X-10
(エクス・テン)

<19>




生まれてこの方、これほどまともに眠れなかったことは初めてかもしれない。
寝起きは最悪だった。
「目だけは開いてるって感じだな……」
時計を見ても、編集長に言い渡されたことを書きとめたメモを見ても、脳に送られているはずの情報はまったくの素通り。
思考などというものが微塵も存在しなくなった現状を自覚しつつ、これで仕事になるのかと憂慮する気力さえなかった。
ただ、夕べのことだけは何度も何度も頭の中を抜けていく。
いや、本当はずっとそこに停滞しているだけなのかもしれないけれど、何にしても俺の憂鬱を増幅させていた。
「……結局、頼みごとの返事もしてないしな」
夕べ、俺は何て答えるべきだったんだろう。
考えているつもりなのに「どうすればよかったんだろう」という字面だけが脳内を通り過ぎて行った。



寝不足の体と重い気持ちを引き摺って、オヤジの言ってた日本企業のビルに出向いたのが9時半。
指定されたネットカフェはビジネスモードで無機質な感じだった。
個室タイプもあってテレビ電話機能付き。
使用料の支払いは「通信費」という名目で遠慮なく編集長のクレジットカードを使わせてもらった。
『へえ、八尋と同い年にしちゃあ、やけに落ち着いた雰囲気だな』
送った写真を見ながらオヤジがニヤけ、それから「可愛げがない」という言葉が付け足された。
『で、デートは楽しかったのか? 取材はできたか?』
その言葉にズキンと重いものがのしかかる。
「え……っと、それが……途中で阿坂の声が出なくなって、それに――」
思いつく限りの言い訳を並べる一方で、仕事の情報として何を話すべきなのかを判断できずに口ごもった。
頼み事の件。助手とのこと。阿坂と気まずくなったこと。
できれば全てを隠しておきたいと思った瞬間。
『なんだ、喧嘩でもしたのか?』
「えっ……」
いきなり図星を指されて言葉に詰まった。
けれど。
「別にケンカなんて……」
俺が勝手に怒って一方的に言い捨てただけ。
阿坂は何一つまともな返事はしなかった。
『じゃあ、振られたか?』
また気持ちに痛みが走る。
「……っていうか、阿坂とはそういうんじゃなくて、ただの――――」
反射的にそう返したけど。
この間のように堂々と否定することはできなかった。
『ただの、何だよ?』
友達です、とさえ言えなくて。
「……いえ、別に」
ただ言葉を濁した。

本当は期待していたのかもしれない。
このまま特別な友達になれるんじゃないかと。
俺はどこかでそんな錯覚をしていて。
けど、阿坂は最初から俺自身には興味がなかった。
それがショックだっただけだ。

『何黙り込んでるんだよ。まったくこれだから今時の若いヤツは』
取材の進行状況がどうであれ、おまえにはしばらくそっちにいてもらうつもりだから、日本に追い返されるようなことだけはするなよ……と釘を刺されて。
自分では普通に「はい」と答えたつもりだったが、編集長には『今にも死にそうだな』と笑われた。
それから、追加情報をメールで送ったから読んでおくようにとの指示の後、電話は切れた。


「しっかりしないとな……」
ここへは仕事で来てるんだから、と言い聞かせて、気を引き締めるためにトイレで顔を洗ってから、研究所行きのバスに乗った。
もう十時を回っていたけれど、研究機関という場所柄時差出勤が当たり前なのか、それとも大半が学生なのか、首元に研究所で使っているカードホルダーの紐を覗かせている人がちらほら見えた。
賑やかに交わされる挨拶の中、人波に紛れてバスを降りた。
俺はまだ相当どんよりした気分だったから、受付で「おはようございます」とやけに明るく声をかけられた時もそのテンションについていけず、まともな挨拶一つ返すことができなかった。
「八尋様ですね。お見えになったらすぐに共同研究室にご案内するように言い付かっております」
華やかな笑顔で「こちらへどうぞ」と言われて、死にかけの脳がようやく少しだけ働く。
「……あ……そっか」
どうやら編集長のコネとやらは既に手配済みで、それがしっかり効き目を発揮しているんだろう。
ということは、俺はどこかの企業の重役の親戚という嘘臭い設定で迎えられてしまったわけだが。
「ありがとう。それは教授が?」
「はい。学長からの指示で、『ぜひ今後の研究についてのご説明を』と。薬品関係は大学でも力を入れている部門ですし、それに―――」
自分で取材の承諾を取り付ける必要がなくなったことについては正直ホッとしたが、こんな精神状態でハッタリがかませるんだろうかと心配になった矢先。
不幸にもいきなりそれを試される場面に出くわしてしまった。

