X-10
(エクス・テン)

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                                        - vol.1-

降り立った場所は、いかにも異国な風情の空港だった。
観光地なら現地の人間以外にもゴロゴロと人がいるから、それほど気にならないんだが。
周囲から聞こえるのはすべて英語。
とにかく英語。
しかも、なぜかみんな早口だ。
「もう、この空気からして苦手なんだけど」
英語圏でない国の人なら、俺がどんなに拙い英語しか話せなくても聞き取る努力をしてくれる場合が多いが、英語が話せて当たり前の国だとそうはいかない。
「まずは目的地まで無事にたどり着かないとな」
弱気になりつつも、バス乗り場を探し始めた。
案内板を探そうとして首を上に向けた途端、「うっ」とうめいてしまったのは激しい痛みのせい。
「首……腰も……」
話しかけられないようにと、わざとらしい角度で隣から顔を背けていたから、思いっきり寝違えてしまったらしい。おかげで頭痛までしはじめて。
「くっそー。そうでなくても夢見が悪くてゆっくり休んだ気がしないってー……おわっ!?」
ぶつくさ言っていたら、いきなり「ドンッ」という音がして俺は後ろに弾き飛ばされた。
びっくりしながら視線を移すと、そこに立っていたのは恰幅のいい初老の男。
ただし、その時点ですでに額に青筋が浮いていた。
偏頭痛が鳴り響く脳内に「とにかく謝ろう」という思考が浮かぶよりも早く、男がすごい剣幕で怒鳴り始めた。
もちろん英語だ。
しかも、キレているので何を言ってるのかわからない。
とにかくこの怒号の合間になんとか「すみません」の一言だけでもと試みたが、声は一瞬たりとも途切れることがない。
「あの、ええと……『飛行機の中で寝違えてしまって真っ直ぐ前を向けなかったので、ぶつかってしまってごめんなさい』って英語でなんて言うんだろ」
口の中でブツブツ言いながら正しい英文をひねり出そうとしたが、頭は真っ白のままでどうにもならない。
寝不足でなければ、あるいは夢見が悪くなければ、さらに頭痛がこんなにひどくなければ、俺だってそれくらいの会話はできるはずなんだが。
とにかく現在俺の脳は少なく見積もっても90%以上が死んでいて、おかげさまで思考回路は完全停止状態。
「頼むから、ちょっと黙って俺の話聞いてくれないかなぁ……」
話せばわかるよ、などと日本語で言ったところで通じるはずもない。
いいかげん周囲の視線も冷たく刺さり始め、最高にいたたまれない気持ちになった時、背中に落ち着き払った声が降ってきた。

『私の友人がご迷惑をおかけしたようで申し訳ありません』

聞き取れたのはその部分のみだったけど、おそらくは全文が謝罪の言葉。
それとともに俺を追い越して斜め前に立ったのは若い男だった。
俺と同じくらいの年で、俺と同じくらいの背丈。
少々高級そうな、でも、極普通のダークスーツ姿だが、いかにもこっち流の「ステイタス」というヤツを感じるタイプ。
だが、髪は黒、瞳も黒――――明らかに日本人だった。
海外出張中のサラリーマンかと思ったが、それにしては英語が流暢過ぎる。どこにもジャパニーズを感じさせる部分がない。
それに、きっちりとしたスーツ姿の割には目にかかるほど前髪が長い。
いわゆる日本の、しかもそれなりの企業なら、サラサラの長い前髪を放置させておくようなことはしないんじゃないだろうか……。
暢気にそんなことを考えている間に、あたりはすっかり静かになっていた。
恐る恐る視線を移したら、怒っていたはずの男の額からも血管は引いていた。
おそらくスーツの男が俺の友人として告げた謝罪の言葉は、相当丁寧なものだったのだろう。
一変して和やかな空気に変わった目の前の光景をひどく不思議な気持ちで眺めていた。

―――……こいつと前にどこかで会ってる、ってことはないよな。

初対面なのは間違いないだろう。
しかも、こんなシチュエーションで助けられたなら、普通は「無愛想に見えるけど、案外いいヤツなんだろう」と思いそうなものなのに、こいつに関してそんな感想は持てそうになかった。
なんと言うのか、厚意で助けてくれたという感じがしないのだ。
……変なヤツ。
感謝の気持ちより先に、そう思った。
助けてもらっておきながら失礼な話だけど……と心の中で突っ込みつつ、成り行きを見守っていたら、スーツの男がチラリと肩越しに振り返った。
なんとなくバカにしたような視線なのは、本気で呆れていたからなんだろう。
つまり、
『何とか丸く収まりそうだから、君からもきちんと謝罪しなさい。それくらいのことはできるよな?』
そんな感じ。
「あ……えっと」
とりあえず『すみませんでした』の一言をいかにも日本人的な英語で告げ、むやみに深々と頭を下げた。
もちろん、できるだけ申し訳なさそうな顔をしてみたが、そんな小手先の演技が通じたかどうか。
だが、英語が話せないってことは何度もスーツの男が説明してくれていたから、それだけで事は足りたようで。
ビア樽体型の男は「これからは気をつけなさいね」と比較的穏やかな声で言い残して去っていった。


