X-10
(エクス・テン)

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「まったく、いきなり明日から海外とか言われてもな」
文句を言いながらアパートにたどり着くと部屋の前に見慣れない紙袋が置いてあった。
差出人は『編集部』。
たぶん編集長がどこかから取り寄せたものなんだろうけど。
明らかに宅配業者を経由していない。
つまり誰かがここに直接持ってきたってことだ。
いつの間に……っていうか、用意周到。
「ということは俺の海外は今日決まったことじゃないんだな」
だったら決まった瞬間に言ってくれればいいのに。
「ま、あのオヤジにそれを求めても無駄だけどな」
ぶつくさ言いながらも狭苦しい部屋の真ん中に座り込んで紙袋の中身をチェック。
中にはさらに紙袋がひとつとビデオやら本が無造作にガサガサと入ってるだけ。
「取材のための資料なんだろうけど……いったいいくつあるんだよ」
気を回して手配してくれたのはありがたいが、まずはこれを一晩で消化するのは物理的に無理だということに気づいて欲しいものだ。
しかも、中味についての説明が一切ない。
「適当に見ておけってことか。明らかに他人事って思ってやがるな」
それでも、とりあえず片っ端から目を通すことにした。
最初に取り出したのは厚手の袋。
下の方に「○△ィルスについて」という一部が消えかかった、しかも、かなりクセのある手書きラベルが貼られていた。
その袋も中はやっぱりビデオがほとんど。しかも、いかにも素人が撮影と編集をしたようなわけのわからない感じで不親切きわまりない。
「こんなもん見る気にならないって」
袋にはそれ以外にもDVDのようなディスクが何枚か入っていたけど。
どれもあまり見たくないタイトルがついていた。
たとえば『発症過程』とか、『直接死因』とか。
そういう研究は確かに人類の役に立つんだろうけど。
「こんな仕事してるヤツの取材ってなんか嫌だよな」
きっと暗いヤツに違いない。
俺とは絶対に合わないだろう。
「それより、このタイトルの最初の文字ってなんだろうな」
△部分はきっと『ウ』で、「なんとかウィルスについて」なんだろうけど。
○に当たる最初の文字は『1』に見えるような、『S』に見えるような。
「……まあ、どうでもいいか」
そもそも全てが専門用語羅列でさっぱりわからないんだから、タイトルだけ分かっても意味はない。
「どうせゴシップ記事なんだから、専門的なことなんて書く必要はないもんな」
一人で言い訳をしつつ、その袋についてはさらっと流して次にチェンジした。
二つ目は市販の英会話のビデオ。
「つっても、旅行会話くらいはなんとかできるから、そんなに困ることはないよな」
そんな判断の元にそれもすっ飛ばそうとしたが。
「……そう言えば、取材対象ってあっちの人?」
オヤジは何も言ってなかったが。
だとしたら、マズイ。
そうでなくても英語はイマイチなのに、取材対象まで日本人じゃなかった日にはお手上げだ。
あわてて編集長の携帯に電話したが。
『ああ、心配するな、日本人だ。名前は阿坂理志(あさか・りし)。年は20代半ば、性別は男……だそうだ』
その言葉に焦りまくった俺の心臓は一瞬で落ち着いた。
「……分かりました。それだけです」
おやすみなさい、と言って電話を切って、安心して英会話を飛ばした。
だが、三つ目がまた。
「これ、なんだよ?」
市販のDVDだけど。
エロ系で、しかも男同士っていうのはいったい……。
謎のまま見続けることができなかったので、途中でまた編集長に電話した。
『ああ、それか。見た通りのもんだ』
「……男同士に見えるんですけど」
当たり前のように『そりゃあ、そうだろう』という暢気な返事があって。
『取材対象によからぬ疑惑があってな。ついでだから勉強しておけ』
「ついでって……」
百歩譲って、たとえ噂が事実だとしても、取材には関係ないと思うわけで。
その後も『研究所なんて閉鎖された空間だろ?』とか何とか、「そんなことはないだろう」と突っ込みたくなるような説明がいくつかあったが。
『ま、とりあえずは男同士の基本的なヤリ方だな』
こんなもんが役に立つとは思えず、というか、役立つ時が来てもらっては困るわけで。
「とりあえず、事情は分かりました」
さっくり電話を切って、これから挿入って時に停止ボタンを押した。
「男同士なんて見たくねぇよ」
もう、なんというか。ロクな取材にならない予感が俺の脳内パンパンに充満。
だが、その直後、今度は編集長の方から電話をかけてきて。
もう妙な説明なんて要らないからなと、半ば耳栓状態で聞き流すつもりでいたのに。
『言い忘れたが、取材対象は日本で生活したことはないらしいから』
よろしく、と軽く言われて。
「えっ……日本語が話せないかもしれないってことですか?」
『かもな』
その一言だけを残して、プツッと電話は切れた。
「ちょっ……編集長?」
かけ直してみたが、速攻で『電話に出ることができません』というメッセージが。しかも、何度かけなおしても延々と流れていく。
「あのクソオヤジ―――」
呪ったところで状況が変わるわけでもなく。
結局一晩かけて英会話の勉強をするハメになった。
「くっそー、安心させておきながら奈落の底に突き落とすのかよ。ぜってーまともにコミュニケーションとれないって。っていうか、専門用語なんて辞書にも載ってないじゃねーかよ。どうすればいいんだあああ……あ、専門用語の早見表が入ってる……ってか、これどこから調達してるんだ?」
大声でひとりごとを言っている間にも夜は更けていく。
そんな流れで、激しい寝不足状態の朝を迎えることになったのだった。



