思っていたよりもずっと疲れていたせいか、意外とぐっすり眠ったんだなと思ったのは、多分、いつになくすっきりと目が覚めたせい。
「……出張中だっけか」
とっ散らかった自分の部屋がすでに恋しいなんてシャレにもならないと思いながら、カーテンを開けて街を見下した。
出勤には少し早い時間だったが、歩いている人間もキチンとしたビジネスマンがほとんど。あとは犬の散歩中のご婦人、ジョギング中の若者などなど。
まるで絵に描いたような朝の光景だった。
「じゃ、俺も行きますかね」
食事は途中でホットドッグでも買うことにして、必要最低限の物だけを持ってホテルを出た。
歩いたら一時間かかると言われた道のり。
それでも、せっかくだからと街の様子を眺めながら研究所へ向かった。
道順はとても簡単で、大通りをまっすぐ北上した突き当りが目的地。
ただ、その先がまた長くて。
「マジかよ……」
敷地が信じられないくらいだだっ広いのだ。
おかげで、若干迷子にもなり、来訪者用の受付に辿り着いたのはホテルを出てから二時間後。
受付でそう話したら笑われた。
「ゲートからは巡回しているバスがありますから」
無料ですよ、と言われて「そうなんですか」と力なく笑う。何にも調べてこなかった俺がいけないんだが。
「今日一日のエネルギー使い果たした……」
受付嬢は日本からの留学生で、ここで週三日アルバイトをしているらしい。
隣に座っている子も見た目は日本人だが、カタカナ言葉がまるっきり英語のイントネーションだった。
「父の仕事の関係で、こちらで育ちましたので」
「へえ。そうなんだ。いいね、英語も日本語も話せるって」
だが、見た目で国籍が判断できないというのは意外と不便かもしれない。
当たり前のように日本語で話していたら、実は微妙に解釈がすれ違ってるってことも普通にありそうだ。
「日本人の客って多いの?」
そうじゃなかったら、わざわざ日本語の話せるスタッフを受付にはしないんだろうけど。
「ええ、提携企業は日本の会社が多いので……本社からお見えになる方とか。あとは、留学中の学生のご家族とか」
そのせいか、なんだか中途半端な外国という感じがする不思議な土地だ。
まあ、取材とは関係ないんだが。
「マスコミ関係の方はまず研究所内にある『広報部』に行って―――」
彼女の説明によると、取材の申し込みはまず管轄部署で申請書を書き、担当者が取材を受ける人間のスケジュール調整をする。
「取材内容と主な質問は事前に紙に書いて渡してください。それから……」
まだまだ説明は続いていたが、本当に細部まですっかり手順が決まっていて、それだけでもう俺はうんざりだった。
「それって申し込んだらすぐに返事もらえるのかな?」
「ええ、早ければ2〜3日中に」
「早くても2〜3日か……俺、金がないからあんまり長居できないんだよな」
正直に言ったらまた笑われた。
それにしても、時間と金は大切だ。その面倒な手続きをなんとか端折れないものかと思って考えた。
「俺、ここに勤務してる阿坂って人に会いたいんだけどさ」
直接会って話ができるなら、それが一番早い。そんな結論だったわけだが。
「では、しばらくお待ちください」
パソコンに何かを入力して待つこと三十秒。
いきなりショックな返事が戻ってきた。
「ドクター・アサカは来週火曜まで出張ですね」
「……え、マジで?」
下調べ不足は自覚していたが、それにしても不在は予想の範囲外。
ヤバイとかいうレベルではない。
「取材の可否は広報部で決めますので、本人が不在でも差し障りはありません。お申し込みだけでもされますか?」
どうせ許可が出るまでに時間もかかるし、と言われても。
「んー……」
とりあえず編集長に電話をして指示を仰いだほうがいいだろう。
来週まで待ってもそいつがこっちのニーズに合わなかったらシャレにならないし。
何よりもそれまで金がもたない。
「……出直してくるよ」
がっくり肩を落としてそう告げた時、俺の視界の隅を過ぎったものがあった。
そう、まだ記憶に新しいあの――――
「あっ、ちょっと!」
思わず叫んだが、声に反応したのはそいつじゃなくて受付嬢だった。
「ドクターのお知り合いだったんですか? でしたら、お申し込みなしで直接お話になっても……」
彼女の話はまだ途中だったけど。
俺にはもうその声は聞こえなくて、ただ、そいつに向かって走り出していた。
切れのいい靴音の主は本日もスーツにネクタイ。
綺麗な歩き方も長くてサラッとした前髪も相変わらずだった。
「あの、昨日はどうも」
呼吸が上がったままだったが、とりあえず声をかけた。
だが、振り返った顔は俺のことなどまったく記憶にないといった様子で。
気だるくゆっくりと投げられた視線を辿ると、そこにあるのはやっぱり温度のない瞳。 「……えっと、空港で会った者なんだけど―――」
昨日のことなのに覚えていないなんてことはないよなと思いながら尋ねている途中、唐突に目に入ったものがあった。
男の胸ポケットについていたネームプレート。
そこに、「R.Asaka」の文字。
「マジかよ……―――」
バカを晒したとか、そんな生易しいものではなく、どうやら俺は昨日のうちに地雷を踏んでいたらしい。
思わず「ヤバい」と呟いた瞬間、落ち着き払った声が飛んできた。
「ロビーを走るな。子供じゃあるまいし」
そんな言葉だったけど、やはり「冷たい」というのとは少し違う。
感情を見せない瞳と唇。
俺に言わせたら、誰かと話をしてる時にここまで無表情でいる方が難しいと思うんだけど。
