X-10
(エクス・テン)

<9>




成り行きでついてきた阿坂の「私室」は、日本の住宅事情に慣れ切ってしまった俺には広すぎるスペースに見えた。
「これでも『研究用の付属スペース』って言うのかよ?」
メインルームに限って言えばいかにも研究室っぽい感じがしたが、ベッドルームやバス、トイレ、ミニキッチンはまったく普通のマンションと同じ。そして「器材置き場」という名のウォークインクロゼットがまたやけに広い。
阿坂の話によれば「一定資格を有するものに与えられる個人の研究室」らしいが、それにしても贅沢すぎる。
「これってマンションじゃねーの? 俺のアパートよりずっと広いんだけど」
開け放されたドアの向こうに見えるベッドなんて「何人で寝るんだよ」と突っ込みを入れたくなるほどの大きさだった。
「この中で研究室っぽいのってデスク回りと器材の入った棚くらいだよな」
クロゼットの中にはもちろん衣類もあったが、それはたいした量じゃなくて、残りは全部研究に使うと思われるガラスの器具なんかが収められたキャビネット。
まるでSF映画の小道具のようなフォルムの顕微鏡や何に使うのかわからない機械も中にあったが、しまい込まれたままになっているらしく、汚れはもちろん指紋一つなさそうだった。
逆にデスクのある部屋は恐ろしく殺風景で、それこそデスクとパソコンしか見当たらない。
部屋の主の趣味を感じさせるものといえば書棚だけで、ずらりと並んだ本に交じって、なぜか赤い首輪とシャーレが鎮座していた。
「……どういうインテリアなんだよ?」
ここへ来た目的をすっかり忘れてキョロキョロしている間に、阿坂は上着を脱いでベッドに座り込んだ。
「あ、水とか持ってきてやろうか? っていうか、体弱いってホントだったのか?」
てっきりタヌキの嘘だと思ってたのに……と、うっかり口を滑らせてから、慌てて周囲を確認したが、さすがに阿坂の私室には盗聴器の類はないと言われた。
「じゃあ、ここは何話してもいいんだな。よかったよ。もう何か変なヤツばっかで全体的に妙な空気だし、ドアを開けたらゾンビが襲ってくるゲームを思い出し―――」
またしても素直に本心を出してしまったが、よく考えてみるとその「変なヤツ」は阿坂の同僚だったり、親代わりだったりするわけで。
「……わりい。今の、聞かなかったことにしてくれ」
速攻で謝り、恐る恐る様子を窺ってみたが、俺の予想に反して阿坂の表情は少しだけ和らいだように見えた。
自分の部屋だから落ち着くのかもしれないし、俺がバカばっかり言ってるから呆れたのかもしれないけど。
いずれにしても血の気が少し戻った顔を見て、必要以上にホッとしていた。
「顔色、ちょっと良くなったな。じゃあ、水持ってくるよ」
阿坂がベッドに横になるのを見届けてから、勝手にキッチンを漁る。
手に持っていた取材用具一式の入った封筒が邪魔だったので、レンジの上に置かせてもらってから、冷蔵庫を開けてミネラルウォーターのペットボトルを取り出した。
「これって俺も飲んでいいよな?」
ここの空気のせいなのか、やけに咽喉の渇きを感じていたから、やはり勝手にグラスを一つ取り出すとなみなみと水を注いで一気に飲み干した。
「ぷはー、すっげー冷たくてうまい」
よく考えたら、結局朝食も取ってないし、ホテルを出てから何にも口にしていない。
「腹減るわけだよなぁ」
次回のアポだけ取ったらすぐに食事に行くことに決めて、グラスに水を注ぎながらベッドルームに戻った。
「あーさか。水……」
薄暗いベッドルーム。
横たわった阿坂の体は声をかけてもピクリとも動かなくて。
「大丈夫か?」
そっと呼びかけたら、やけにゆっくり瞳が開いてそのままこちらに向けられた。
それから、
「……うん」
掠れた声が返って。
そのあまりに頼りない様子が、なんだか阿坂らしくなくて。
「水、持ってきた。起こしてやろうか?」
やけに過保護になっている自分に苦笑しながら、サイドテーブルに一旦グラスを置くと、返事を待たずに抱き起こした。
そっと抱き寄せた阿坂の身体はわずかな時間支えるだけでもひどく重く感じられて、思っていた以上にダルいんだろうってことが分かった。
おかげで俺の心配はさらに増してしまったけど。
「こぼさずに飲めよ。っつーか、ちょっと入れすぎたな」
ギリギリ一杯まで水の満たされたグラスを唇に当ててやると、ぼんやりしたままそれを受け取った。
まだ血の気の薄い唇と、虚ろな目。
疲れているんだろうなと何となく思ったのは、徹夜明けに事務所にたむろしている編集長や先輩を見慣れているせいだろうか。
「阿坂、もしかしてあんまり寝てない?」
仕事が忙しいのだろうと勝手な解釈をしていた俺の脳内に飛び込んできたのは聞きなれない英単語。
「あー……わりい。それ、日本語にしてくれ」
それ以前に、疲れている阿坂とこんな話をしていていいものかについても悩んだんだが。
「日本語だと『不眠症』……かな」
ぼんやりとしたまま阿坂がグラスを置いたテーブルの上に小さな瓶。
もちろんラベルも英語だから、中味が何かは想像するしかないんだけど。
「眠れないってことか。大変だな」
俺は生まれてから一度もそんな経験はなくて、あったとしてもせいぜい旅行とか夏休みとか、次の日が楽しみで興奮して眠れなかったことくらいだから、気遣ったつもりの言葉が本当に他人事みたいに響いた。
「とにかくちょっと休んでおけよ。眠れなかったとしても横になってる方がちょっとはマシかもしれないし」
もう一度阿坂の身体をベッドに横たえて、それから「おやすみ」と言って部屋を出ようとした。
誰もいない方が眠れる確率も高いだろうと気を回したつもりだったが、
「……八尋」
ドアの前まで辿り着いた時、阿坂に呼び止められた。
「なんだ?」
振り返ってみても、全く俺の顔なんて見てなくて。
ただ真っ直ぐに天井を眺めながら、ため息に似た呼吸をしただけ。
けれど、次に告げたのは、
「少し話せないか」
そんな言葉。
別にどうってことのない台詞。
けれど、なぜか心臓がドクンと妙な音を立てた。
「あ……ああ、いいけど」
わけもなくうろたえながら、それでも平静を装ってベッドまで戻ろうと踵を返す。
話すことなんてあっただろうか、とか。
単なるヒマつぶしかもしれない、とか。
そんなことをぐるぐる考えている間も俺の心臓は変な鼓動を続けていてから、いきなり鳴ったインターフォンの小さな音に思わずビクッとしてしまった。
『ドクター、ご在室ですか?!』
飛び込んできたのはやけに差し迫った男の声。
それだけで思い切り焦っていることがわかる。
「誰だよ。ってか、なんか必死なヤツだな」
むしろそれは微笑ましくて、最初に会った白衣のヤツとか教授と違って嫌な印象は受けなかった。
「入れていいわけ?」
阿坂を起すのは可哀想だから、俺が開けてやろうと思ったんだが、
「……エディか。勝手に入ってこいよ」
阿坂は極普通にベッドに寝たままそう呟いた。しかも、
『では、失礼します』
インターフォンからはそんな返事。
どこがどう繋がってこの会話になっているのか俺にはさっぱり判らなかった。
「どういう仕組みなんだ?」
文明に取り残された自分を感じつつ解説を求めたら、枕元に置かれていたリモコンのようなものを渡された。
「なんだよ、今時のインターフォンってリモコンがあるのか?」
どうやら俺は本気で現代から取り残されているらしい。
もっとも中から叫んだら外までハッキリ聞こえるようなボロアパートに暮らす身には無縁のものだから、知らなくても当然だ。
心の中でそんな言い訳をしながら、ダルそうな阿坂の枕元に小さなリモコンを戻した。