「おや……八尋さん、でしたよね?」
受付嬢の後をついて歩き出そうとした俺の背中に飛んできたのは聞き覚えのある声。
振り返ると飛行機で一緒だったジャーナリストが立っていた。
「ああ、やっぱり。おはようございます、八尋さん。お顔の色が優れないようですが、どうかされましたか?」
愛想笑いにうんざりしながら、「寝起きなのでぼんやりしているだけです」と返したけれど。
「それにしても奇遇ですね。こちらで取材でしたか。実は僕も―――」

―――ったく、こんな時に……

ペラペラとしゃべり続ける男の腕を引っ張って受付を離れると、慌てて予防線を張った。
「ここへは記者としてじゃなくて社会勉強で来てるので」
いずれ父親の会社を継がなければいけないので今のうちに……などという大袈裟な説明はさすがに自分でも嘘臭いとは思ったのだが。
「ああ、そうですか。今の仕事が記者だということは内緒なんですね」
小狡い男は満面の笑みのまま全てを見透かしていることを知らせてた後で本題に入った。
「僕はね、新薬の情報が欲しいんですよ。でも、取材の許可がおりなくて困ってたところで。その社会勉強とやらにご一緒させていただけませんか?」
取っ掛かりだけ作っていただければ後は自分で何とかしますから、と作り笑いを炸裂させていたが、つまりは「記者だとバラされたくなければ協力しろ」ということにほかならない。
脅しに屈するのは不本意だが、この場はとりあえず流されておくに限る。
「……つっても本当に見学程度ですよ。取材って前提じゃないから質問はしませんし、それでもよければ」
業務の説明とは言ってもどうせ大学や研究所の宣伝ばかりだろう。
マスコミに聞かれたとしてもまずいものじゃない。
そう予想して、ジャーナリストを連れたまま受付嬢のところに戻った。
「あのさ、彼、ちょっとした知り合いなんだけど、一緒に見学に行ってもいいかな」
彼女が断ってくれれば楽なんだがと甘い考えを持ってみたが、返ってきたのは「どうぞ、こちらです」というあっさりした承諾だった。



