく焦りがちな日々の中にいても、峯村にはちゃんと毎日を楽しむ余裕があるんだな……と、変なところに感心しながら隣を歩いた。



学校の裏門から十五分ほど坂道を登った場所にある小さな神社。
少し息を切らせながら自転車で駆け上った。
「なんか懐かしいなぁ。俺、小学校の時、ここで高校生が告ってるの見かけたんだよな」
学校からは近いけれど、繁華街や住宅地とは反対の方角だから、いつ来ても人の気配がない。
だからなのか、そんな噂もよく耳にした。
「あん時はドキドキして、友達と二人で赤い顔しながら覗き見してたんだ。あれってきっと俺らの高校に通ってたヤツだよなぁ」
いたずらっ子のような表情で呟く間も、峯村の頬は心なしか赤くなっていた。
合格祈願に来たことなんてもうすっかり忘れているんだろう。
「ここで告ったら上手くいくって言われてるんだよな?」
他愛もないジンクス。
一年前ならそんな話も楽しかったかもしれない。
「……らしいな」
受験だからとか、余裕がないとか。
そんなことじゃなくて。
今の自分には、この会話を続ける勇気がなかった。
けれど。
「な、相沢」
「なんだよ」
「誰かに告ったことある?」
無邪気に尋ねられて、一瞬、呼吸が止まった。
「ない……よ」
その問いの重さなど峯村は考えたこともないのだろうけれど。
「そういう青春はなかったな、俺ら」
冗談めかした言葉に辛うじて「そうだな」と答えたけれど。
どう頑張っても笑い返すことはできなかった。


神社の裏手は遊歩道へ続く石畳。
自転車を置いて、ふらふらと歩いた。
真っ直ぐな通路の途中に大きな木が天を目指して立っている。
その陰にまた細い道が伸びていて。
「うわ、やべえよ、相沢。噂をすればってヤツ。あれ、吉田だ」
困ったようにうつむく女の子と背の高い男。
声は聞こえなかったけれど、どんな場面なのかは考えるまでもない。
こんな気分じゃなかったら、次に会ったときは冷やかしてやろうとか、そんなことを思ったかもしれないけれど。
「……行こう、峯村」
強引に手を取って逃げるように石畳を戻った。
こちらの気持ちなど知るはずもなく、峯村は名残惜しそうに振り返りながら、
「いいよなぁ、青春って感じで」
本当に羨ましそうに呟いたけれど。
「おまえ、何しに来たんだよ」
「ああ、忘れてた」
ふわりと笑うその瞳が眩しくて、無意識のうちに目を逸らした。


チャリン、と心地よい音のあと。
本当なら自分も合格を願う場面なのだろうなと思いながら、神妙に手を合わせる峯村の横顔を見つめていた。
「相沢も最初の合否は来週なんだよな?」
「ああ」
自分よりも一日早く峯村の結果が分かる。
そう思うたびに無性に落ち着かなくなった。
「受かったら電話するからな」
「待ってるよ」
どんな結果でも峯村は落胆などしないだろう。
そういうヤツだから。
万一の時もきっと慰め役なんて必要ない。
「なんかドキドキするよな」
思いきり伸びをして空を見上げる。
「そのあとだって、まだ何校か試験残ってるんだろ?」
終わったわけじゃないのに、どうしてこんなに晴れやかに笑えるんだろう。
最初に惹かれた笑顔は今も変わらない。
「ああ、それじゃなくてさ―――」
峯村の視線の先は俺たちが立ち去った場所。
またそちらへ歩き出そうとしているように見えて、思わずまた腕を掴んだけれど。
それに驚くこともなく、峯村は少し照れたような顔で笑いかけた。
「……な、相沢。おまえだったら、なんて言う?」
「え?」
唐突な質問が何を意味しているのか分からなかったわけじゃない。
けれど。
「告るとき。なんて言う?」
もう一度問われて、呼吸ができなくなった。

峯村の腕を掴んでいたことさえすっかり忘れて。
無意識のうちに指先にギュッと力が篭った。


「……おまえが、好きだ」


風のない冬の日。
穏やかに柔らかい光が降り注ぐ。
無遠慮につかまれた腕を振り払うこともしないで、峯村はただ立ち尽くしていた。
半分だけ振り返ったような姿勢のまま。
まるく見開かれた瞳は瞬きも忘れていた。


好きな相手ができたら……なんて、他愛もない話。
けれど。
冗談だったとしても、告げてはいけなかった言葉。

「……悪い」
触れていた手をゆっくりと離す。
その感触が消えたとき、ズキンと心臓に痛みが走った。
なぜ謝ってしまったのか自分でも分からなくて。
それが一層の後悔になった。

その間、峯村との間に流れていくのは、ただ苦しいほど気持ちを締め付ける沈黙と不安。
あとは―――

「……なんか、俺が相沢に告られた気分」
峯村は困ったような表情を残したまま、らしくないほど小さな声で笑った。

「真面目な顔で……言うセリフじゃなかったな」
やっとそう返して。
安堵と淋しさを噛み締めた。

『たとえば』なんて、簡単なきっかけで始まった悪ふざけ。
こんな形で吐き出してみても、気持ちは少しも軽くならないのに。

「峯村なら……なんて言う?」

いつか、誰かに告げるだろう、その言葉。
聞いたところでまた苦しくなるだけなのに。
問わずにいられないのは何故なんだろう。

「んー、そうだなぁ」
澄んだ瞳が空を仰いだのはほんの一瞬。
一度閉じられた後、真っ直ぐにこちらに向けられた。
「やっぱり、『おまえが好きだ』って言うかな」

苦しいくせに。
「……そっか」
その笑顔から目が離せなかった。


静寂と、乾いた景色。
自転車の鍵を弄びながら深く息を吸い込み、そっと熱を吐き出してから、ようやく視線を落とす。
なんだか気まずくて、なかなか顔を上げられなかったけれど。
再び歩き出そうとした時には、いつもの笑顔が待っていた。
「あーあ、早く大学生になりてー……相沢、今日これからどうする?」
ふわりと安堵が包み込む。
同時にまた気持ちが溢れそうになったけれど。
「当然勉強だろ?」
「うわ、やなヤツ」
いつもと同じようにふざけ合って。
眩しいほどに笑いこぼれた口元が大きく息を吸い込む。
「うー、まだ空気冷てえな」
その横顔を見つめながら。


白い息と、やわらかな日差しの中。
透明を重ねて淡い青色になる。
冬の空は静かに全てを吸い込んでいった。



                                         

                                    

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