「失礼します」と言いながら入ってきたのは金髪碧眼の男。
そこそこガタイもよくて声の印象通りの好青年だと思ったが、向こうは俺を気に入らなかったようで、ロコツに「誰なんだ」という顔を向けた。
そして、ほのかに感じるのは敵意に似た空気。
初対面の相手にそんな感情を抱かせるほど俺の第一印象は悪いんだろうかと今更なことを考えたが、思い当たる節もない。
単にコイツの嫌いなタイプなんだろうと勝手に結論付けて様子を窺うことにした。
「大丈夫ですか? ちょっと嫌な噂を聞いたもので」
白衣を着ているところをみると研究所のスタッフなんだろう。
話しているのはもちろん英語。もっともどう見ても外国人なので、日本語を話された方が違和感はあるだろうが。
「噂……どんな?」
阿坂の問いの後、男は無意識のうちにチラリとこちらに視線を投げた。
おそらく「変な男と一緒だった」とか、そんな類なのだろう。
それを証明するかのように返事も思い切り言葉を濁した。
「いえ、別にたいしたことでは……それよりも顔色が悪いようですが」
俺だってベッドに腰かけているっていうのに、そいつはやけに低姿勢で、話をしている間も終始床に跪いている状態。
阿坂との間に上下関係があるのは明らかだが、年齢はこいつの方が上だろう。
「……っつーか、どういう関係なんだろうな」
思わず口に出してしまったが、どうせ日本語は通じないだろうとタカをくくっていたのに。
「助手ですが。それが何か?」
流暢な日本語で返事が来て、少々焦った。
「……いや、別になんでも」
そんなやり取りで敵意に似た空気が倍増したが、それは俺とそいつの間に発生しただけのものだから、何の関係もない阿坂は静かに目を閉じていた。
そして、男は俺に冷たい一瞥を投げた後、クルリと阿坂に向き直り、また口を開く。
「ドクター、最近のご無理が祟ったのでは。それよりも熱はありませんか?」
助手と名乗る男はその後も俺の存在を華麗に無視して阿坂の額に手を当てたり、顔にかかった前髪を払いのけたりと、鬱陶しいほどあれこれと世話を焼いていた。
その様子が、なんというか――――恋人みたいで。

『研究所なんて閉鎖された空間だろ?』

脳内をどこかの能天気オヤジの無責任な言葉が過ぎっていく。
俺自身も「そりゃあ、妙な噂も立つよな」なんてあからさまなことを思いながら、腹の奥底になぜか酷く投げやりな気持ちが湧くのを感じていた。



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