X-10
(エクス・テン)

<10>




阿坂の助手という男の名前は『エドワード・なんとか』。
苗字は聞き取れなかったが、呼ぶ時は「エディ」でいいと言われた。
もちろん英語で、だ。
そして、俺はと言えば、やはり日本語で。
「はじめまして。八尋と申します。よろしく」
簡単な自己紹介と共に笑顔で右手を差し出したが、相手はまったくの無視。握り返そうなどという気持ちは微塵もないらしい。
英語で話したのに日本語で返したのがまずかったのか。
それとも、そんな表面的なことではなく、とにかく俺のやることなすこと全てが気に入らないのか。
いずれにしても、この男にまったく歓迎されていないのは疑いようもなかった。
しかもその後は、すぐ傍にいる俺の存在などひたすら排除するかのように、阿坂にベッタリとくっついて。
「やはりミーティングは欠席された方が良いのではないですか? 内容は例の件でしょうし……ドクターがお一人で反対されても結果が変わることはありませんから。それに、また揉め事にでもなったら―――」
思いきり背を向けているその様子が、俺など視界にも入れたくないという意思表示にさえ見えた。
だが、その会話において当事者であるはずの阿坂は助手の小言など聞いてなさそうな表情で、ただぼんやりと天井を見上げていた。
また色を失くしはじめた唇は水に濡れ、緩く開いてはいたが、ただ短く頷くための声さえ吐き出す気配はない。
「―――……いようでしたら、昨日の件もあるので、遅刻をするよりは早めにお断りするほうが良いかと。二日続けての遅刻は、いくら教授でもお許しにはならないかと―――」
延々と続く、アドバイスなんだか説教なんだかわからない話。
今の阿坂に聞かせても意味はないだろうと思いながらも、言いようのない疎外感に阻まれて、それを告げることができなかった。


阿坂が唐突に言葉を発したのは、本当に話の途中で。
「……わかってる」
何についての返事なのかさえ判らないようなタイミングだったけれど。
そんな話はもう聞くのも面倒なのだろうということだけは容易に想像できた。
「……夕食には……出席する。遅刻もしない……それでいいんだろう?」
力のない声が響く中、不意に浮かんできたのは、なぜか空港で時計を気にしていた阿坂の姿。
その時、「ああ、そうなのか」という納得と、罪悪感が一緒にこみ上げてきた。
「……悪い、阿坂。遅刻したのって、もしかして俺のせいなのか?」
時計なんて見るのはわざとらしい演技だと思っていた。
だが、本当に急いでたのだとわかると急に酷く申し訳ない気持ちになった。
今更弁解しても仕方ないことはわかっていたが、他人事のように聞き流すことこともできず、助手にも事のあらましを伝えたが、却って機嫌を悪化させただけだった。
この男が俺の何を気に入らないのか、考えたところで判るはずはない。
だが、これ以上俺の口から何かを言っても無駄なのは確かだった。
仕方ない。
そう思いながら、弁解することは途中で諦め、残りは阿坂に向けて話した。
「時間取らせて悪かったな。急いでるって知らなくて……けど、ありがとう。ホントに助かったよ」
ここで再会した時、俺は阿坂にあの時の礼を述べただろうか。
そんなことが今更気になった。
たとえそれらしい言葉を告げていたとしても、それは礼儀としてのことで、感謝の気持ちなど持ち合わせてはいなかっただろう。
ごめんな、という思いで視線を移したが、阿坂からは「うん」という返事さえなかった。
けれど、その代わりのようにそっと目蓋が伏せられた。
その様子がなんだか痛々しくて。
早く一人にしてやりたいと思った。
「あのさ、助手さん。俺らはもうここを出て静かに寝かせてやろうよ」
助手に提案してみたが、眉を寄せられただけ。
しかも、
「ご遠慮なく先にお帰りください、ヤヒロさん」
まるっきり棒読みにしか聞こえない冷たい返答。
俺に対して好意の欠片も持っていない相手を、まるで友達か何かのように呼ぶことができず、「助手」なんてどうでもいいような―――というか、わりと失礼な呼称を使ったのがいけなかったのかもしれない。
やはり「エディ」と呼ぶべきだったんだろう。どんなに嘘臭くても多少の親近感はこめられたはずだ。
今からこの亀裂を修復できるなどとは思っていなかったが、
「とりあえず、俺には『ミスター』はつけなくていいよ」
それだけは英語で言ってみた。だが、
「では、ヤヒロ。気をつけてお帰りください」
もうすでに取り付く島もなく。
「……ああ、うん」
しかも、なんだかぎこちない。
というか、相当気まずかった。
だいたいコイツが最初から理由もなく俺に敵意剥き出しなのがいけないのだ。
なんてことを考え、腹の中で憤慨してしまいそうになった時、
「……エディ、八尋がいる時は日本語で話してくれないか」
不意に降って来た阿坂の声で我に返った。
その時、助手はわずかに眉を寄せていたが、それでも阿坂の言うことなら素直に聞くらしく、すぐに日本語で「わかりました」と返していた。
とりあえず、少しだけ空気が良くなったのを確認してから、
「じゃあ、俺はこれで―――」
帰ろうとしたところを阿坂に呼び止められた。
「八尋……話が」
そう言えばそうだったな……と、今更気付いて。
「ああ、そうだった。で、何?」
軽い返事をした時、阿坂がゆっくりと視線を移した先は俺じゃなくて助手の顔。
どうやら「席を外してくれないか」という合図らしい。
「わかりました。用が済んだら呼んでください」
助手はとても不本意そうな口調でそう言うと、何度も振り返りながらベッドルームを出て行った。

