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 教えてもらった通路はおそらくスタッフ専用なのだろう。
 とても素っ気ない造りだが、壁や床の痛み具合からしても頻繁に使われているようだった。
 研究所施設への入り口にはすぐに着いたけれど、受付にはもう座っている人もいない。
 しかもタイミング悪く研究所から大きなコンテナを運び出すところで、狭い通路は幅一杯に塞がれていた。
 「申し訳ありません。搬出が終わるまで中でお待ちいただけますか?」
 受付ブースの後ろにある警備室から顔を出してた女性に声をかけられ、軽く頷いて中に入った。
 警備員はコンテナの搬出の手伝いをしており、中にはもう一人の女性が月曜にこちらに着くという客に電話で道案内をしていた。
 「こんな時間に大変だね」
 そんな気の入らない世間話をしていると、ゆっくり移動しているコンテナの向こう側から声が漏れてきた。
 「スポンサーから個人的に声がかかったくらいでいい気になりやがって」
 警備室に俺がいることにも気付かず、吐き捨てるような声が苛立った靴音を響かせて目の前を通り過ぎていく。
 「それにしても教授も教授だ。いくら親友の息子だからって特別扱いなんて……」
 「やめておけ、その話は」
 必要以上にくぐもった声。
 聞き取れたのも会話の断片だけ。
 「受付っ、何してるんだ。早くカードのチェックを済ませろ」
 「すみません、今すぐ――」
 彼らがどこのセクションの人間なのか今の会話が何についてなのか、特定できる単語は何もなかった。
 けれど、それが誰についての噂なのかということだけは分かった気がした。
 「……職場は敵だらけってか」
 気の毒だと思うより、腹立たしくて、無意識のうちに思いきり顔をしかめていた。
 体の中を占領する苛立ち。
 けれど、それを全部飲み込んで無理に笑いながら、戻ってきた受付の子に「お疲れさま」と声をかけた。
 壁際のデスクではまだ電話での道案内が続いていて、それが終わるまでこの子も帰れないんだな……なんてことを考えながら、ふと耳に飛び込んできた言葉にハッとなった。
 「はい、空港でお聞きになれば……サウスゲート正面のインフォメーションセンターに日本語の話せるスタッフが常駐しておりますので。ええ、そうです。日本語対応しているセンターはその一箇所だけなので」
 結局、俺はサウスゲートにあるというその案内所には行かなかったけれど。
 「な、それって、受け付け担当じゃない人間―――たとえばここの研究員とかでも知ってること?」
 やたらと動悸がするのは、もしかしたら罪悪感のせいなのかもしれない。
 多分、俺は尋常ではないくらい慌てていたと思うけど、彼女は驚くこともなく笑顔で頷いた。
 「薬品関係のような日本の企業と提携しているセクションでしたら、来賓用の案内マニュアルは手元にあるかと思いますが。それが何か?」
 「……あ、いや。別に」
 事実はたったそれだけのこと。
 分かってしまえば、本当になんてことのないごく普通の理由。
 けど。
 「ありがとう」
 気持ちが逸って、どうしようもなくて。
 ただそう言い残して、静まり返った廊下を走り出した。
 
 
 
 図書室で飽きるほど館内の地図を眺めたせいで、壁の案内板を見なくても迷わず辿り着けた。
 部屋の前に立つと、昼間の光景が意識の表面にチラついたけれど。
 「あ、俺……八尋だけど」
 思いきって呼びかけたインターフォンから何の返事がないことに自分でも驚くほど落胆したのは、絶対ここで会えるような気がしていたせいなんだろう。
 けど。
 ガックリと肩を落として溜め息をつきかけた時、カチッと小さな音がして、パネルに『ロック解除』の文字が映し出された。
 「いるなら返事くらい……」
 してくれたらいいのに、とぼやきかけたけれど。
 それでも、やはり気持ちのどこかが弾んでいて。
 それを隠せないまま、勢いよくドアを開けた。
 
 
 
