X-10
(エクス・テン)

<20>




何がこんなに引っかかるのだろう―――――

あと少しなのに、どうしてもそれに行き当たらない。
そんなもどかしさをどこかに抱えたまま阿坂を探し始めた。
勤務中のはずだから……と、ラボを片っ端から当たってみたけれど、見つけたのは助手の姿だけだった。
「阿坂がどこにいるか知らない?」
呼び止めると助手はやはり険のある目で俺を見下ろした。
「ドクターなら本日は欠勤です。用事があるなら代わりに伺いますが」
俺への態度が最悪なのは前回と同じだが、今日は一層苛ついているように見えた。
「いいよ。伝言で済むような話じゃないから。今はここの部屋に? それとも自宅?」
「存じません」
知っていたとしても俺には言いたくないんだろう。
ならば、直接阿坂の部屋に行って確かめればいいだけの話だ。
そう思いながら踵を返したが、その背中に意地の悪い笑いを含んだ声が降ってきた。
「無駄ですよ。暗証番号を変えられたようなので誰も部屋には入れません」
そう告げた口元が曖昧に歪む。
おそらく助手自身も入ることはできなかったのだろう。
だからと言ってこうやっていちいち突っかかってくるところが大人げないと思うし、非常に不愉快だったけど。
「……あ、そう」
そんな気持ちは口に出さずにクルリと背中を向け、阿坂の部屋に向かった。



ひんやりとした空気で満たされた廊下に自分の靴音だけが響く。
まるで建物全てが眠っているような静けさだった。
「阿坂、いないのか?」
インターフォンを押して呼びかけても返事はない。
勝手に入るのはさすがに非常識だろう。そのまま立ち去ることも考えたが、あの性格からして、たとえ具合が悪かったとしても部屋でじっと我慢しているかもしれないと思い始めたら、そのまま引き返すことはできなかった。
「ごめん」と呟いてから、パネルのボタンを押す。
暗証番号は自分の頭文字と生年月日なのだから間違うはずもなく、すんなりとロックは解除された。
ドアが開くまでのわずかな時間さえもどかしく感じながら隙間から中を見遣ったけれど。
そこに阿坂の姿はなかった。


開け放ったカーテンからは陽光が差している。
埃一つないデスクの上に乗っていたのは小さな緑色の粒。
「夕べ渡したキャンディー、だよな」
殺風景な部屋の中。
透き通った翳を作るそれがやけに異質なものに思えて、無意識のうちに自分のポケットにしまいこんだ。
「ったく、阿坂の奴、どこ行ったんだよ」
ぶつくさと文句を言いながら何気なく目をやったのは半開きになった寝室のドア。
その向こうには見えるベッドはきちんと整えられていたけれど、片隅には確かに人が浅く座った跡が残っていた。
「……眠らなかったってことか」
夕べ、一人で部屋に帰って。
ベッドに腰かけたまま何を考えていたんだろう。

そう思った瞬間、ホテルで座っていた阿坂の姿が薄暗い部屋と重なった。
記憶の中、俯いたまま靴のつま先を見つめる瞳。
薄っすらと傷が残る横顔がひどく痛々しかった。

「……探しに行かないと」
気持ちだけが空回りして、今の状況がうまく整理できない。
そんな自分に苛々しながら、部屋を飛び出してカフェまで走った。
「あら、ヤヒロ。おはよう。ドクターの住所を取りに来たんだね?」
もうすぐ昼という時間帯。カフェは賑やかで目が回りそうなほど忙しそうだったけれど。
「あ、うん、そう」
俺が焦っていることに気付いたのか、彼女はすぐにニコニコしながらメモを持ってきてくれた。
「バスの乗り換えがあるから、ちょっと分かりにくいんだけど」
そんなことを言いながら簡単にメモの説明をして。
それから、ほんのついでのような軽いトーンで尋ねた。
「ケンカでもしたの?」
「え……なんで?」
編集長といい、おばちゃんといい、どうしてそんなことが簡単に分かるんだろう。
俺はよほど態度に出やすい性格なんだろうなと反省しかけたけど。
「今朝ね……とても寂しそうな顔をしてたから」
それはもちろん俺のことじゃなくて。
「阿坂、ここへ来たんだ?」
問い返しながら、また焦りが湧き上がった。
「そうよ。『お礼を言いに』って」
眠れずに夜を明かして、最初にしたことがキャンディーの礼。
どんな気持ちで来たんだろう。
「本当に、いい子なのにね」
「……あ……うん」
俺の中にはまだ夕べの遣り取りが残っていて、助手とのこともやっぱり良くは思ってなかったけど。
「じゃあ、あんまり遅くならないうちに行ってくる」
「気をつけるのよ」
「うん。今度は阿坂と一緒に来るから」
笑顔で俺を送り出してくれた彼女にそう約束して、メモを握り締めたままバス停まで走った。