「どうもありがとうございました」
自分ではそれほど焦っていないつもりだったが、さすがにホッとして力が抜けた。
未だ鳴り止まない偏頭痛の中、それでも静かに動き始めた俺の思考回路は、目の前の若い男を「現地人」と判断していたから、もしかしたら英語しか理解しないんじゃないかとも思ったが、それは杞憂だったようで。
「英語が話せないなら通訳を雇え。それができないなら、ちゃんと前を見て歩くことだ」
これまたとても流暢な日本語で返事があった。
けど。
構文、アクセント、イントネーション。
すべてにおいてまともな日本語なのに、とても不自然に聞こえるのは何故だろう。
考えている途中でまた激しい頭痛に襲われ、すっかり空白になりながら、とりあえず「これからは気をつける」というありがちな返事をした。
その間も目の前の男は終始真顔。
怒っているのとも呆れている様子とも違う曖昧な表情だったが、見知らぬ日本人に対しての好意など微塵も持っていないことは明白だった。
俺を助けたのはきっと「通りかかった人間の義務」とでも思ったからなのだろう。
正直、どう接していいか迷うタイプだったが、だとしても、こいつが手っ取り早く日本語でコミュニケーションを取れる貴重な存在だということに変わりはないわけで。
「それで、もし分かれば教えて欲しいんですけど。バスの乗り場って―――」
ドサクサに紛れて尋ねてみたが、全部を言い終わらないうちに先ほどと同じ抑揚のない声が返ってきた。
「サウスゲートの正面に案内所があるから、そこで聞くといい」
こいつが何かと不自然に見えるのは、もしかしたら、年齢に不似合いな言葉遣いのせいかもしれない。
どう見ても俺と同年代。だとしたら、普通はこんな話し方をしないだろう。
「サウスゲートね……どうもありがとう」
ためしにわざと少し砕けた口調で返してみたが、それについては特別不愉快そうな様子もなく、ただ腕時計に目をやってから俺に背を向けた。
本当に急いでいるなら最初から口を出したりしないはずだから、時間を気にする仕草は演技なんだろうとは思うけど。
それにしても。
「……不思議なヤツ」
キレのいい靴音を響かせて去って行く男の後ろ姿を見ながら、こっそりと呟いた。


感じが悪いわけじゃない。
素っ気ない態度だが、冷たいのとも違う。
言うなれば、「温度がない」という感じで。
「なんか、成長過程で人格形成を失敗してるっぽい」
感情を表に出さないタイプなのか、あるいは感情そのものが根本的に足りていないのか。
血の通った生身の人間としては何かが欠落している。
そんな印象だった。





目的地に着いた時にはもう夕方になっていた。
「空港でのんびりしすぎたな。ってか、アイツ、本当は怒ってたのかよ……」
男が俺に教えたサウスゲートの案内所はやたらと遠い場所にあって、しかも、空港内の地図を見る限り、そこに辿り着くまでの間に二つもインフォメーションセンターあったのだ。
結局、一番近いところでバス乗り場の位置と発着時間の確認を済ませたんだが、それにしても。
「怒ってるなら怒ってるで、言葉で注意するとか態度に出すとかして欲しいもんだよな」
いきなり嫌がらせをしたくなるほどマイナスな感情を抱いていたならなおさらだ。
「そりゃあ、俺の態度も悪かったけど」
いくら言葉がよく分からなくてもすぐに謝ることくらいはできたはずなのに、ただボーッと突っ立っていたんだから、感じの悪いヤツと思われても仕方ない。
だが、だからと言って何も一番遠い所を教えなくてもいいと思う。
ビア樽オヤジのようなストレートに怒鳴るタイプに比べたら、相当陰険な性格に違いない。
「まったく……」
そうは思うんだけど。
何故か心底文句を言う気になれない。
もちろん根本的な原因が自分にあるってことが大きかったが、それだけじゃなくて。
「……なんかなぁ」
長い前髪と温度のない表情。
気持ちのどこかにそれが引っかかっていた。
何がそんなに気になるのか自分でも分からなかったけれど。
「失敗作ってか、人間っぽくないっていうか」
そんなことを思い返している間に、あたりは容赦なく昼間の色を失くしていく。
「……とにかく先に泊まる所を見つけないとな」
そうでなくても土地勘がないのだから、暗くなったら最悪だ。
まったく右も左も分からなくなる。
「えーっと、まずは―――」
メインストリートを基点にして歩きながら安そうなホテルを探してみたが、どこもそれなりの値段で。
なのに俺が渡された滞在費は日本円で五万円。
「……三日以内に全てを済ませないと、あっという間に資金が尽きそうだ」
とりあえず学生ばっかりの安そうな店に入って、ハンバーガーとアイスティーを頼み、ついでに安いホテルを知らないかと尋ねてみた。
店員も学生のアルバイトだとかで、それほど詳しくはなかったが、友達が遊びに来た時に泊まったホテルを教えてくれた。
「ふうん、じゃあ、ここからなら歩いても7〜8分なんだ?」
俺がチェックしたホテルから比べたら、値段も半分以下。
これなら、4〜5日は滞在できそうだが、それにしてものんびりはできない。
「よかった。貧乏旅行だから本当に助かるよ」
お礼を言ったら、ついでに安くて美味いレストランもいくつか教えてくれた。
治安がいいってことと、住んでる人間が善良だということは本当に良いことだと思う。
今回はいつかのように騙されることもなく無事に日本に帰れそうだった。
……というか、俺の懸念事項はレベルが低すぎるかもしれない。


