X-10
(エクス・テン)

<11>





―――面倒になると口を利かなくなるって言ってたっけ……

ふと、タヌキオヤジの言ってたことが頭を過ぎる。
助手との遣り取りの中でもそんな感じはあった。
でも、今はそういうことじゃないだろう。
色をなくした頬。ダルそうな視線。
眩暈でもするのか、あるいはどこか痛むのか、ときどき苦しそうに目を閉じる。
こんな状態では話をする気力がなかったとしても仕方ない。
だから、
「……じゃあ、明日な。ゆっくり休めよ」
ただそう言い残して部屋を出た。


ふうっとため息をつきながらデスクのある部屋に戻ると、助手が仏頂面で待ち構えていた。
腕組みをして、壁に寄りかかって、見下ろすような視線を投げながら。
「ドクターはどうされましたか?」
体がデカいから、余計に威圧的に感じるのだろう。
「多分、寝てるんだと思うけど」
理由なんてないけれど。
「返事をしなくなったから出てきた」とは、どうしても言いたくなかった。
けれど、助手は全てを悟ったような顔でわずかに笑うと、予想していたとおり俺を追い出しにかかった。
「では、あとはこちらでいたしますので、貴方は早めに用を済ませて建物から出てください。今日は土曜ですので、一般の外来は三時がタイムリミットです。それを過ぎると警備員が迎えに来ますから」
嫌でも出て行くことになりますよ、と告げたのは、先ほど阿坂に言われた通り、全文がきちんとした日本語。
なんとなく棘があることを除けば、口調も言い回しも阿坂よりずっとまともに思えた。
「へえ……そうなんですか。本当にセキュリティが厳しいんですね」
どうでもいいような返事をしながらチラッと時計を見ると、すっかり昼過ぎ。
だが、見学がてら館内を一周する時間くらいはありそうだ。
「じゃあ、昼飯でも食って帰るとするかな」
ポケットに突っ込んである財布の中味を思い浮かべながら、溜め息交じりのひとり言を吐き出していたら、
「レストランはエントランスのあるメインビルディングの中ですから」
そんな言葉と共に助手がドアを開けて。
「では、お気をつけて」
あっという間に追い出されてしまった。



「……ったく、何なんだよ、アイツは」
最初に声を聞いた時は好青年に分類したが、第一印象は外れてしまったらしい。
俺にしては珍しいことだ。
「気分に合わせて勘もやや不調ってことなのかもしれないな」
慣れない海外だから無理もない。
時差ボケもまだ残っているだろう。
そんな言葉で自分をフォローしつつ、レストランを探そうとしたが。
「……やべ、せっかくもらったパンフ、忘れてきた」
というか。
取材用品一式の入った袋をまるごと阿坂の部屋のキッチンに置いてきてしまったことに気付いた。
「実は絶不調だったんだな」
手に持ってたもの全部を忘れてくるって相当なボケ具合だ。
まったく、何をしてるんだか。
「また戻ってもなぁ……阿坂、寝てるかもしれないし」
それ以上に、敵意ありありの助手とはもう二度と会いたくない。
「財布と来客用のカードはポケットに入ってるし、袋は明日受け取っても困ることはないよな……」
取りに行かないと仮定した場合に不都合はないだろうかと、廊下を行ったり来たりしながらあれこれと考えてみる。
「編集長から預かった電話用のカードもあの中だけど、まあ、それはいざとなったら金があるもんな。……あ、けど」
そう。もっと大事なものが。
「……質問書は取りにいかないとマズイよな」
明日までに書き直して持っていくと約束した。
こっちで頼んでおきながら「一日延ばしてくれ」というわけにはいかないだろう。
「ホントに大失敗だな」
仕方なく今来た通路を引き返した。
広いから中を歩くのだって一苦労だ。
しかも、地図がないからうっかり曲がる所を間違えるとすっかり迷子になる。
だが、幸いここは私室が固まっているらしく、壁にはホテルのように案内板がついていた。
「阿坂の部屋番号は、と」
忘れないように口ずさみながら矢印に従って歩いていくと、目当ての一角はすぐに見つかった。
「ここだよな」
番号プレートを再度確認し、インターフォンに手を伸ばす。
だが。
「寝てたら悪いよなぁ……」
こっそり開けて入る方法はないものだろうかと思案した時、思い当たったのは阿坂が口にしていたあの長ったらしい呪文のような番号。
「あれって何番だっけ」
聞いた瞬間でさえ脳が拒否していたのに、それから何分も経った今、思い出すのは絶対にムリだろう。
それでも一度くらいはトライしてみるかと、カードを差し込んでうろ覚えの番号を押した。
「……A67の次は、1B、HG、593……だったかな」
当たるわけないと思っていたのに、最後の文字を押すと同時に、パネルには『ロック解除』の文字。
「マジで?」
俺って意外と記憶力よかったんだな、などと自分で褒めてみたが、今はそんなことを喜んでいる場合ではない。さっさと荷物を取ってこなければ。
「入って右手が――――」
脳内に私室の地図を思い描き、封筒を置き去りにした場所を確認してからノブに手をかけた。
「助手、もういなくなってるといいんだけどな」
会うと面倒なことになるのは見えていたから、鉢合わせしないことを祈りつつ、怪しいほど慎重にドアを開けた。
だが。
「……うわ、暗……」
一歩足を踏み入れた途端、立ち止まってしまった。
カーテンは遮光素材らしく、光が漏れてきているのはわずかな隙間からのみ。
キッチンがどっちの方向なのかさえ分からなくなりそうだった。
(……けど、暗いってことはもう助手はいないってことだよな)
安堵の気持ちと共に深呼吸をしている間に目も慣れてきた。
目的の場所を確認し、ようやくそろりと歩きはじめたが、その時、不意にベッドルームから話し声が漏れてきた。
「眠ってもいいんですよ。もう薬が効いているのでしょう?」
助手の声だが、床に跪いていた先ほどとは少しトーンが違う。
しかも、部屋には阿坂と助手だけのはずなのに聞こえてきたのは日本語で。
(―――……なんだ?)
好奇心というよりは何だか嫌な予感がして、無意識のうちにベッドルームに引き寄せられていた。

暗い上にドアも半開き程度。
中の様子なんてほとんど見えなかった。
だが。


床に投げ出された白衣と服。
散らばった白い錠剤。
それから、絡み合う脚。
後は―――

「……んっ……ぅ……あっ」

押し殺した声と、荒い息遣いが聞こえた瞬間、頭の中が真っ白になって。
気がついたら、俺は部屋を飛び出していた。



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