ここの空気があまりにも肌に合わなくて、なんだか俺は一人で一気にダルくなっていたが、だからといって全てがどうでも良くなったわけでもないので、とりあえず阿坂には口止めしておくことにした。
「あのさ、さっきのやつ、頼むから教授にチクるなよ」
『さっきの』というのはもちろん「タヌキオヤジ」発言のことだったが、その頼みに対して阿坂からの返事はなかった。
たとえあの男に対して良い感情を持っていなかったとしても、阿坂にとっては育ての親。反感を含んだ言動については全て報告せざるをえないとしても立場的には仕方ないのかもしれない。
そんなことも思ってみたが、どうやらそれは違うらしく。
とても普通に「『チクる』の意味が解らない」と言われてしまった。
「ああ……そっか、わりい」
この環境では青少年が軽く口にするような単語は知らなくて当然だろう。
というか、周囲にあの教授のように慇懃無礼なヤツしかいないとしたら、阿坂のしゃべり方がどこか偉そうなのも頷けるってもんだ。
要するに、間違った日本語を手本にして育ってしまったってことだろう。
「ええっとな、『チクる』っていうのは―――」
とりあえず意味を説明して、もう一度「告げ口はしないように」と念を押し、「わかっている」という返事に安堵しながら俺も頷いた。
昨日初対面の人間をいきなり親代わりよりも信用している阿坂の様子は解せないが、まあ、俺にとってはいいことなのでそれにはこだわらないことにした。
「で、俺ら、それなりに友達なんだし、話す時もタメぐちでいいよ」
阿坂が普通の日本語を話せるのかを知りたくてそんな提案をしてみたが、今度は「タメぐち」が解らないと言われ。
「ああ、そっか」
日本語が通じるからと安心しきっていたが、この分だと同年代同士らしい会話はできないと思っておいた方が良さそうだった。
「……まあ、いいか」
俺に必要なのは女の子が憧れるような貴公子の写真とプロフィール。
少々偉そうな口調でも、若者らしい話し方ができなくても、そんなことはどうでもいい。
無事インタビューの許可をもらえたら、まともなトークをしてくれた部分だけを適当に編集して記事にすれば済む話だ。
とにかく今はその取っ掛かりを作らなければ。
「でさ、阿坂。一個聞きたいんだけど、ここであの教授より偉いヤツって誰?」
まず話はそこからだ。
組織である以上、上からの指示には従わざるをえないという状況もあるはず。
「あのタヌキオヤジの様子だと取材なんて絶対ムリっぽかったけど、俺もこれが仕事だからさ、どうしても許可をもらわないといけないんだ」
阿坂は気乗りのしない表情を浮かべたが、「頼むよ」と付け足して頭を下げたらちゃんと教えてくれた。
学長の名前と居場所、それから彼も日本語が話せるということ。
一応、そんなことも気にかけてくれているんだなと思うのはなんだか少しくすぐったかったけど。
「サンキュ。けど、この取材を受けることになってもおまえは困らないのか?」
もっとも「迷惑だ」と言われたところでどうしようもない。
それが判っていてもやはり気になるのは、俺の単純な脳がすでに阿坂を「友達」に振り分けてしまったせいなんだろう。
そして、阿坂の返事は……といえば。
「別に。強いて言うなら、余計な仕事が増えることくらいだな」
そんな感じで。
ちゃんと本音で、でも、本当にどうってことなさそうだった。
「なんかいい感じじゃないか?」と勝手に思いながら、たまに阿坂の方を見たりして。
ついでに少し希望も見えてきたような気がした。
「じゃあ、取材することになったらヨロシク。写真とかも撮らせてもらうと思うけど」
学長を口説くのだってきっと大変だろうし、成功するとは限らないが、だからといって手ぶらでは帰れない。
なんとかしなければという意気込みと共に阿坂に宣言してみたが、それに対しての返事は英語で「ご自由に」。
いかにも他人事というその態度が、まあ、なんというか……わかりやすくていいってことにしておいた。
その後は一般外来者でも使える施設を一通り案内してもらって、一応仕事の話なんかもして。
「ふうん、じゃあ、書面に回答もらうだけならメールでもOKなのか」
たとえこの取材を断られたとしても、大学の特色とか研究所の主な業務とか、そういう一般的なものについての質問なら拒否されることはないこともわかった。
「じゃあ、次回は紙に書いたヤツを渡すから、頼むよ」
事前に用意していたインタビュー内容のうち、阿坂個人に対するものだけを除いてくればいいってことだ。
それだけでも先にファックスしておけばいいかと思っていたら、阿坂が急に俺の顔を見て。
「今、手元にあるなら置いていけよ」
多分、阿坂も面倒なことが嫌いなだけだろうとは思うものの、その気持ちはちょっと嬉しくもあり。
本当はホイホイ押し付けて帰りたかったが、だからといってすぐに渡せるかというとそんなこともなく。