その後は街の景色を見ながら食事をして。
それから、のんびり散歩をしつつ、教えてもらったホテルにチェックインした。
建物の作りはかなりチャチで、隣の部屋のテレビの音が聞こえるくらい壁も薄い。
日本で言うところの簡易なビジネスホテル以下のグレードだったが、すぐ目の前は公園だし、滞在者はビジネスマンかここの学生の友人や家族という感じなので居心地はよさそうだった。
「まあ、最長一週間くらいは滞在できそうだな。何にしても、さっさと取材を終わらせて帰らないと『バイトの分際で経費の使いすぎだ』ってどやされるのは目に見えてる」
ついでに俺の希望込みで予定を立てるなら、明日、取材のアポを取りに行ったら、たまたまスケジュールが空いていて、そのまま取材を済ませて即帰国。
「なんてことには……ならないだろうけどな」
それにしても、できるだけ早く帰らないと。
一日目にしてホームシックになったわけじゃないが、今日はなんだか疲れてしまった。
「寝違えたのが原因だな」
そのモトをただせば、あのジャーナリストのせいだ。
「今度飛行機に乗る時は、忘れずに耳栓とアイマスクを持ってこよう」
取材メモを開いてそう書き込んだ。
仕事用のノートに最初にメモるのがこれっていうのが情けないが。
「……んじゃ、とりあえず無事にホテルまでたどり着いたことだけは連絡しておくか」
電話は日本時間で明朝10時過ぎと言われていたが、かけて怒られることはないだろうと思い、編集長という名のうさん臭いオヤジに電話した。
『なんだ、もう着いたのか。乗り継ぎが悪いんじゃないかと思ってたが、案外便はいいんだな。……で、早速どっかで恥を晒したってか?』
いきなりその質問かよ、と言いたいのは堪えて、本日会った日本人二名がどっちも変なヤツだったことと、空港で人にぶつかって怒られたこと、それから機内で寝違えたことだけは正直に報告しておいた。
「世の中って変なヤツが多いですよね」
そんなことを呟いてみたけれど。
その時、俺の脳内に浮かんでいたのは相当自分勝手そうなジャーナリストでも、いきなり顔を真っ赤にして怒り始めたビア樽オヤジでもなく、ただひたすら温度のない男の顔。
『気にするな。今日おまえが接触した何十って中のたった数人だろ?』
確かにそうだ。
しかも、社に戻れば100%という高確率で変人に当たるんだから、何もこれくらいのことで愚痴る必要はない。
もう二度と会わない男のことなど綺麗さっぱりと忘れてしまえばいい。
それだけのことだ。
『じゃあ、明日は気合を入れて取材のアポ取りをしてこいよ。できればその時に写真も撮っておけ。もちろん隠し撮りでいい。まずは天才科学者殿の品定めをしておかないとな。んで、撮ったら速攻で連絡しろ。それから――――』
一方的に用件のみをダーッと告げられ、「はい」以外の返事をする隙などないまま、電話はあっけなくブチッと切られたのだった。
「……あのオヤジ、いつもこうだよな」
まあ、いい。
俺は自分のバイト料分の仕事をするだけだ。
「さっさと終わらせて、さっさと帰ろう」
そう心に決めてベッドに潜りこんだ。
けど、寝違えた首がまだ少し痛くて、あまりいい夢は見られなかったような気がした。



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