X-10
(エクス・テン)

<12>




廊下を闇雲に何十メートルも走って、何度も角を曲がって別のビルに入って、自分がどこにいるのか分からなくなって。
座り込んで呼吸を整えようとしたが、まだ妙な動悸が治まらなかった。
「……それにしても、マジかよ。シャレにならねーって」
まずは落ち着け。
心の中で何度もそう唱えて、深呼吸を繰り返した。
別にどうってことはない。編集長の事前情報が正しかったというだけの話だ。
「けど、あのオヤジの言うことなんて絶対に嘘八百だと思ったのに」
未だあの部屋の光景がチラついて離れない。

投げ出された白衣。散らばった白い錠剤。それから―――

「……んなこと、もう考えるなって」
他人の性癖なんて知ったことじゃない。
確かにそう思っているはずなのに、掴み所のない感情が脳内をグルグル回っていく。
「ああ、もう、そんなことはいいから、とりあえずメインビルディングに戻ってどこかで休んで――――」
コーヒーでも飲んで、少し落ち着こう。
そう決めてみたものの、気がかりなのは私室に忍び込んだことを気付かれなかったかということ。
動転する余りにバタバタと駆け出していたなら、今更そんなことを心配しても無駄だろう。
だが、部屋を飛び出てきた時の記憶を辿ろうとしても真っ白になるだけで何も思い出せなかった。
「まったく、なんでこんなに動揺してんだよ、俺は。日本で見てきたビデオとおんなじだろ」
自分を元気付けるための独り言が誰もいない廊下に空しく消えて行く。
それよりも、未だ平常心を取り戻せない自分の鼓動が耳の奥で残響のように鳴り続けていた。



ようやく立ち上がる気力が戻った時には、ずいぶんと時間が経っていた。
「こんなことでちゃんと取材できんのかよ」
パンツのホコリを払いながら、しばし反省し、このモヤモヤした気持ちの整理はホテルに帰ってからゆっくりすることにしたものの。
「……ってか、どこだよ、ここ」
阿坂の私室の辺りには番地よろしく部屋番号とブロック番号が出ていたから迷うことはなかったが、ここにはそんな表示は一切見当たらない。
「本当に何にも書いてねぇし……」
座り込んでいたのは交差する廊下の壁際。
四方に同じ色の廊下とドアが続くだけで窓もない。
どうやらカンペキな迷子だった。
方向感覚はかなりまともだと自負していたが、今回ばかりは勝手が違う。
「……ここって、わざと区別がつかないようにしてんじゃねーか?」
どっちを向いても鏡に映したかのような同じ景色。
グレーの床。白い壁。
そこに同じ形の重厚なドアが等間隔に並んでいるだけ。
「なんか、薄気味悪いな」
ひんやりとした空気に漂う、新しい建築物の匂い。
まだ使われていないのか人の気配も全くない。
「まあ、適当に歩いていけばどっかに出るよな」
そんなことを呟いた時、かすかにカシャッという音が聞こえて。
足は無意識のうちにその気配の方向を目指していた。
誰かいたら、メインビルディングへの出方を聞けばいい。
そう思っていたのに。
「えっ……行き止まりかよ?」
角を曲がるとそこは壁。
「絶対に人の気配がしたと思ったんだけどな」
踵を返すとまたひっそりと静まり返った廊下が続くだけ。
だが、突き当りの少し手前、壁の窪みと思っていたものに取っ手があることに気付いた。
「……こんなところに非常口か?」
たとえばホラー映画ならこれは間違いなく何かのトラップ。
いかにもそんな感じで。
薄気味悪いと眉を寄せながら三秒ほど悩んだけれど。
「……まあ、ここに突っ立っていても仕方ないからな」
俺はとにかくこの息苦しい空間から抜け出すことを選んだ。



