X-10
(エクス・テン)

<17>




待ち合わせの時間まであと十分。
二つ隣の建物だから、歩いて一分もかかからない。
けれど、どうしても待ちきれなくて早めに部屋を出た。
どんな顔で来るのだろう、少しは楽しみにしてくれているのだろうか。
そんなことばかりを考えて店の前まで来たけれど。
「……あれ、阿坂だ」
オープンテラスに座っていたのは見慣れた横顔。
服装はいつものスーツ姿から上着とネクタイを引いただけという感じだったが、それでも昨日とは少し違って見えた。
夕暮れの街に新聞と紅茶と、いつもより少し和らいだ表情の阿坂。
離れたところでそれを見ながら、条件反射のようにポケットからカメラを取り出してシャッターを切っていた。
「うわ、やべえ。マジでグラビアショットかもしれない」
だが、最新の注文は「痣か傷の写真」。
それとは違ってる上に写真の技術的にはかなり問題ありだとは思うが、それでも今回は絶対に合格点をもらえそうな気がした。
「……まあ、本人にも無断で撮ったんだし、仕事としてこれを使うことはないかもしれないけどな」
だとしても、これで自分の口から阿坂の容姿を説明する必要はなくなるのだから、それだけでも十分だろう。
そう思いながら。
「念のためもう一枚、と」
覗き込んだファインダー越し。
新聞を読んでいるはずの阿坂がやけに人待ち顔に見えて。

――……ってか、俺のこと待ってるんだもんな

当たり前のことに気付いた瞬間、唐突に外まで聞こえるような音で心臓が鳴った。
単に体調が悪いのか、精神状態がマズイのかは分からなかったけど。
「どっちにしてもヤバイって」
自分でもどういう症状なんだかよくわからなくてバカみたいに焦りまくっている最中だというのに、その上阿坂が突然顔を上げたりするから、
「うわ、マジ勘弁してくれって……」
俺の鼓動は一層激しくなってしまった。
それでも目が合う直前には何とか平静を装って、片手を挙げてにっこり笑ってみた。
もちろんカメラは既にポケットの中。
「よ、阿坂。ずいぶん早いんだな」
辛うじて声は引きつっていなかったが、顔はどうだったか分からない。
それでも阿坂はごく普通に――阿坂らしいという意味での「普通」だが――何も言わずに目礼した後、視線だけで自分の前の席を指し示した。
「じゃあ、俺はビールと……」
案内されて席についても、俺の心臓はしばらくの間落ち着きがなかったけれど、グラスを傾け、テーブルに並べられた料理を見ているうちに何とか通常モードに戻ることができた。
店はそれなりに高級感はあるものの、それほど堅苦しくはなくて値段もそこそこ。なによりも日本人の口にも合う、わりと繊細な味付けが嬉しかった。
「いい店だよな。よく来るのか?」
「いや」
会話そのものは、親しい友人という雰囲気からは程遠く、俺が一方的に質問をして阿坂が短く答えるだけの遣り取りが延々と続くだけ。
何分経っても「話が弾んで」などという状態にはならなかったが、だからといって退屈ということもなく、仕事の内容や大学のことなどもさりげなく聞くことができた。
けど、食事も終盤という時、またしても俺は地雷を踏んだ。
「あの研究所ってさ、こう言っちゃ何だけど空気悪いよな。何でもっと居心地の良さそうなところで働かないんだ?」
俺にしてみればごく当たり前で素朴な疑問。
何気なく口にした問いの後、阿坂はテーブルに視線を落としてしまった。
「……悪い。気に触ったか?」
謝ってみても、わずかに首を振るだけで言葉は返さない。
「やっぱりちょっと失礼な質問だったよな」
悪い、ともう一度詫びてみたものの、やはり阿坂からの返事はなくて。
その代わりに、上まできっちり留めていたシャツのボタンを一つ外して、またかすかに首を振った。

その後はずっと無言。
時々何か言いたそうに口が開くけれど、結局言葉は出ないまま。
俺もだんだん気まずくなって、食事を終えると早々に会計を済ませた。

せっかくゆっくり話せると思ったのに。
いや、まともな会話にならなかったとしてもそれなりに楽しかったのに。
今日はもうこのまま帰るしかないのかと思ったらなんだか力が抜けそうだった。
「あ……あのさ、阿坂」
呼び止めた時、俺に向けられた瞳は相変わらず感情なんてなさそうで、すぐにでも「じゃあ」と言いそうだったけど。
「時間が大丈夫なら、少しだけ部屋に寄って行かないか?」
気がついたら、そんな言葉をかけていた。
「あー、えっと、カフェのおばちゃんから預かってるものがあるんだ。ほら、アルなんとかっていう犬の飼い主の―――」
俺も懲りないヤツだな、と自分で思ったけれど。
その時、阿坂の目に温度が戻って、俺の顔を見たままやけにホッとしたような顔で頷くから。
「……よかった。じゃあ、コーヒーでも買って帰るか」
どこまでも単純な俺はそれだけでまた少し気分が浮上した。