昼間の時間帯は乗り継ぎが悪くて、予想以上に時間がかかる。
メモにもそう書いてあったけれど。
「それにしても遅ぇ……」
金さえあればいくらかかってもタクシーを使うのに。
無性に苛立つのは、少しでも早く会いたいという気持ちがあるからなんだろう。
行ったところで阿坂がいるという保証はない。
でも、会えるような気がしていた。


窓から見える風景はのんびりと心地よく、空も真っ青だったけれど。
何もしていない状態がやけに落ち着かなくて、乗換えを済ませた後、ガランとした車内の一番後ろの席に座ってノートを広げた。
そうじゃなくても仕事は少しも進んでいない。阿坂に会ったら、せめてウィルスのことくらいは聞いておかなければ。
けれど、復習のつもりで読み返してみたノートの情報は、そのどれもが役に立たないものに思えて仕方なかった。
「専門用語がないだけマシだけど、だからって『これを元に何を聞けばいいんだよ?』って感じだよな」
ジャーナリストが阿坂の母親のことを知りたがっていたことを思い出したが、それはつまり『どうやって病気が悪化して、どんなふうに死んでいったか』を問うということに他ならない。
「……んなこと聞けるかよ」
尋ねたらどんな顔をするだろうかと、少し考えただけでひどく憂鬱になった。
そうでなくても地雷を踏みまくりなのに、これ以上印象を悪くしてどうする。
ここ数日の自分自身に呆れ果てながら溜め息をついている間に、バスは教会近くの停留所に止まった。




