X-10
(エクス・テン)

<14>




苛立ちが収まらないまま、彼女たちに礼を言った頃にはもうカフェからもずいぶんと人の気配がなくなっていた。
「じゃあ、また」
別れ際、もう一度「ドクターの部屋で恋人か家族の写真を発見したら教えて」と言われたが、曖昧に頷いてその場を流した。


その後、学長へのアポを取ろうとまた受付に出向いたが、「三ヵ月先まで一杯です」と笑顔で返されて閉口した。
「なんとかならないのかな」
「申し訳ありません」
粘ってみてもその一言で終わり。
ついさっきまで「なんとしても取材の許可を取る」と息巻いていたのに、受付嬢の表情には「よほどのコネでもない限り面会は難しい」という気配が濃厚に漂っていて、ただでさえ少ない俺の前向きな気持ちはあっさり萎んでしまった。
編集長に指示を仰ぐにしても、電話用のカードも阿坂の部屋。
ミーティングが何時までかかるのかはわからないが、6時からと言っていたのだから、終わるのは早くても7時ってところだろう。
「じゃあ、とりあえず取材申込書だけもらえますか?」
受け取った紙切れを折りたたんでポケットにしまいながらため息をついて。
時間を見計らって荷物の回収に行くことを決めたまではよかったが、だからと言って一般客の姿がすっかり見えなった館内をウロウロする気にもなれず、図書室で調べ物を済ませた後は夕飯と時間潰しを兼ねてまたカフェに戻った。


「……意外と閑散としてるんだな」
私室暮らしの研究者もいるくらいだから、もう少し賑やかでも良さそうなものだが、さすがに週末ともなると一人で寂しく飯を食うヤツは少ないらしい。
スタッフも暇らしく、目立たない場所で立ち話をする姿もちらほら見えた。
さっさと食べて出ていった方が彼女たちにとっては良い客なのかもしれない。
そんなことを考えていたら、いきなり年配の女性に声をかけられた。
「お茶の時間に来ていた方ね。エルシーのボーイフレンドなの?」
平易な英語だったから、言われたことはちゃんと分かっていたけれど。
「……エルシーって?」
一瞬、空白になりかけたが、よくよく聞いたら受付嬢のことらしい。
「ああ、それってこっち用のニックネームか」
勝手にそう納得した後、「ボーイフレンド」なのかという点について「あちこちで迷子になったので彼女に館内のガイドをしてもらったのだ」という補足をした。
「学生さんなの? こんな時間にここにいるっていうことはどなたかのご家族なんでしょう?」
いかにも気さくなおばちゃんという感じの彼女は、一人で味気なく夕飯を済まそうとしていた身にはちょうどいい話し相手で、俺もかなり楽しい気分で言葉を返した。
「家族じゃないんだけど、友達なんだ。阿坂っていうヤツなんだけど」
知ってるかな……と問いながら顔を上げると、彼女は大げさに驚いた顔をして見せた。
それから、一大事のようなオーバーアクションで他のスタッフを手招きした。
「ドクター・アサカの友達だって」
「あらあ、そうなの?」
「仕事関係のお客は多いけど、友達なんて初めてじゃなあい?」
俺の手に握られていた青いカードを見つめる目が、いかにも好奇心ありありで少々笑えた。しかも。
「年はおいくつ?」
「日本の方? それとも中国かしら?」
「ここにはドクターがお招きしたの?」
次から次へと矢継ぎ早な質問攻め。
もっともこんな扱いも何度目かだから、俺もいい加減慣れてきた。
「名前は八尋。日本人で、年は阿坂と一緒」
簡単な答えを返しながら、英語で話すのも案外楽しいものだなと思った。
なんと言っても彼女たちが賑やかで。
「あら、そう。なら、うちの息子とも同い年ね」
そう言った瞬間から俺は準息子扱いになったらしく、「たくさん食べるのよ」なんて言葉とともに頼んでいないデザートまで持ってきてくれた。
「……じゃあ、遠慮なく」
隣に勝手に腰掛けたおばちゃんたちがあまりにもおしゃべり好きで明るくて、本当に日本のおばちゃんと変わらないなって感じが不思議なほど心地よかった。