預かり物がキャンディーだと知ったら、阿坂はなんて言うだろう。
呆れるだろうか。
それとも、黙って受け取るだろうか。

そんなことを思いながら、レストランの並びにあるカフェのドアを押す。
「で、阿坂が貸してくれたカードを使うとタダだって聞いてから、初日から二食あそこで済ませたんだ。そしたら、ヒマな時間だったみたいで、あれこれしゃべってるうちに仲良くなって―――」
コーヒーを買いながら、そんな話をして。
店を出ようとした時、通りの反対側を歩いている人影に気付いた。
笑っていたせいか、それとも服装のせいなのか。いずれにしても研究所で見かけた時とは少し雰囲気が違っていたから、一瞬誰か分からなかったけど。
「あれ……って、助手……?」
微笑みながら歩いている助手の隣には長い髪の女性。
それが例の婚約者なんだろうってことは二人の雰囲気からすぐに察知できた。
「な、助手の隣にいる女の子って―――」
対岸の二人に気を取られたままの状態で何気なく話しかけたけれど。
「……阿坂?」
さっきまで普通に俺の顔を見ていたはずなのに、阿坂はもう完全に顔を背けていて。
しかもまた温度のない表情へと変わっていた。

助手の手がそっと女性の背中を押して向かいの店に入る。ウィンドウに飾られているのは華やかなドレス。
それを確認してから阿坂はスッと店を出た。
「ちょっと待て、阿坂っ―――」
俺の声なんてまるっきり聞こえていないみたいで、振り向く気配さえない。
冷静に考えたら誰だって自分が付き合ってる相手が婚約者といるところなんて見たくないだろうけど。

―――そんなに助手のことが好きだったのかよ……?

一緒に歩いているところを見ただけで取り乱すほど気にかけていたということが俺には信じられなかった。
部屋で見た時、助手に対しての態度はどちらかと言わなくても素っ気なくて。
だから、一方的に思われているだけで、阿坂にそれほどの感情はないんだろうと勝手に決め込んでいた。
なのに。
「……ったく」
吐き捨てた言葉が阿坂に対してだったのか、それとも自分の浅墓さに対してだったのかは分からなかったけれど。
「だから、ちょっと待てって……―――阿坂!」
溜め息交じりに呼び止めながら、それでも慌てて追いかけようとした時、背中に感じたのは誰かの視線。
通りを挟んだ向こう側。
こちらを向いて立っていたのは女性をエスコートしていたはずの男だった。
「……なんだよ、自分には婚約者がいるくせに」
彼女の腰を抱いたまま、よくそんな顔が出来るよな、と。
そう思った瞬間、怒りがこみ上げた。
だから。

―――おまえには阿坂と付き合う資格なんてないからな

そんな気持ちで一瞥を返すと、わざと勢いよく背を向けた。
無性に腹が立って仕方なかった。



ホテルのロビーに駆け込むと、阿坂は突っ立ったままで俺を待っていた。
「急にいなくなるなよ」
少しキツイ口調になったのは苛立ちを引き摺っていたせいだろう。
まるで八つ当たりだなと少し反省した時、阿坂から聞き取れないほどかすれた声で「すまない」という返事があった。
その時やっと、食事の途中からずっと声が出なかったんだってことに気付き、わけもなく血の気が引いていくのを感じた。
「咽喉が痛いのか? だったら、無理してしゃべらなくていいって。風邪引いたのか? それとも―――」
とにかく部屋に行こう、そんな誘いに阿坂が頷いたのかどうかさえよく分からなかったけど。
そっと背中を押すと、色の薄い唇が言葉を刻んだ。
多分、「ありがとう」だと思うけど。
でも、その声は俺の耳には届かなかった。


カードキーを通してドアを開けて。
その瞬間、思わず「うわっ」と呟いてしまいそうになった。
同時に手繰り寄せた記憶はホテルを出る時の自分。
我ながらどうかしていると思うほど浮かれていて、おかげで部屋の中はしっかりとその落ち着きのなさが反映されていた。
「……わりい、ちょっと散らかってるな」
ベッドの上に散乱していた着替えや雑貨を無造作にバッグに突っ込んでから、ベッドカバーを掛け直して阿坂を座らせた。
「少し顔色悪いみたいだけど平気なのか?」
聞いてはみたものの、返事は予想通り「大丈夫」の一言だけ。
「……って言われてもなぁ」
どんなに素っ気無い態度でもいいから、せめて「少し体調が優れなくて」とか「助手のことが気になって」とか言ってくれたらいいのにと思うけど。
一方で、阿坂がそんな性格じゃないってことももうなんとなく判っているから、俺もそれ以上を求めることはしなかった。
「……んじゃ、まあ、コーヒーでも飲みながら話すか」
熱いから気をつけろよ、と渡したカップ。
少しだけ触れた指先は冷たいわけでも、熱があるわけでもなかった。
けれど、それさえやけに危うく思えるのはどうしてなんだろう。
「あのさ、もしも体調が悪いんだったら、このままここに泊まってけば? 朝帰っても仕事には十分間に合うはず―――」
動けないほど具合が悪ければ部屋についてきたりはしないだろう。
なのに俺は何を言ってるんだろう、と心のどこかで思いながら。
半分上の空で次の言葉を捜していた時、阿坂が不意に顔を上げた。
それから。
「……八尋」
まだ掠れたままの声。
けれど。
「―――頼みがある」
淀みなく、真っ直ぐに俺の目を見て告げた言葉が気持ちの奥で何かを揺らした。



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