陽気な運転手に手を振ってバスを降りる。
見渡した風景は、人工的な街並ばかりが焼きついた目には随分と穏やかなものに映った。
雑草の生い茂った空き地と、ポツポツと点在する古い家。
そんな中、比較的背が高い建物は一つだけ。
それが阿坂の面倒を見てきた牧師のいる教会だった。
外観はかなり古めかしいが、ほどよく手入れされていて、柔らかな陽光に照らされながら佇んでいる姿はまさしく厳かだった。
「……ってことは、当然阿坂もクリスチャンだよな」
生まれたときから海外暮らしなのだから、その方が自然だろう。
だが、阿坂と宗教というのがどうもしっくりこなかった。
「第一、部屋に聖書なんてなかったような……」
書棚やデスクを思い出しながら歩いていたら、あっという間に大きな扉の前に辿り着いてしまった。
だが、いざ入ろうとすると足が止まってしまう。
「教会なんだから出入りは自由だろ。遠慮なんてする必要はないはず」
そうは思っても、昨夜の遣り取りが頭を過ぎり、「今更」という言葉が浮かんでくる。
しばらくドアの前をうろうろしていたが、さすがに怪しいことこの上ない。
気持ちを落ち着かせるために辺りを一周してから、思い切ってドアを開けようと決めて、教会の裏手に出てみることにした。
「会ったら何から話すかバスの中で考えておくべきだったな」
独り言を言いながら建物を回り込むと、やっぱりというか、そこは墓地で。
だが、墓と呼べる物はほんの数個しかなく、しかも。
「なんか、すっげー綺麗だよな」
広い敷地を囲う背の高い白塗りの柵。
青々とした芝も手入れが行き届いて、そのへんの公園なんかよりずっと心地良さそうだった。
木々の間からやわらかい陽射しがこぼれ、緑のじゅうたんにはめ込まれた明るいグレーの墓碑を照らす。
その光景に目を奪われ、吸い寄せられるように足を踏み出したら、膝に硬い物が当たった。
「……チェーン?」
まるで外部からの立ち入りを拒絶するかのように張られた鈍い銀色のそれに違和感を覚えた。
「墓地って普通は出入り自由なんじゃないのか?」
なんで鎖なんてと首を傾げていたら、不意に背後から柔らかいトーンの英語が飛んできた。
「ここから先は私有地になりますから、許可がないと入れませんよ」
穏やかに微笑んでいたのは、多分、この教会の牧師。
その視線の先を確認するために一歩後戻りすると、チェーンには確かに「私有地につき立ち入り禁止」と書かれたボードがついていた。
メッセージはもちろん英語だから、俺の脳が無意識のうちに見なかったことにしてしまったんだろう。
「すみません。人を探していて……阿坂なんですが、今日こちらへ来ていませんか?」
それでも、いきなり本人と鉢合わせするよりは何倍もマシだと思いながら言葉を選んで尋ねると、牧師は穏やかにひとつ頷いて、
「来ていますよ」
そんな言葉と共に墓地の片隅を手で指し示した。
「……え?」
揃えた指の先を辿るようにして視線を移すと、木漏れ日の中に白と黒のコントラスト。
それがうつぶせに倒れている人間のシャツとパンツだということが分かった瞬間、血の気が引いた。
「あ……阿坂っ!?」
思わずチェーンを乗り越えようとしたが、牧師の手がやんわりとそれを止めた。
「ご心配は無用です。眠っているだけですから。……大学のご関係の方ですか?」
微笑んだ口元が穏やかなトーンで問いかける。
それが不審人物に対する探りであることは疑いようもなかったけれど。
だからと言って気の利いた言葉を返せるわけでもなく。
「いえ、俺は……ただの友達で、あ……八尋と申します。研究所に行ったら、具合が悪くて休んでるって聞いて―――」
それは決して嘘ではなかったけれど。
でも、昨日あんなことを吐き捨てておきながら、平然と『友人』なんて言える自分の図々しさには心底呆れた。
「それで、あの……起きてからでいいんですが、阿坂と少し話をさせてもらえませんか?」
夕方に出直してきますから、と告げたけれど。
牧師はただ穏やかに微笑んだだけ。
それについては良いとも駄目とも言わなかった。
「ご友人でしたか。これは失礼いたしました。お若いのであるいは学生かと」
心地よく耳に響く声を翻訳しながらも、青々とした芝生の上に横たわっている阿坂から目を離せずにいた。
「八尋さん、失礼ですがおいくつですか?」
それはいったい何の判断材料になるんだろう。
そんなことも頭の片隅で思ったけれど。
「阿坂と同い年で、23才です」
落ち着き払った態度のせいで必要以上に大人びて見える阿坂とは違い、俺は精神的に自立してないのが顔に出ているから、牧師もその言葉は信じていなかったと思う。
でも、「そうですか」という返事の後。
「少し風が出てきたようですから、起こしてやってください」
そんな言葉とともにチェーンを外してくれた。


礼を言ってから、木陰に向かって歩いていく。
目の前は一面の緑。
それから、点在するグレーの石。
あとは、阿坂の真っ白なシャツに反射する光と風にそよぐ長い前髪。
遠景の中、やけにくっきりと浮かび上がるその姿に目を奪われて、途中で何回も躓いてしまったけれど。
「いってー……」
思わず声を上げても、俺の存在に気付くことさえなく。
そして、ほんの少しも動くことなく。
阿坂は眠っていた。

墓石に刻まれた文字を辿るように。
碑銘に乗せられた指と頬。
遠目には、まるでそこに口づけているように見えて。
また、ズキンと胸が痛んだ。

「阿坂……――――」

あと二歩でそこに届く自分の脚。
見下ろした横顔は聖書を枕に、ほんの少しだけ微笑んでいた。
やけに綺麗で、なのに、なんだかとても悲しい光景に思えて。
だから。
どう声をかけたらいいのか分からなくなった。



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