ゆっくりとドアを開けると視界に飛び込んできたのは、ぼやけた自然光と古いコンクリートの建物。
あとは周囲に張り巡らされたロープに吊るされた「取り壊し予定につき立ち入り禁止」のプレートだった。
「なんだ、これ。倉庫か何かか?」
それにしては造りがしっかりしているし、それなりにでかい。
建物の向こう側はもう大学の敷地ではないのだろう。
一面に鉄条網が張り巡らされたその場所には、中途半端に壊されたビルの瓦礫を隠すように雑草が生い茂っていた。
「妙な感じだよな」
鉄条網の前に立って今出てきたドアを振り返ると、真新しいビルのコの字型の中庭部分に取り壊し予定の古びた倉庫があり、建物の造りとしては明らかに不自然だった。
しかも、新しいビルは中庭に面した部分に窓がなく、出入り口も俺が出てきた非常口だけ。
さらに、そのドアは一見では分からないように造ってあるとしか思えない。
何かの事情により、外部の人間からこの場所を隠そうとしているのは明らかだった。
「……さて、どうするかな」
興味はあったが、見つかれば厄介なことになるかもしれない。
ひとまずここを脱出しなければ……と思ったが、それには先ほどのドアから再び建物の中に戻るか、鉄条網を無理矢理くぐって一旦隣の敷地に出るしかなさそうだ。
そう判断した俺は、当然のように鉄条網を自分の幅に押し開くことを選んだ。
荒地側のビルの陰あたり、なるべく人目につかない場所で力任せに金属のロープを歪め、なんとか通り抜けられそうな隙間ができるとホッと一息ついた。
どうやら抜けられそうだ。
そう思った時、不意に中庭方向に何かが動く気配を感じた。
そっと覗くと、そこに立っていたのは見覚えのある男。
「あれ、受付で会った―――」
斜め後ろからだから、顔まではハッキリ見えなかったが、阿坂からカードを受け取った時に声をかけてきた陰湿そうな白衣の奴に間違いないだろう。
男はしばらく挙動不審な態度で辺りを見回していたが、こちらの存在には気付かなかったらしく、すぐに古い建物の中に姿を消していった。
「……ここって取り壊し予定じゃないのか?」
使われていないはずのビルにいったい何の用があるというのか。
男が暗い建物の中を明かりもつけずに歩いて行く様子が一階の廊下の窓にチラチラと映る。
用があるのはどうやら突き当たりの部屋らしく、そこで白衣の影は見えなくなった。
「あそこならこっちから中が見えるんじゃないか?」
そう思った途端、足は勝手に窓の下に向かっていた。
どうしてこんなところで厭味な男のすることに好奇心なんて持ってしまうのか。
そう自問自答する冷静さがあれば、近寄ったりはしなかっただろう。
だが、まるで吸い寄せられるかのように、次の瞬間にはもう中を覗き込んでいた。


男が入った部屋には窓が二つあるものの、暗いことに変わりはない。
先ほどから何かを探しているらしく、ドアを開け放したまま書棚とキャビネットの引き出しを漁っていた。
そして、突然動きを止めると、見つけたばかりのCDのような形状のものを持ち込んだノートパソコンに入れて中を確認した。
ページを開くためにクリックする手が心なしか震えている。
だが、目当てのものはなかなか見つからないようで、CDと一緒に見つけたファイルをイライラした様子でめくりはじめた。
こちらに向けられている画面には、後ろ向きの子供と若い男の胸元が映し出されている。
それもホームビデオで撮ったような映像ではなく、監視カメラの映像をモニター越しに録画したような奇妙なものだった。
(……しかも、かなり古い映像って感じだな)
いつ頃のものかは判らない。けれど、画像の隅にあるパソコンはかなり旧型のものだ。
音は聞こえなかったが、小さな男の子の頬の辺りが動いているのを見ると何かしゃべっているのだろう。
子供が手を伸ばすと、男が何度も頷きながら、とても愛しそうに膝に抱き上げる。
(……親子?)
年齢的にはそれも不自然ではないな、と思ったその時、画面に大写しになった男の顔に目が奪われた。

――……助手?

画面全体が青っぽくて本来の色がわからないせいで、一瞬そんなことも考えたが、落ち着いてよく見てみると髪と瞳はどう見ても黒。
子供に渡している本の表紙にひらがなが交じっていることからも十中八九日本人と思って間違いないだろう。
だが、骨格とか肉付きはやはり助手と良く似ていた。
助手が本当はハーフかクォーターで、画面の男が父親か祖父だとしたら……など考えた瞬間、またさっきの光景がまた脳裏を過ぎって思わずフルフルと首を振った。
そんなことをしている間に男は新たに一冊の薄いファイルを見つけ、ペラペラとそれをめくって中を確かめた後、白衣の下のベルトに挟んだ。
それから、急いで周囲を元通りに片付けると、来た時と同じように外の様子を窺いながらそっと出て行った。



「なんだ、あれは……」
好奇心が抑えられず、男が新しいビルの中に消えたのを確認してから腐蝕したドアノブに手をかけた。
だが、すでにしっかりと施錠されていて中に入ることはできなかった。
「絶対、何かありそうなのにな」

壊されるはずのビルに大量の資料。
そして、何かを探して出入りする挙動不審の男。

もう一度窓から覗いてみようかと思った時、ドアの下に紙切れが挟まっていることに気が付いた。
おそらくは男が落していったのだろう。
わずかにはみ出た三角の部分をつかみ、破れないようにそっと引っ張り出してホコリを払った。
それは手の中にちょうど乗る程度の大きさで、形状を言うならごく普通の写真だった。
だが、それを見た瞬間に思わず眉を寄せた。

写っていたのは女性の手。
薬指に銀色の指輪をして、爪は淡いピンクに塗られている。
だが、中指の先から手首をぐるりと回るようなカーブを描いて広がっていたのはどす黒い染みだった。

「……なんだ、これ」
そして、それから目を逸らすように何気なく写真をひっくり返した瞬間、突然頭の中にまで広がるほどの音でドクンと心臓が鳴った。


古びた写真の裏側。
その隅には、アパート送られてきた資料と同じ、あの「1」なのか「S」なのか判らない文字が記されていた。



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