その後は和気藹々。
いくら暇な時間帯とは言え、これではあんまりだろう……と思っていたら、案の定フロア係のおばちゃん以外は途中で厨房に戻された。
名残惜しそうに手を振る彼女たちを見送ってから、コーヒーのおかわりをもらい、ふと思い立って阿坂のことを尋ねてみた。
「ドクター? そうねえ、ここでは滅多に食事はしないけど」
さすがに彼女も朝は何を食べているのか知らなかったが、昼は助手が阿坂の分までテイクアウトしていくらしい。
「……部屋で食うのか」
助手と阿坂が二人で微笑みあって食事をするところなんて想像したくもなかったが、脳が勝手にイメージしてしまい、ついでに条件反射で不機嫌になった。
そんな俺をどう思ったのか、
「お昼はミーティングしながらってことが多いみたいだけど。夜はここの最上階か、外のレストランで食べてるんじゃないかしらね」
笑いながらそんな説明をしつつ、「教授がご一緒のことが多いみたいよ」なんてことも言ってくれたが、それはそれであまり良いイメージはない。
「けどさ、あの二人ってあんまり仲良さそうじゃないよな?」
タヌキオヤジはどうしても自分の手の内に置いておきたい様子だったけど、阿坂はアイツのことなんてきっと大嫌いだろう。
「あら、教授にもお会いしたの?」
「うん。阿坂が紹介してくれた」
今にして思えばそれだって不自然に感じられた。
第一、友達だなんて大嘘をついたところで、タヌキオヤジは端から信じていないだろうに。
「それってどうしてかな?」
いきなりそんな質問をされても困るだろうとは思いながらも、率直に尋ねてみた。
でも。
彼女はちょっと気の毒そうな顔で笑ってから、「素っ気なく見えるけど、いい子なのよ」という少し的外れにも思える返事をした。
多分それは、「部外者には言えないのよ、ごめんなさいね」という意思表示なんだろう。
だから、俺もそれ以上は聞かなかった。
「ふうん……ここのスタッフってみんな阿坂とは仲いいの?」
いい子、というくらいだから、多少は個人的な付き合いもあるのだろうと踏んだのだが。
「仲がいいのはうちのアルフォードよ」
「……アルフォード?」
聞けば飼い犬らしい。
カフェの厨房を経由して裏口を出たところに小屋があって、昼間はそこにいるのだと説明してくれた。
「そういえば、阿坂って犬飼ってたんだよな」
殺風景な部屋。
本棚に並んでいた赤い首輪。
生活必需品でもなく、仕事に使うものでもないのは、ただそれだけ。
「ええ。本当に犬が好きなのね。いつもは笑わないのにアルといる時は楽しそうよ」
犬と遊ぶのは得意なくせに、多分、人間はあまり好きじゃないんだろう。
屈託なく笑ったりもしなくて、本当に不思議なヤツだとは思うけれど。
「それで、ヤヒロはドクターとは大学時代の友達なの?」
だったら、こんなに片言で話すはずはないんだが、彼女はそこまで考えなかったらしい。
にっこり笑って俺の返事を待っていた。
「いや、俺、英語がマジで苦手で、ちょっと困ってる時に阿坂に助けてもらったんだ。付き合いはそれから」
そう答えたら、「あら、上手に話せてるわよ」なんて子供を褒めるような慈愛に満ちた口調で言われて苦笑い。
「俺も阿坂みたいに日本語も英語も両方話せたらいいんだけどな。……まあ、阿坂は誰かと話すのはあんまり好きじゃないみたいだけど」
家族がいなくて。
あんな慇懃無礼なタヌキオヤジのところで育てられて。
その上、性格が悪い同僚しかいないような職場で働いていたら、人付き合いなんて嫌にもなるだろうけど。
「そうねえ……でも、あの子、小さい頃からあんな感じだったわね」
そう言いながら、視線はまるで何かを辿るようにゆっくりと遠い場所に流れていく。
苦いものでも食べたように口元が歪んだことに彼女自身は気付いていないのだろうけど。
