X-10
(エクス・テン)

<18>




「別に……簡単なことなら構わないけど」
そう言ってはみたものの、阿坂の表情から考えて訳ありの依頼であることは間違いない。
無意識のうちにそんな判断を下していたせいもあり、顔には不信感が出まくっていたと思う。
それに気づきながらも阿坂はきわめて事務的な口調で依頼の概要を話した。


「……ふうん。っつっても、なんかよくわかんないんだけどさ」
簡単に言うなら、頼み事はデータの持ち出し。
説明を聞く限りそれほど大変なこととも思えなくて、だからこそ余計に疑惑を募らせる。
「ヤバイことじゃないってのが本当なら、自分でどこへでも持って行けるはずじゃないのか? 関係者がダメで外部の奴が持ち出しOKっていう方がどう考えても不自然だろ」
反論してみたが、阿坂は静かに首を振った。
「なんかホントにわかんねーな。第一、相当怪しいヤツでもない限りセキュリティで引っかかる確率なんて低いだろ?」
もともと大学付属の研究所だ。
学生の出入りも多ければ、一般に開放している施設もある。
要人の来訪でもなければ警備も緩いだろう。
実際、受付の警備員はかなり暢気そうに見えた。
「自分で持ち出せば止められることは最初から判っている」
説明をしながら、阿坂の表情がわずかに曇る。
「なんで?」
条件反射で問い返してみたものの、理由なんて考えるまでもない。
つまり、いついかなる時も阿坂には無条件でチェックがかかるってことだ。
「おまえって何か前科があるわけ?」
「いや」
そうでないとするならば理由が分からない。
研究所の正式なスタッフで、そこで一番の権力者が親代わりになっているというのに何を疑われるというのだろう。
「ん、じゃあ、まあ、その前提に嘘はないとして……けど、だとしたら阿坂の友人ってことになってる俺だって目はつけられてるはずじゃないのか?」
けれど、阿坂はそれにも首を振った。
それから、急にフイッと目を逸らした後、いかにも重苦しい様子で口を開いた。
「研究所の規定では、ブルーのカードがあれば持ち物検査を拒むことができる」
それを曲げてまでチェックが行われることはないだろう、というような説明が淡々と続いていたけれど。

―――ああ、そういうことか……

さっきの阿坂の声が何度も何度も頭の中を通り過ぎていって。
俺の中に燻っていた熱が一気に引いていくのを感じた。

ずっと不思議だった。
なぜ親族用のカードを渡したのだろう、と。
いや、カードだけじゃなくて。
夕食に誘ったのも、部屋で話そうという誘いに乗ったのも、全てはこの為だったってことだ。
友達だと紹介されて、少しくすぐったい気持ちになりながらも喜んでいた自分の馬鹿さ加減を呪いそうだった。
「八尋、嫌だったら―――」
遠慮なく断っていい、と阿坂は言った。
けれど。
「……嫌っていうか」
俺はもう頼み事なんてどうでもいい気分だった。
返す言葉を決めかねて、じっと手の中のコーヒーを眺める。
その間、阿坂はわざと俺を見ないようにしていた。
時折り視線を動かしてはいたけれど、後はずっと床か自分の靴を見つめたまま。
視界の片隅に映る横顔には諦めが見えた。


押し殺した溜め息と、淀んだ空気。
沈黙が一秒ごとに重くなっていくようで。
「……あのさ」
耐え切れずに口を開いたものの、答えはまだ見つからない。
とりあえずは「少し考えさせてくれ」とか、そんな言葉でもいいのだろうか。
何かから逃げるようにそう決めた時、不意に阿坂のポケットから小さな電子音が聞こえた。
「あ……電話だろ? 出ていいよ」
そう言っても阿坂はしばらく携帯の画面を見たまま考え込んでいたが、鳴り止む気配のないそれを放置する気になれなかったのか、溜め息とともに電話を取った。
「―――もしもし」
俺への配慮なのか終始日本語で答えていたけど、相手が英語なのは漏れてくる音からも明らかだった。
「……え……ああ……また連絡する……いや、後で……」
日本語と英語の奇妙な会話。
阿坂らしくない歯切れの悪い返事。
そんな状態でごちゃごちゃと遣り取りをした後、埒が明かないと思ったのか、無理矢理話を終わらせて、おもむろに小さな機械を耳から遠ざけた。
その時。
突然、漏れてきた言葉は、『ヤヒロには気をつけろ』。
英語だったけれど。
それだけはやけにはっきりと俺の意識の表面に刻み付けられた。


ピッという小さな音の後、電源を落とした携帯は再びポケットに収められた。
「……助手か」
独り言にしては不機嫌な声色だと自分でも思った。
阿坂もそれに気付いたのだろう。
「エディは外部の人間に対しての警戒心が強いだけで、八尋だけが特別どうというわけじゃない」
そんなフォローがあったけれど。
たとえそうだとしても俺を嫌いだってことに変わりはない。
「会った瞬間から排除する気満々だったもんな」
助手の態度が気に入らないのは俺も同じ。
だからと言って阿坂に突っかかって何になる。
頭では確かにそう思っているはずなのに、溢れてしまった感情がどうしても止まらなかった。
「だいたい婚約者がいるくせに、おまえのことまで――――」
それでも、阿坂は驚いた顔もせず、やっぱりいつもの無表情で淡々と答えるだけ。
「好きで世話を焼いているわけじゃない」
「じゃあ、なんで―――」
「それが彼の仕事だ。嫌とは言えなかったんだろう」
誰に対して断れなかったかという部分についてはきっと故意に伏せたのだろう。けれど、それがあの教授だってことは推し量るまでもない。
「だったら、おまえが断ればよかったんじゃないのか?」
責めるような口調。
しかも、まるで吐き捨てるような問い。
それでも。
「……そうだな」
阿坂は感情のない声でそう呟いた。
そして、その後で「あの時はそれができなかったんだ」と視線を落とした。
「何でだよ? 当たり障りなく断るのなんて簡単だろ?」
必要ないとか、近くに他人がいると落ち着いて仕事ができないからとか、そんな言い訳で済んだはずだと言ってみたけれど。
阿坂は苦い表情のまま俯いて。
それから、ずいぶん経った後で理由を告げた。