 「よかった。実は忘れ物して―――」
 19時半という時刻。
 当たり前のように電気がついているものと思っていたのに。
 部屋の真ん中。
 カーテンの閉められていない窓から差し込む月明かりがやけに青く床を照らしていた。
 「阿坂……?」
 片手に握り締めていたのはインターフォンのリモコン。
 床に座り込んで、足を投げ出して。
 壁にもたれた身体は今にも崩れ落ちそうで。
 「おまえ……何してんだよ。大丈夫なのかよ?」
 問いかけに少し遅れて、気だるい目線だけがこちらに向けられる。
 白いワイシャツは二つほどボタンが飛んでいて。
 唇と頬に血の跡。
 上着は床に。
 外したネクタイはまだ手に絡み付いていた。
 「――ラボで、少し揉めただけだ」
 いつもと同じ、落ち着いた口調。
 けど、声は痛々しいほど掠れていた。
 「少しって……ここじゃ、それくらいで殴り合いすんのかよ?」
 そんな言葉にフイッと視線が外れる。
 行き先は窓の外の満月。
 それから。
 「八尋」
 「な……んだよ」
 不意に名前を呼ばれて。
 こんな時に初めて。
 意外と綺麗な顔してんだな、って。
 そんなことを思った。
 「それ……持って、すぐに行けよ。土曜は8時過ぎに最終だ」
 ゆっくりと動く瞳が時計の針を見る。
 ひどく心配そうに。
 それからもう一度、血の滲む唇で「早く行けよ」と呟いた。
 
 確かに阿坂は少しズレているような気がするけど。
 でも、それは俺が最初に思ったような「成長過程の失敗」ではなくて。
 本当は俺なんかよりずっといろんなことに気がついて。
 たくさんのことを思い遣れるヤツなんだろうって、やっと分かった。
 
 こんなにケガをしてるクセに。
 俺が乗るバスの時間を気にするほど――――
 
 「……バカか。先にてめェの心配しやがれ」
 置いて帰れるわけないだろ、と文句を言って。
 心の中で。
 こんな時くらいもっと優しい言葉をかけてやれないのかよ、と呟きながら。
 「立てるか? とりあえずベッドに行って、それから手当てするからな」
 胸ポケットに青いカード。
 これさえあれば、朝までここにいても誰も咎めはしない。
 だから。
 「ひでぇな。何があったか知らねーけど、手当てくらい助手にでもしてもらってこいよ」
 ドアの向こうにはまるでホテルのように隙なく整えられたベッド。
 真新しいシーツが余計に原因の分からない苛立ちを募らせる。
 「痛むか?」
 「……いや」
 抱き支える腕に、少しだけ余計な感情が混じっていることを自分でも薄々は気付いていた。
 でも、それを追求する勇気は、その時の俺にはなかった。
 「とにかく座って。マジひでえな。シャツだけじゃなくてパンツまで破れるってどういうことだよ?」
 焼け焦げたような跡。
 かすかな薬品の匂い。
 「食事会兼ミーティングってのは薬品が置いてあるような場所でやるのか?」
 どういう状況だったのかと聞いてみたが、阿坂は答えようとしなかった。
 部外者に話すことではないのだ、と。
 返ってきた言葉はただそれだけ。
 「……そっか」
 そう答えながらも、やけに寂しい気持ちになるのを止めることはできなくて、気付かれないようにそっと視線を落とした。
 
 
 ベッドに座ったまま服を脱がせた。
 腕と脚、それから顔にも、擦り傷と軽いやけどのような痕。
 備え付けの救急箱には簡単なものしか入ってなくて、俺はそれを気にしていたけど。
 阿坂はこっちの話なんて全然聞いてなくて、まるでひどく珍しいものでも見るみたいに俺の手元を眺めていた。
 「なんだよ?」
 応急手当にしても適当すぎたか、と思う俺の耳に、
 「……見た目より、器用なんだな」
 ポツリと響いたのはそんな言葉。
 「それって、俺が相当不器用そうってことか?」
 冗談めかしてした質問に、阿坂はなんのためらいもなく頷いて。
 それから、ふっと息を抜いた。
 
 その後は、互いに口を開くことも無いまま時間が過ぎて。
 「とりあえずこれでいいかな」
 たいしたケガじゃないことに安堵しながら薬を救急箱に戻した後、
 「応急手当てしかしてないから、明日ちゃんと医務室に――」
 そんな言葉をかけたけれど。
 「……阿坂?」
 壁にもたれていた身体は何の前触れもなく俺の腕の中で崩れた。
 
 静かに繰り返される呼吸と。
 まるで痛みなど感じていないかのような、穏やかな寝顔。
 
 「消毒液染みないのかよ? おまえ、痛覚大丈夫か?」
 よほど疲れていたのか、それとも昼間は結局眠れなかったのか。
 不眠症だと言っていたはずなのに、サイドテーブルに置かれた新しい薬のビンを開けることさえないまま。
 「っていうか、いきなり寝るなよなぁ……」
 それよりも。
 昨日会ったばかりの相手に、そんなに全部預けちまっていいのかよ……?
 
 安心しきった顔で眠るその様子が、俺の目にはただひどく痛々しいものに見えた。
 
 
 
 
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