X-10
(エクス・テン)

<21>




しばらくの間、立ち尽くして。
なんだかやるせない気持ちで溜め息をついた。
気を紛らわすために周囲を見回してみたが、いつの間にか牧師の姿も消えていて、目に入るのはグレーの石ばかり。
おかげで世界に二人きりで取り残されたような気分になった。
「ってか、俺が怪しい奴だったらどうすんだよ」
あの短い会話の間に俺を人畜無害と判断したんだろうけど。
だとしても少々無用心に思えた。
「……まあ、いいか」

鳥の声。
風が吹くたびにキラキラと翻る緑。
青空から降るやわらかな光。
あの研究所と比べたら別世界のように暖かくて、穏やかで。

「確かに気持ちいいよな」
暑くも寒くもなく、昼寝にも快適。
そうは思うものの、なんと言ってもここは墓地。
このまま寝かせておくのはさすがに気が引けた。
「……阿坂、風邪引くって」
小声で呼びかけてみたが、目を覚ます気配はない。
「あーさか。俺の声、聞こえてるか?」
夕べ一睡もしてないならそれも当然だ。
静かに呼吸だけを繰り返す。
その横顔にいつもの殻はなくて、微笑むようにゆるく開かれた唇からは、もう少し近寄れば寝息が聞こえてきそうだった。
肌理まで確認できるほど無遠慮に見つめながら、サラサラと零れ落ちる前髪をそっと払う。
頬に触れた指先に柔らかな温度が伝わってきたその時、気持ちの奥が静かに痛んだ。
眠っているせいかいつもより少し幼く見える。
多分、それが本当の阿坂なんだろう。
普段は誰にも見せないだけで、笑いたい時も泣きたい時も、悔しい時だって、怒りたい時だって当たり前のようにあって。
なのに、全部どこかに押し込んだまま毎日を過ごしてるんだろう、って。
そんな気がしてならなかった。
「なんで我慢とかするかな……」
もっと傲慢な奴だったら、さっさと取材を済ませて日本に帰ったかもしれないのに。
「おまえって、人を心配させる性格なんだよな」
羽織っていたシャツをそっと掛けてから、隣りに腰を下した。
「……ま、思ったより具合悪そうじゃなくてよかったけど」
少しだけホッとしながら穏やかな寝顔に目を遣って。
ふと、どんな夢を見ているんだろう、なんてことを考えてみる。
「人が寝てんの見るとこっちまで眠くなるよな」
あくび交じりに吸い込んだ空気は緑と土の匂い。
あまりに心地よくて、仕事のことはもうすっかり忘れそうになっていた。
「……っていうか、おまえがベッタリ張り付いてるコレ、誰の墓なんだよ?」
てっきり母親のものだとばかり思っていたのに。
刻まれた文字を辿るように乗せられた阿坂の指先には『KAZUHITO K』の文字。
その後は隠れてしまっていて読めなかったけれど。

―――少なくとも家族ではないってことか……

墓の主が誰であっても俺には関係ないこと。
頭ではそう思っているはずなのに、気がついたら阿坂の手を持ち上げて続きを確かめていた。

墓碑に刻まれていた名前は『キリュウ カズヒト』。
亡くなってから、もう15年が経っていた。
「知り合いだったとしても、当時の阿坂はまだ7つか8つ……―――」
そう思った瞬間。
心のどこかに何かが突き刺さった。
「……それって――――」
無意識で発した独り言。
だが、声が思っていたよりも大きくて、同時に握っていた阿坂の指がピクンと動いた。
慌てて手を離そうとした時にはもう手遅れで、瞳がゆっくりと開き始めていた。
「……八……尋……?」
まだ焦点の合わない目で俺を見上げながら名前を呼ぶ。
その瞬間、先ほどとは違った動揺が体を走り抜けるのを感じた。
「……あ……うん。おはよ、阿坂」
呆れるほど間抜けな挨拶を返しながらも、なんとか笑ってみたけれど。
阿坂は多分驚いていたんだろう。
完全には目覚めていないような曖昧な表情とは裏腹に、握られていた手がわずかに硬直していた。
「そんなに驚くなよ。体調崩して休んでるって聞いたから、ちょっと様子を見に来ただけだし」
学校を休んだ友達を見舞うような懐かしい感覚だなと、そんなことを考えている間も掌に伝わってくるのは心地よい甘さ。
どうしてもそれを放すことができなくて、阿坂が何も言わないのをいいことに堂々とその状態をキープしてしまった。
「んで、具合は大丈夫なのか?」
その問いに阿坂は目線でかすかに頷いたけれど。
起き上がることはできなかったらしく、ふっと呼吸を吐き出してから、少しつらそうに瞼を伏せた。
「もう少し寝てろよ。無理しなくていいから」
話しかけても、指で髪を梳いても、動かすのは瞳だけ。
何か言いたそうで、でも、何も言わないのもいつものこと。
「あと、夕べのことも謝ろうと思って」
こんな状態の阿坂はよほどのことがない限り言葉なんて返してこないけど。
少しでも返事を待つ素振りなんて見せたら、また無理をして声を出そうとするのは分かってたから、一人で勝手に話し続けた。
「本当はあんな言い方するつもりじゃなくて……なんていうか―――」
そして、その間も思うのはやっぱりこいつのことばかり。
助手に婚約者なんていなくて、阿坂のことだけを見てくれるのなら、阿坂だって変な負い目を持たずに好きでいられるのに。
きっと、もっと楽しくて、笑ったり、はしゃいだりしながら、過ごしていけるのに。
そんな、俺が考えてもどうしようもないことばかりが頭の中を巡っていった。
「助手が駄目っていうんじゃなくて……彼女なんていない相手だったら、誰にも気兼ねしなくていいし、街で誰かにバッタリ会ったとしても逃げたり隠れたりしないでいられるし、それに、たとえばケンカになった時だってお互い思いっきり言い合えて―――」

もしも、助手に彼女なんていなかったら。
俺は祝福してやったんだろうか。
あるいは、阿坂が助手のことを好きで好きで仕方なくて。
どうしても傍にいたいと言ったのなら――――

「……だからさ、阿坂もそういう相手を見つけたらいいんじゃないかって思うんだ」
自分には彼女さえいないくせに。
恋愛のアドバイスなんてできる身分かよ、と心の中で突っ込みながら。
それでも何かしゃべらずにはいられない。
「それと……できれば俺には思ったことを全部言ってくれると嬉しいんだけど。部外者だし、わかんないことだらけであんまり役には立たないだろうけど」
昨日一番堪えたのは、投げつけられた言葉を全部飲み込んで背中を向けた阿坂の後ろ姿。
少しでも言い返してくれたら、これほど気にはならなかったのかもしれない。
「もちろん無理にとは言わないけど、でも―――」
整理しきれていない感情をむやみに羅列する間も、阿坂はやっぱり黙って聞いていた。
木漏れ日に時折り瞬きをするだけで、風が吹くたびに目にかかる髪を払うこともなく。

けれど、片手はずっとこちらに預けたまま。
ただ静かに、そして真っ直ぐに俺を見上げていた。



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