その後はずっと共同研究室で愛想笑いと日本語通訳付きの説明を聞きながら一時間ほどを過ごした。
タヌキオヤジは顔さえ出さず、しかもジャーナリストはいつの間にかいなくなっていたが、編集長のコネとやらはたいした効き目で、俺は終始坊っちゃん扱いだった。
「では、本日はこれくらいで。ご質問等いつでも承りますので、ご足労ですが先ほどご案内した第一研究室までお越しいただければ担当の者がご説明いたします」
ついでに「あちらにレストルームをご用意いたしましたのでごゆっくりどうぞ」などと言われ、部屋に入った途端コーヒーまで出されて。
「……どうも」
俺は広々とした応接室の片隅で一人ポツンと取り残された。
「まあ、いいか」
これなら阿坂と一緒にいる時だってタヌキや同僚からあからさまに嫌な顔をされたりはしないだろう。
この隙にゆったりと編集長からの指示を確認しておこうと思い、メールをプリントアウトしたものを開いたが、最初の数行に目を通しただけで眠くなってしまった。
「専門用語なんて書くなよなぁ……自分だってわかんないくせに」
聞きなれない言葉の羅列というのは機能しなくなった脳には最悪で、ただ眠気を膨らませるばかり。
俺自身はしっかり睡魔と闘っていたつもりだが、いつの間にか半眠り状態だったらしく、背後にジャーナリストが忍び寄っていることにさえ気付かなかった。
「おや、ずいぶん貴重な情報を仕入れたんですね。まさか『ナイン』や『テン』についてお調べとは」
だが、その声で一気に目が覚めた。
慌てて紙面を伏せてみたが、どうせ全部読み終わってから声をかけただろうから、もはや手遅れだ。
それでも今度は自分だけに見えるように胸元でメールの全文に目を通し、見られてマズイことが書かれていないかをチェックした。
最後の一文字に辿り着くまでありえないほどドキドキしていたが、たいしたことは書かれていなかった。
『ナイン』が阿坂のオヤジが失踪前に研究していたウィルスの名であることは以前に編集長から聞いていたが、今回もその補足説明はなし。
『テン』についてもその呼称が『X−10』だということ以外は『詳細不明』というまったく役に立たない情報しかなかった。
安堵したというよりは「ったく、脅かすなよなぁ」という気持ちだったが、それを調べるのも自分の仕事の一つだということを思い出して、また少し憂鬱になる。
だが、これに反応するってことは、少なくともジャーナリストは何かを知っているわけで。
「……ってことは、『エックスの十』が何かもご存知なんですか?」
二言目には「ジャーナリストは云々」と言うくらいだから、聞かれてホイホイ答えるような性格じゃないと思っていたのだが、予想に反してすぐににこやかな返事があった。
「関係者は、『エクス・テン』と呼んでいたらしいですよ。対ナイン・ウィルス用のワクチンのようなものではないかと言われていますが定かではありません」
さらに、阿坂の父親が付番していたのは新種のウィルスだけだから、『テン』もワクチンではないとする説が有力だということ、それから、阿坂の父親の研究室では『X−10』のように番号の前に『X』がついているのは理論上でしか存在しない――つまり、実在しない物だということも得意気に教えてくれた。
「未開発のワクチンなんでしょうかね。それとも新種かどうかを調査中のウィルスなんでしょうか」
どう思いますかと聞かれたけれど。
「……さあ」
あまりにも気のない返事に「ご興味ありませんか」と苦笑されてしまった。
そうでなくても本日の俺のテンションは最低ライン。
ジャーナリストの耳にも相当どうでもいいように聞こえたんだろう。
「安心しましたよ」という言葉の後、ナインやテンについての情報が少しでも入ったら回してくれという依頼があった。
「別にいいですけど。俺が話すのって阿坂ばっかりだと思うから、あんまり期待しないでください」
その返事で「こいつはライバルではない」という判定を下したのか、ジャーナリストはさらにウィルスについての情報を漏らしてきた。
「概要だけでも分かっていれば、どれがそれに関連した情報なのかも分かりやすいでしょうから」
確かに、あまりに無知な状態では必要な情報さえ引っかかってこない。
どんなに些細な予備知識でも俺にとってはありがたかった。
だが、そんなことはおくびにも出さずに頷いてから、「仕事に関係ないとすぐに忘れてしまうので」と前置きをして概要をノートに書き込んだ。
「ライバルでない限り、協力しあうのも大事なことですよね」
できるだけ協力的な様子を装ったのも、差し出された手を握り返したのも、もちろん自分の仕事のため。
「いやあ、本当に助かりますよねえ。何せ詳細を知る人間は当時の主要メンバー四人だけで、ご子息も当時はまだ子供でしたから、名前くらいはご存じだとしても専門的な知識はないでしょうし。まあ、母君のご病気の様子とか、そんなことだけでも分かれば――」
ジャーナリストの話によれば、4人の中の一人が阿坂の父親で、もう二十年近く行方不明。
後の三人のうち、阿坂教授の一番弟子だった助手も現在は消息不明
「残る二人のうち一人は十五年ほど前に心臓だか何かの病気で死亡。そして、最後の一人にインタビューをと思っているんですが」
たいして興味なんてなかったはずなのに。
「……それって、もしかして」
その時だけはまた心臓が嫌な音で鳴った。

「ええ、こちらにいらっしゃる教授ですよ」

やっぱりそうか―――
心のどこかでそう思った。

「じゃあ、八尋さん。何か判ったら教えてください。どんなことでも構いませんから」
ジャーナリストの言葉なんてもうほとんど聞こえてはいなかった。
「ええ、わかりました」
繋がりそうで繋がらない何かが俺の意識の奥で絡まって、どうすることもできない焦燥感に変わっていくのを、ただ歯がゆい気持ちで噛み締めていた。



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