「あー、わりい。ちょっと焦ってて。……あのさ、取材の申し込みをしたくてここに来たんだけど」
ドサクサ紛れもいいところだが、こうなっては仕方ない。
「それで?」
まったく歓迎されていないのは百も承知の上だが、どうせいつか言わなければならないことなんだからと、勢いだけで目的を告げた。
「その取材対象って人が、『阿坂理志』って名前なんだ」
名札に目をやりつつそう告げた時、そいつは初めて無表情を崩した。
……つまり、露骨に嫌そうな顔をされてしまったわけだが。
それから、長い廊下を二人で並んで歩きながら、少しだけ話をした。
あんなに思いっきり拒絶反応を示していたくせに、取材のことは既に研究所の責任者である教授から聞いていると言った。
「なんだ、そうなのか」
昨日の続きって感じで、俺は当たり前のようにタメ口で。
普通は失礼なヤツだと思うだろうけど、阿坂はそれについては心底どうでもいいらしく、相変わらずのエラソウな日本語で、でも、ごく普通に答えてた。
「いや、だからって出張を早めに切り上げてきてもらうほどのもんでもなかったんだけどさ」
編集長の口利きなんてアテにはしてなかったんだか、わざわざ戻ってこさせるほどの威力があるとは驚きだ。
「大学で打ち合わせがあって早めに呼び戻されただけだ」
「あ、そっか。なら、いいけど」
それよりも、たいした取材ではないと分かったら怒るんじゃないだろうかという不安が無きにしもあらず。
これじゃ、「女性誌に売り渡すミステリアスなプロフィールとアイドル並みのグラビア写真が欲しい」なんて言えない。
それ以前に、俺が心の中でひそかに「失敗作」と呼んでいるこの無表情が女性誌のカラーページを飾れるとは思えないんだが。
それについては、いったいどうすればいいんだろう。
「あ、俺ちょっと会社に電話して……」
いっぺん指示を仰いでからと思ったが。
次の瞬間、そんな悩みをはるかに超越した問題が発生した。
「雑誌社の人間だとか?」
「うん、雑誌社っていうか……あ、俺は八尋行上。会社は東京にある小さな事務所で、今回は女性誌向けに『若き天才科学者』の――――」
説明は聞いてくれてたし、差し出した名刺も受け取ったけれど。
「生憎だが、そういう内容だとしたら取材の許可は下りない」
また突き放したセリフが飛んできて。
「え?」
こんな言葉なのに、さほど冷たく聞こえないってことがかなり不思議なんだが。
いや、そんなことに感心している場合じゃなくて。
「……なんで?」
阿坂の説明によると、所属員個人をクローズアップするような取材は許可が下りないらしい。
その理由というのが「大学の方針」で。
「よく分かんね……」
つまり、俺が納得できるような説明は何一つなかった。
「とにかく研究内容とか大学の紹介とか、そういうアウトライン的なものしかダメってことなのか。それじゃ、ただの大学の宣伝だよな」
一般記事だったとしても面白くも何ともない。
あとは研究の内容が一般人の興味を引くものであることを祈るばかりだが。
「ここって何の研究施設なんだ?」
尋ねた後で、事前学習資料の中にウィルスのビデオがあったことを思い出したが、それを告げる前に阿坂から呆れた声が返ってきた。
「ジャーナリストのくせに下調べもしてこなかったのか」
「へ?」
俺の説明を全部聞いた上で「ジャーナリスト」に区分するとは思ってなかったため、それだけで思い切りうろたえてしまった。
「いや、ジャーナリストっつーか、三流ゴシップ雑誌に売るための記事を拾い集めてるだけなんだけど」
よく考えたら、そんなヤツに取材を申し込まれるのは不名誉なことかもしれない。
それについては俺にも「ごめん」という気持ちがあったんだが。
当の阿坂はそんなことには一言も触れず。
「なるほどな」
そんな納得を返してきただけ。
それっていうのは明らかに『なるほどそういう職業の奴って感じだ』という意味で。
さらに言うなら、阿坂は多分これが失礼な反応だということには気付いてないと思われ。
「だとすると、今回は仕事にならないだろうな」
ごく普通に次の会話を振ってきた。
なんというか、さすがに失敗作だけのことはある。
本人の感情の起伏のなさも相当だが、他人の感情への配慮のなさがまた素晴らしいレベルだ。
まあ、俺も口の聞き方については人のことは言えないとは思うんだが。
「だからって、仕事にならないなんて言ってられないからな。なんとかするつもりではいるけど。それに、俺、この仕事を終えて、ちゃんとバイト料をもらって、借金を返さないと―――」
真剣に説明をしている途中で、阿坂が本当にどうでもよさそうにそれを遮った。
その言葉が。
「他人の金の話に興味はない」
……そりゃあ、そうだろうけど。
それにしてもこの言い方はどうかと思う。
相手によってはケンカを売ってると思われても仕方ないだろう。
「そのしゃべり方で周囲と軋轢が生じたりしないわけ?」
半分は愚痴で半分は厭味という俺のひとり言を阿坂は黙って聞いていた。
そして、その間に俺の顔もちらっと見たりもしてたけど。
でも、結局それについては何も言わなかった。
本当の本当に。
こいつはどこかが失敗してる。
最初の印象が外れないってことが俺の唯一の特技なんだが、こういう場合はあまり当たって欲しくないものだとつくづく思った。
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