――――目線だけで何を言いたいのかが判る間柄……か。

『助手という立場ならそれくらいはわかって当然だ』と言われたら、俺はその言葉を信じるかもしれない。
だが、阿坂と助手との間がそれだけじゃないってことについても間違いはなさそうだった。

それを意識した瞬間、腹の中でまた何かが燻り始めて。
そんな気持ちをかき消すように大きく一つ息を吐き出した。



人払いをしたくらいだから、それなりの話なんだろうと予想していたのに、
「明日の予定は?」
阿坂の最初の質問はひどく拍子抜けするものだった。
「別に……何にもないけど。ってか、俺のここでの仕事っておまえの取材だけだし。あ、質問書は明日中に持って来るつもりだけど」
学長を口説いて取材の許可をもらうにしてもどうせすぐにはアポイントをもらえないだろう。滞在期間の関係もあるし、まずは編集長の指示をあおいで……などと考えていたら、
「明日、少し時間をもらえないか」
そんな言葉の後、掠れた声が告げたのは数字とアルファベット。
「……なんだよ、それ」
どうやらそれは暗証番号らしく、「今日渡したカードとこの番号でここに入れるから、中で待っていてくれ」という説明があった。
「あー……いや、それは別にいいんだけど、その暗証番号さ」
当たり前だが、何の意味もなさそうな単なる英数字の羅列。
ランダムに英字が入っている分、一層性質が悪い。
しかも。
「だいたい何桁あるんだよ?」
俺の耳にはありえないほど長く聞こえたが、阿坂にはたいしたことじゃないらしく、
「16。覚えられない長さじゃない」
それくらいどうってことないだろうと言わんばかりの口調で返された。
「おまえと一緒にすんな。俺の頭じゃムリに決まってるだろ」
しかも、「暗証番号って4桁で十分だろ?」と思う俺の脳内セキュリティレベルは阿坂に言わせると「論外」らしく。
「最低10桁。それより短いとエラーになる」
阿坂本人は虹彩か手のひらの静脈かで一発認証されるらしいが、本人以外はこの長ったらしい暗証番号の入力が必須らしい。
「じゃあ、どっかにメモするから……」
ポケットからペンを取り出したら、それは駄目だとキッパリ断られた。
「そんなこと言われても絶対に覚えられねーって。つーか、覚えても三秒で忘れる。あ、ってことは助手ってこれを入力して入って来たのか? うわ、信じられねー……」
思い切り弱音を吐きまくった挙句、「阿坂が来るまでドアの前で待ってる」と告げたら、仕方なさそうに譲歩案を出してくれた。
「だったら自分が覚えられる番号を言え。明日までに変えておいてやる」
またしてもちょっと偉そうだが、悪気はないんだろう。
それにしても、「明日来て欲しい」と阿坂が俺に頼んでいるっていうシチュエーションなのに、取材というエサが後ろに控えているせいか、俺の頭が悪すぎるせいか、明らかに立場が弱いのが苦しいところだ。
「わかったよ。10ケタでいいんだよな?」
結局、自分の名前の頭文字と生年月日を告げた。
それなら文句はないだろうと思ったが、その番号が何で構成されているのかを瞬時に悟った阿坂は間髪入れずに呆れ顔をした。
「なんだよ、その顔は。他に思いつかなかったんだから仕方ないだろ」
だが、阿坂が突っ込みたかったのは、暗証番号が単純すぎることに対してではなく。
「……年下だと思っていた」
「え?」
それは、つまり。
「もしかして、俺、阿坂より年上なのか?」
「いや」
ってことは。
「同い年なのかよ……」
事前情報では『20代半ば』だったから、無意識のうちに25、6と思い込んでいたが、実際は23ってことだ。
まあ、23も25もそれほど変わらないと言えば確かにそうなんだが。
日本に戻ったら、それをネタにいじられることも見えていて、編集長以下騒々しい先輩連中の顔を思い浮かべながら、にわかに憂鬱になった
「どうした?」
「うーん……病人の阿坂に心配されるほどのことじゃないけど。帰ったらボスや先輩に『どうやって育つとこんなに差がつくんだろうな』って言われるんだなって思って滅入っただけ」
しかも、きっとそんなヌルい言い方では済まないことも明らかだ。
「ま、阿坂には分からない悩みだろうけどな」
バカ呼ばわりされることなんて、きっと一生ないだろう。
そんなふうに俺は無意識のうちに阿坂と自分の間に線を引いていた。
けど。
「……できることなら、八尋のように育ちたかったよ」

静かな部屋。
ポツン、と呟いた声が乾いて響く。
だが、その時は「どういう意味なんだろう」と思っただけだった。

「そりゃあ、どうも」
慰めてくれてるはずなのに素直に喜べず、ただ何気なく返した投げやりな言葉。
「せっかく慰めてやったのに」と呆れ顔をされるかと思ったのに。 
その瞬間、阿坂の瞳が深く翳った。
それから、何か言いたげな唇。
けれど、沈黙のまま。
「阿坂……? 悪い、俺なんか変なこと―――」
苦しげに歪む口元と、外された視線。
「―――いや、別に」
開きかけたものが、また固く閉ざされる。
それを悟った時、突然息が詰まるような閉塞感に襲われた。
青白く冷たい廊下。
盗聴器が当たり前のように置かれた応接室。
それと同じ匂いのする、空間に飲み込まれるような―――

重苦しい沈黙に耐えかねて、わざとらしい咳払いをした。
それから。
「阿坂、」
やっとの思いで呼びかけたけれど、答えはなかった。



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