「……阿坂の子供の頃のこと、知ってるんだ?」
その問いに、「ずっと前に何度か会ったことがあるだけだから、ここで声をかけられるまで忘れていたんだけど」という前置きがあった。
「もう15、6年前になるかしら。ここからだと結構遠いけど、町外れに住んでた時に古い教会があって、あの子はそこの牧師さんのところに預けられてたのよ。それでね―――」
当時の阿坂は7つか8つ。
牧師は教授の知り合いか何かで。
「足の悪い子犬を抱いて近くの公園に来て、30分くらい遊ばせてまた抱き上げて帰っていったわ」
そんな姿を何度か見かけて、寂しそうだったから声をかけたのだと言う。
「犬を歩かせるのは公園の中だけ。行き帰りは抱っこしてたわね……ええ、とっても可愛がってたのよ」
犬は決して小さくはなくて、幼い阿坂の両手は一杯だったと、そんなことも話してくれたけれど。
「初めは名前を聞いても年を聞いても嫌な顔をするだけで……きっと大人が嫌いだったのね。でも、『可愛いワンちゃんね』って褒めるとニッコリ笑って」
あの子自身も可愛かったのよ、なんて。
そんな言葉とは裏腹に、彼女の瞳に翳が差した。
「他にはどんな話を―――」
そう問いかけた直後にも彼女が見せたのは戸惑いで。
だから、それ以上は何も話してもらえないのではと思ったけれど。
不意に開いた彼女の口からこぼれた言葉に耳を疑った。
「あの子ね、子供の頃、話せなかったのよ」
「――……え?」
初めは『英語が話せなかった』という意味かもしれないと思い込もうとしたけれど、その後すぐにそれは否定された。
「ずいぶん小さい頃に母親を亡くしたっていうし、父親は行方不明だし……いろいろ大変だったんでしょうね」
気の毒にねという言葉が、小さく音楽が流れるだけの空間に消えていった。
「そう……なんだ」
今でも不意に返事をしなくなる。
気まぐれとか、わがままとか。
きっと、そういうヤツなんだと思ってた。
けど。
「……あのさ、その阿坂を預かってたっていう教会って、遠いのかな?」
幼い頃のことを知りたいと思ったのは、決してゴシップ記事なんかのためじゃなかった。
でも、「だったら、どうして?」と問われたとしても、それを言い当てる言葉なんて何も思いつかない。
そんな気持ちを持て余したままだったけれど。
「そうね、ここからだとバスを乗り継がないと行けないから、行き方と住所をメモして持ってきてあげるわよ」
「うん、ありがとう」
しばらくは毎日来るだろうから、ここにも顔を出すよと約束して。
何気なく時計を見たら、7時を少し回ったところだった。
「あら、もうこんな時間。ヤヒロもそろそろ帰った方がいいわよ。土曜は最終バスが出るのも早いから」
8時を過ぎたら歩いてホテルまで帰るハメになるわよ、と大げさに脅されて慌てて席を立った。
「じゃあ、もう一度阿坂のところに寄って、それから帰るよ」
ごちそうさまと言い残して片手を上げたら、
「ヤヒロ、プライベートルームのある棟へは、そこの通路を使うと近道よ」
そんな言葉と一緒にポンポンと小さいものが二つ飛んできた。
キャッチして手の中を見ると、赤と緑のキャンディーが一つずつ。
「一つはあの子の分よ。またアルと遊んであげてねって伝えてちょうだい」
「うん、わかった」
その時はヤヒロも一緒にいらっしゃいと誘われて、曖昧に頷きながら。
「あの子ね、笑うと子供っぽくなって可愛いのよ」
「へえ、そうなんだ」
笑う阿坂なんて想像できなかったけれど。
犬と戯れる後ろ姿を勝手に脳内で捏造して、少しだけ微笑みながらカフェを後にした。



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