「……依存する相手が必要だった」

遠い過去なんかじゃない。
犬が死んだのは去年で。
助手が来たのはその後。
なのに、もう取り返しの付かない昔のことみたいに。

「なんだよ……依存って―――」

寂しかったから誰かに傍にいて欲しかった、とか。
多分、そういう意味なのだろうとは思うけど。
「だったら、他のヤツでもよかったんじゃないのか?」
何も婚約者のいる男じゃなくても。
そう問い詰めたてみたけれど、俺が納得できるような答えは返ってこなかった。
阿坂が口にしたのはただ、「説明したところで言い訳にさえならないから」という拒否の言葉。
それだけでその先の全てを遮断した。
「どうせ俺には関係ないことだけどな」
楽しい夜になるはずだった。
けれど、実際は気まずい沈黙ばかりが続いて。
それでも俺は阿坂のことを考えていたけれど。
阿坂が何を考えているのかは、どんなに目を凝らしても見えなかった。
「……助手に婚約者がいるって、いつから知ってたんだよ」
何を聞いても、どんな答えが返ってきても。
この話を続けることは俺にも阿坂にも楽しいことじゃない。
それが分かっていながら、問わずにいられないのは何故だろう。
「エディが研究所に来た日に、教授から聞いた」
最初から知っていたという答えに、また気持ちの奥が冷たくなる。
それでも話題を変えることができなかったのは、代わりに言い訳を見つけてやれるかもしれないと思ったせいだろうか。
「助手はなんて言ってるんだよ。仕事だったら何してもいいって思ってるわけじゃないんだろ?」
少なくとも阿坂だけはそんなヤツじゃないと思いたかった。
けれど、口をついて出る言葉の全てが詰問になる。
「第一おまえはどうなんだよ。彼女から奪うつもりなのか? それともただの遊びだから悪いなんて思ってないってことなのか?」
『おまえには関係ない』
そう言われるだろうと思っていた。
あるいは、また口を閉ざして何も答えないんじゃないかと。
けど、少しの沈黙の後、答えは返ってきた。

「……彼女と、幸せになって欲しいと思っている」

いつもなら、俺はもうキレてただろう。
でも、阿坂の表情が酷く苦しそうで。
だから、それ以上強くは言えなかった。
「なんだよ、それ……最低だな、おまえも助手も」
吐き捨てた俺に対して、阿坂の返事はやっぱり「分かっている」の一言だけだった。
普通なら言い合いになるところ。
でも、阿坂は最後まで弁解をしなかった。
時間を取らせたことへの礼と詫びの後、「仕事が残っているから」と言って立ち上がった。
「ちょっと待てよ」
俺は何を苛ついているのだろう。
少なくとも阿坂は自分の現状がどういうことなのかを分かっていて、罪悪感だって持っているというのに。
―――ったく……
こんな話はもうやめよう。
そう決めて、デスクの上に置いてあった小さなものを手に取った。
「これ、おまえにって。カフェのおばちゃんが」
ポンと放り投げたキャンディーは放物線を描いて坂の胸元に届き、それから、緩く開いた手の中に落っこちた。
「……ありがとう」
感情のない声がそう告げる。
しばらくの間、透明な小袋に入った緑色の粒を眺めていたけど。
やがて何も言わずに部屋を出ていった。


軋んだ音を残してドアが閉まる。
安ホテルのわりに靴音は聞こえないんだな、とどうでもいいことを考えながら、ドサッとベッドに座りこんだ。
「ホント、嬉しくなさそうな『ありがとう』だったよな」
またズキンと胸が痛む。
無言で立ち去った阿坂の背中が寂しそうに見えたせいかもしれない。
「……あんなこと、言わなきゃ良かった」
助手との事は少なくとも俺には全然関係なくて、余計な世話以外の何物でもなかっただろう。
「何してんだよ、俺……」
今から追いかけて謝ろうか。
それとも、明日の朝、出直したほうがいいだろうか。
グルグルといろんなものが巡る頭では何一つまともな判断ができなかったけれど。
気がついたら、勢いよく窓を開けていた。
けど。

タクシーを止めるために道路沿いに立っている背中を見つめながら。
結局、その名を呼ぶことはできなかった。
ただ消えていく車の影を見送って。
それから、さっきまで阿坂が座っていたベッドに倒れこんだ。

今にして思えば、「頼みがある」と言われた時、既にこんなことになるだろうという予感があったのかもしれない。
「そういう勘だけはいいってオヤジにも言われたしな……」
いつもなら、失敗した日は反省を兼ねて敗因を追求してから眠っただろう。
でも、今日ばかりはそんな気分になれなかった。



Home   ■Novels   ■X-10 Menu      << Back     Next >>