X-10
(エクス・テン)

<13>




言いようのない恐怖感。それから、焦燥感と不安。
複雑な気持ちを抱えながら、急いで中庭を離れた。
無理にこじ開けた鉄条網の間を抜けたせいで、シャツが少し破れたことさえ気にかけている余裕はなかった。
一旦、敷地の外へ出て、できるだけ足跡を残さないように草の上を歩いて。
鉄条網がそう高くないブロック塀に変わったところで、それを乗り越えて中に戻った。
「誰にも見つかりませんように」
人目につかないよう用心しつつ建物の裏側から表に出たが、外来で利用できる施設のほとんどが閉まった後ということもあり、歩いている人間は一人もいなかった。
ホッとしながら何事もなかったかのように小道を歩く。
異様に静かなことに変わりはなかったが、それでもあの窓のない壁に囲まれた不自然な中庭とは違ってそれなりに心地よい散歩気分を楽しめた。
―――それにしても……
屋外なのに淀んだ空気が充満する場所。
思い出しただけで背筋に冷たいものが走った。


目の前にメインビルディングが迫り、このまま建物の中を通過すればあっという間にエントランスに着くだろうと思いながら『B棟11』と書かれたドアに手をかけた。
だが、その時になって初めて入り口に差し込むべきカードがないことに気付いて、また違う焦りに襲われた。
「……やば……落とした」
衣服全てのポケットを探したが、出てきたのは財布とパスポート、それから、無意識のうちに持ってきてしまったあの手の写真だけだった。
「これ、持ってきちゃいけなかったよな。ってか、それよりも」

カードを落とした場所があそこだとしたら……――――

そう考えた時、背筋にゾクリと寒気が走った。
「……すぐに戻って確かめないと」
そう呟いてみたが、言葉に反して体はまったく動かない。
『あそこへは二度と行くな』
第六感というものが本当にあるなら、今まさにそう告げられているような気がした。
「とにかく……まずはどこでなくしたのかを思い出さないと」
自分に言い聞かせながら記憶を辿ってみたが、焦りのせいか何もかもが切れ切れのフィルムのようにしか浮かんでこない。
「くっそー」
壁に八つ当たりしながら座り込んだその時、気づいたことがあった。
パンツのポケットに入れていたのだから、座ったら尻部分に違和感があるはずだ。
だが、阿坂の部屋を飛び出した後、最初に廊下で座り込んだ時にはもうあの固い異物の感触はなかった。
「ということは、カードを落としたのは阿坂の部屋もしくは廊下ってことか」
だが、阿坂の部屋だったとしてもまずいことに変わりはない。
侵入したことについては「忘れ物を取りに来た」と言えば済むだろうが、逃げ出した理由については適当な言い訳など思いつかなかった。
「いや、いっそのこと最初に出た時にうっかり落としたことにすれば……だったら、俺を見送った助手が気付いてるか」

――ここでグズグズ考えていても仕方ないな……

そう結論付けるまで何分要しただろう。
溜め息とともに立ち上がると、プロムナードに沿って一面に広がったクローバーを踏みしめながら、眼前にそびえ立つメインビルディングを目指した。



ようやくエントランスに辿り着いた時、ちょうど大学と研究所を往復しているバスが到着したところ。辺りは学生やビジネスマンでごった返していた。
普段なら、受付に並ぶのが面倒だとか人込みは嫌いだとか、心の中でぶつぶつと文句を言いたくなるような光景だったが、さすがに今回ばかりはその雑多な雰囲気に安堵を覚えた。
「はい、本日はメインビルディングの一部の施設を除き、すでに閉館となっております。現在は運営している施設も三時には全て―――」
説明を聞きながら舌打ちする日本人ビジネスマンに、ハーフっぽい受付嬢が作り笑いで応じている。
「午前と午後じゃ、受付も変わるんだな」
後から後からわらわらと押し寄せる客に少し早口で同じ説明を繰り返すその様子を少し気の毒に思いながらも、「今朝の子なら話しやすかったのに」とささやかな愚痴をこぼして、ロビーの片隅に置かれたソファに腰を下した。

あの人波が引くのを待って、カード紛失の手続きを確認しよう。
それから、もう一度館内のパンフレットをもらって……――――

ぼんやりとそんなことを考えていたら、受付とは反対方向から呼び止められた。
「八尋様ですね」
声をかけてきたのは、今朝の受付嬢だった。
「名前、覚えていてくれたんだ」
「はい」
そんなことにさえホッとして、また体の力が抜けたのも束の間、笑顔と共に「警備室でカードをお預かりしています」と言われて。
「え、それって、ここの青いカード?」
今度は『よかった』と思う間さえなく。
「そうです。今朝ドクターが発行されたご親族用の」

―――……親族?