「あー……持ってはいるんだけど、ちょっと書き直してくる。自分以外の人間が読んでも分からないと思うんで」
というか、編集長にものすごい勢いで赤を入れられたので、さすがに恥ずかしくて見せられなかった。「中学生レベル」と笑われたことも記憶に新しい。
「あー……えっとさ、ちなみに質問って日本語でいいわけ?」
スペルを気にしながら書き直すのは面倒だから聞いただけだったが、
「英語で回答しても最終的には日本語に直すんだろう?」
阿坂はどうやら先のことまで考えてくれているようだった。
「うん、そう」
案外いいヤツなのかもしれないなんて考えも一瞬頭に過ぎったが。
「妙な訳をされるくらいなら最初から日本語で回答する方がいい」
実のところはそれが理由らしく。
本当になんというか、どこまでも合理的かつ正直で。
こちらで疑心暗鬼になりながら腹の底を探らなくてもいいのはありがたいんだが、
「他に質問は?」
それにしてもあまりに素っ気ないような、そんな感じで。
俺としても少々反応に困る。
「あー、そうだなぁ」
正直なところ、聞きたいことは他にもたくさんあった。
一番気になっていたのは、なぜ俺を『友達』の位置づけにしたのかということ。
「なんとなく」なんていう曖昧な理由でないことは確かだろう。
だが、それ以前の問題として確認しておかなければならないことが一つ。
「……阿坂って、俺のこと嫌ってる?」
わりと恐る恐る聞いたつもりだったが、
「いや」
返事は即答で、しかも、本当に「なんでそんなことを?」っていう表情だったもんで、だから、それが嘘ではないという確信は持てたんだが。
「そっか、よかった。ちょっと安心したよ」
そんな答えにやはり少し不思議そうな様子を見せる阿坂が何を考えているかなんて俺に分かるはずもない。
昨日のこと、今日のこと。
思い返しながら、感じたことは一つだけ。
俺の阿坂に対しての認識は多分どこかが少し間違っている。
――まあ、俺の回りにはいないタイプだから、仕方ないんだろうけどな……
経験値で判断できない以上、誤解もすれ違いもあるだろう。
最初からそう思いながら付き合っていけば、仕事が終わるまでの間くらいはなんとかなるはず。
静まり返った長い廊下を歩きながら、チラチラと隣に目を遣る。
歩くたびに揺れる長い前髪と切れ長の瞳。
何度見ても、やはり冷たいというよりはどこかに感情を置き忘れているような、そんな雰囲気で。
コイツってマジで何だろうな……なんて思うのと同時に、気付いてしまったことがあった。
「……阿坂、なんか顔色悪いみたいだけど」
全体的に温かさのカケラもないような白々とした照明ばかりということもあるが、カードを弄んでいた自分の手と比べても明らかに血の気がない。
なのに、阿坂の返事は「別に」のひとことだけ。
具合が悪そうな様子など少しも見せてはいなかったものの、だからといって放っておけるはずもない。
「って言われてもな。実際、ヤバそうなのに『それならいいんだけど』とか言えねーし」
半ば茶化して告げた言葉に対して、阿坂の口から本当に小さな息が漏れる。
それだってこんなに凝視していなかったら気付かなかっただろう。
だが、普段が無表情なだけに、ほんの少しの変化でもやけに苦しそうに見えてならなかった。
「近くに医務室かなんかないのか? あればそこまで一緒に行くし、もう帰れるんだったら家まで送るけど」
あれこれ聞いてみたが、土日は医務室も休み。病院は街の中心部に行かないとないらしい。
しかも、土曜だと言うのにこの後はまだ仕事で、
「六時からミーティングを兼ねて夕食に呼ばれている」
あのタヌキと会食だとか言うもんで、なんだか俺の心配が増幅したりもしたのだが。
「じゃあ、どこか休めそうなところとか。静かで、あんまり人がいなくて……」
受付でもらった地図つきパンフレットを広げると、阿坂が不意に口を開いた。
「……いつもそうなのか?」
俺の顔なんてちっとも見ないまま。
でも、それがなんだか少し頼りない声で。
「あ? 何が?」
深く考えずに条件反射で問い返したが、阿坂の顔を見たらその主旨はなんとなくわかった。
「……まあ、余計な世話だって言われることもあるけどな。でも、目の前に具合悪そうなヤツがいたら、普通は放っておかないだろ?」
第一、見て見ぬ振りをして通り過ぎると自分の精神衛生にもよくない。
「後から気になって引き返したくなるし、それに――――」
万が一のことでもあったら、一生後悔してしまうに違いない。
そんなことを思っていたら、
「C棟5ブロックに私室がある」
また不意にそんな言葉が降ってきたんだが。
「……『シシツ』ってなんだ?」
広げた地図でC棟5ブロックとやらを探しながら、阿坂に半歩遅れてついていった。
というか、俺はついて歩いているだけで何の役にも立ってないんだが。
それは別にいいんだろうか……。
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