「……おはよう、俺。よく頑張ったな」
一晩かけてつくった取材用の質問一覧を見ながら、自分で褒めてみた。
窓の外にはすでに太陽が輝いている。
「朝からめまいがするんだけど」
こんな体調でも仕事は放り出せない。バッグにパスポートやら着替えやらを適当に押し込んでから、もう一度持ち物チェック。
「あ、俺、クレジットカード持ってないっけ」
これ以上安易な借金は増やすまいと思って作らなかったが、今日まで特に不便はなかったのに。
「まあ、いいか。どうせ出張手当出るだろうし」
現金で持っていっても失くさなければいいだけだ。
「行ってきます」
誰もいない散らかった部屋に挨拶をして家を出た。
足を止めたとたんに立ったまま寝てしまいそうなほど朦朧としていたが、それも飛行機に乗るまでの辛抱だと自分に言い聞かせながらヨロヨロと出社。
「おはようございます」
少しでも大きな口を開こうものなら即座に欠伸が出そうになる。
だが、なんとかそれを噛み殺して席に着いた途端、
「おはよ。調子はどぉよ、ユキウエ」
そんな言葉とともに目の前に突きつけられたのは手鏡。
本日俺の目の下にはくっきりとクマができており、およそ人には見せられない顔になっているのは承知していたが、実際、至近距離で見ると本当にひどい。
「……いいわけないでしょう。太陽が紫に見えますよ」
ここで寝ていいと言われたら、三秒かからずに眠れるだろう。
「あらぁ、楽しそうねぇ」
紫の太陽が楽しくないことは、見ている本人にしかわからない。
というか、紫に見えた時点でもうダメかもしれない。
なのに周囲は今日も能天気だった。
「よ、八尋。しっかり勉強できたか?」
「一夜漬けじゃ無理ですって。身体がもちません」
もうこんな唐突なのは金輪際止めてくれと言う気持ちをこめてみたが。
「八尋も少し夜遊びしたら耐性がつくんじゃないか?」
夜遊び三昧の男は軽くそう言い放って不敵な笑いを浮かべただけだった。
「……遊ぶ金なんてないですから」
その瞬間に飛んできた外野からの『やーい、貧乏人』と『男は金よ?』という声を聞き流して、バッグから昨夜必死で作った質問書を取り出した。
「あの、とりあえず英語で質問を作ったんですけど。チェックお願いできますか?」
編集長に言ったつもりだったが、返事をしたのは朝から胸元ギリギリまで露出したオネエサマで。
「いいわよぉ。でも、私、ベッドで使う英単語しかわからないけど」
「……キヨコさんには頼んでないです」
「優花よ」
ムッとしながら、命の次の次くらいに大事なバニティー・ケースのフタをバシッと閉めた。
「……壊れますよ」
「アンタに関係ないでしょ。人のことはいいからそのクマ、なんとかしなさいよっ」
既に俺の意識は半分しかなく、その後延々と続いた怒号も耳の手前でブロックされていた。
俺ももう若くないからなとか、どうでもいいことを思いつつ、質問のチェックを編集長に頼みなおした。
「よろしくお願いします」
見た目も中味もチャラけたオヤジだが語学は堪能で英語の他にも何ヶ国語も話せるらしい。
まあ、あれだけ海外をふらついていれば当然だという気もするが。
「ああ、チェックね。どうせ真面目な質問なんだろう? 俺もピロートークの方が得意なんだがな」
なぜここにはこんなヤツしかいないんだろう。
というか、もうどうでもいい。
さっさとチェックしてくれ。
つか、30分でいいから寝かせて欲しい。
荒んだ気持ちが脳内をぐるぐる回っていった。


編集長から質問書のOKをもらったのは20分後。その間、俺の意識は空白だったが、原型をとどめないほどあちこちに赤が入って戻ってきた紙を見て我に返った。
「中学生レベルだな。本当に大学出たのか?」
真面目な顔でそれを言われるとつらいものが……。
「……一応」
その後は「打ち合わせ」と言われて普段は滅多に使われない会議室へ連れ込まれた。
案の定、そこは信じられないほど散らかっており、ついでに会議室の一角を占領するオタクな資料の数々がやけに目に付いた。
「あれ、加地さんの荷物ですよね?」
キャビネットのプレートには『加地正司』の文字。
「ああ、八尋のアパートに持って行かせたアレもそこから借りたんだ」
それについては妙に納得した。
この山の中から取材に関係しそうなものを探すのは大変だと思うが、それでも本屋で見つけるよりは手っ取り早くて確実だろう。
「でも、昨日見たあれって加地さんの字じゃないですよね」
今、目の前にずらっと並べられているファイルの背に書かれているのは、いかにも几帳面そうな小さ目の文字。昨夜の封筒のラベルとは全く違った。
「そうか? ま、オタク友達からもらったとか、そういうヤツだろう」
「……そうですかね」
別にどうでもいいんだけど。
『1』なのか『S』なのか分からないあの文字が何故かやけに気になった。



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