条件反射のように思いきり怪訝そうな顔をしてしまったら、「もしかして、ご存じないんですね」と笑って説明をしてくれた。
「セキュリティーカードにも何種類かあって、スタッフはシルバー、一般の来客は白、八尋さんのお持ちだった青いカードはご家族など親しい間柄の方専用なんです」
家族同然の特別なご友人だったら青いカードを渡すこともあると付け足されて。
「……ああ、そうなんだ。うん、知らなかった」
俺にしてみればその説明を聞いた後の方が謎は大きかったわけで。
つまり、取材目的で来ていることを知っているはずの阿坂が、なぜ一般外来用ではなく親族用のカードを渡したのかということについて思い当たる理由が一つもなかったのだ。
「特別な友人、か……」
俺が戸惑っていることには気付かずに、
「では、こちらにどうぞ」
華やかな笑顔で案内をしてくれる受付嬢の半歩後を歩きながら、またここにも何か別の意味があることを感じずにはいられなかった。



警備室付属の応接でカードの受け取り手続きをした。
身分証明のために財布に入れてあったパスポートを見せ、受領のサインをした後、青いカードは無事俺の手元に戻ってきた。
「あ、あのさ、これってどこに落ちてたか知ってる?」
受付の子にそっと尋ねたら、
「C棟一階の廊下だそうです。巡回警備の者がそう申しておりました」
やはりにこやかに地図を広げて現場付近を指差してくれた。
「そっか……」
だとしたら、走っている最中にポケットから落ちたんだろう。
阿坂の部屋でもあの妙な建物の中でもなかったことには心底ホッとして、また少し脱力して。
その瞬間、静かな応接室で俺の消化器官が何の遠慮もなく空腹を訴えた。



そして、五分後。
「最上階にはちゃんとしたレストランもあるんですけど、こちらなら気をつかわなければならないような相手も来ないので居心地がいいですし、手軽に食べられて美味しいんですよ」
彼女が友達と一緒に案内してくれたのは、メインビルディング一階の外れにある小さなカフェ。
「それにご親族用のカードがあれば無料で召し上がれますし」
さすがに受付をしているだけあって、パンフレットに書いていないようなことまで教えてくれるのが本当にありがたかった。
「へえ、そうなんだ。じゃあ、毎日ここで済ませれば食費が浮くんだな」
貧乏旅行なんだと話したら、ついでに青いカードで利用できる他の施設も教えてくれた。
図書館、ネットカフェ、スポーツジムなどなど。本当に研究のための施設なのかと思うほどいろいろあって、全部が使い放題だ。
「図書室って研究所のこととか大学の歴史なんてことも調べられる?」
「ええ、もちろん。そういう資料はきっと一番充実していると思いますよ」
聞けばパソコンも筆記用具も置いてあるという。
「プリンターから紙を抜き取れば簡単なレポートくらいは作成できそうだな」
「やだ、八尋さん。司書のいる前ではやらないでくださいね」
「大丈夫だって」
とにかくこれで時間を無駄にしなくて済みそうだ。
「どうぞごゆっくり。もし、お帰りが遅くなるようでしたら、ドクターのお部屋に泊めてもらえばいいですし」
悪戯っぽく笑う彼女たちを見ながら、また白衣と錠剤を思い出して複雑な気持ちになった。
本当なら阿坂の部屋にだってしばらく近寄りたくないくらいだが、取材がある上、荷物まで忘れてきているのではどうしようもない。
「けど、部外者はスタッフ専用施設からは三時に追い出されるんだろ?」
だから、今日はもう荷物の回収も無理だと諦めたところだったのに。
「それはどなたが?」
「エディとかいう助手」
その名前を口にした時、無意識のうちに苦い顔をしてしまったのだろう。
受付嬢とその友達が同時にクスッと笑った。
「ご親族用のカードはプライベートルーム宿泊もOKなんですよ。単身赴任中の方だとご家族がお見えになって泊まられることも結構ありますし」
その言葉に「ふうん」と気のない返事をしながら。

――――じゃあ、なんで助手はあんなことを……?

そんな疑問も過ぎっていったが。
よく考えてみたら、助手は阿坂が俺に青いカードを渡したなんて思っていないのだろう。
あのプライベートルームにしても、普段は助手と阿坂以外は誰も立ち入らないのだから、いついかなる時も阿坂は自分の手の内にいる。
そう信じているような気がした。
「……八尋さん、どうかしましたか?」
呼ばれていることに気付いてハッと顔を上げると、二人揃って不思議そうな様子でこっちを見ていた。
「え、ああ、いや、別に。いろいろ便利だなって思って」
上の空だったのがバレバレな返事だったが、彼女たちは変に思わなかったようで、
「じゃあ、さっそく今日から泊めていただいたらどうですか?」
ワクワクした顔で見つめ返されてしまった。
「そうそう。それで、ドクターのお部屋がどんなだったか教えてください」
結局のところ、阿坂の生態に興味があるんだろう。
理由を尋ねたら、「なんとなくミステリアスだから」と笑っていた。
「阿坂の部屋なら、さっき入れてもらったよ。着替えとかも置いてあったけど、それ以外はいかにも研究室の付属って感じのごく普通の部屋だった」
素っ気なくて寒々しい。そんな感じで、俺の印象はあまり良いものではなかったけれど。
「家族とか、恋人の写真とか、そういうのもなかったんですか?」
「え……ああ、多分」
記憶に残っていたのは、本とシャーレと顕微鏡と。
あとは薄暗い部屋の淫靡な光景だけ。
「そうだな、研究に関係なさそうなものって言えば、棚に置いてあった首輪くらいか」
それって何だろうなと呟いた時、片方の子が「ああ」と頷いた。
「そう言えば、可愛がっていた犬を去年亡くされたって」
彼女が聞いた噂に間違いがなければ、阿坂は子供の頃から犬を飼っていたらしい。
「交通事故か何かで、かなり酷い状態だったらしくて、獣医さんが安楽死させようって言ってた子犬を引き取ったらしいですよ」
「へえ。そうなんだ」
阿坂と子犬。
なんだか変な組み合わせに思えたが、それが本当ならああ見えて案外世話好きなのかもしれない。
……とりあえず、俺の貧困な想像力ではイメージできなかったが。
「それで、その子が亡くなった後、ずっと元気がなくて」
「そうそう。心配された教授がこちらにお住まいになるように手配されて。それから、ご自分の助手をされていたエドワードをお話相手にって」
洋の東西を問わず女の子は噂好きだ。
どうせ俺が欲しいのはゴシップなんだから、女性の好きそうなネタならここで全部聞いていけばいいような気さえしてきた。
阿坂本人には聞きにくいことでも案外簡単に分かるかもしれない。
「以前はどちらかというとエドワードはドクターのことをお好きじゃなかったみたいなんですけど。でも、今は……ね」
「婚約者がこちらにお見えになったら、ヤキモチを焼いてしまいそうなくらいですもんね」
ふふ、と笑う彼女たちが華やかで、少し見とれてしまっていたのか、危うくうっかり流してしまいそうだったが。
「ちょっと待て。婚約者って……阿坂の? それとも助手の?」
さすがに聞き捨てならない言葉だったもので、慌てて確認を入れた。
「エドワードの、です。ここからは少し離れたところにご家族とお住まいのようですけど、週末にはときどき街外れのレストランで一緒にお食事されていて、たまにお見かけするんですよ」
ドクターには内緒にしてくださいね、と言われて「もちろん」と返したけど。

―――助手に婚約者? だったら、なんで阿坂と……

また俺の脳内に蘇る。
阿坂が横たわっていたベッドと散らかった床。
それを思い出すと、またわけもなく苛立ちを感じて。
深呼吸の代わりにグラスの水を一気に飲み干した。



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