ようやく阿坂が口を開いた時、どれくらいの時間が経過していたのかわからないけど。
「……八尋が、謝るようなことじゃない」
珍しく困ったような顔でそんな返事をした。
「うん。でも、なんかさ」
いろいろ心配で、とか。どうしても気になって、とか。
そういう言葉は思わせぶりだろうかと考えている間に、
「八尋、体温が高いんだな」
阿坂はただそれだけ呟いて。
握られていた手をそっと引いていった。
その後も、ここの住所を誰に教えてもらったのかとか、なんで自分がここにいると分かったのかとか、そういうことは何にも聞かなかったし、迷惑そうな様子でもない代わりに嬉しそうな顔もしなかった。
なんというか、いつもとまったく同じで。
だから、俺は軽く落胆していたんだと思う。
そのせいで少しぼんやりしていることに自分でも気付いていた。
「八尋……聞こえているか?」
阿坂から確認が入った時も話はまったく頭に残っていなかった。
「え? ああ、うん」
適当な返事をして、少々慌てながら阿坂の視線の方向に振り返ったら牧師が立っていた。
どうやら「お茶が入ったので、よかったらどうぞ」と言っていたらしい。
「ってか、牧師って今仕事中じゃないのか?」
「昔と違って近隣住人が少ないから忙しいことなんて滅多にない」
答えながら起き上がろうとした阿坂が少しフラついて。
俺の腕は条件反射のようにその体を抱き留めていた。
その時、また。
広い世界の中に二人で残されたような錯覚に陥りながら。
ふと視線を落として、阿坂の座っている場所だけ芝生が少し薄くなっていることに気付いた。
「いつもここで寝てるのか?」
そんな問いかけにわずかに顔を曇らせて、預けていた体をほんの少しだけ離した。
「どうしても眠れない時は」
耳元で響く声。
前髪のせいで表情までは見えなかったけれど。
指はまた刻まれた名前の上にそっと置かれていた。
本当はもう少しこのままでいたかったけれど、背後から飛んでくる牧師の視線が気になって、
「んじゃ、行くか」
わざと大き目の声でそう告げた。
頷くこともないまま阿坂はそっと俺の体を押し戻すと先に立ち上がって聖書を拾い上げた。
「阿坂って聖書読んだりするのか」
わざわざ持ってきているのだから、それ以外の用途はないだろう。
そう思っていたけれど。
「いや、これは霧生に―――」
そう告げた阿坂の瞳が見つめた先は、木漏れ日の中で揺れる名前。
助手を『エディ』と呼ぶ時とは違う。
穏やかで愛しげな響きが耳に残って。
どれほど大切な相手なんだろうと思ったら、胸が締め付けられた。
「あのさ……この墓の主って、おまえとどういう関係?」
聞いたからといって所詮俺には関係のないことなのに。
馬鹿だよな、と思いながら。
どうして聞かずにいられないのだろう。
風が止んで、音が途切れる。
俯いたまま返事をしない阿坂の横。
俺はただぼんやりと立ち尽くした。
―――返事はなし、か……
軽い失望を噛み締めた時。
「その話は、中で」
牧師が待っているから、と。
いつもと変わりない落ち着いた声が耳に届いて。
「……あ、うん」
ホッとしたような、なのにどこかに不安が残っているような複雑な気持ちのまま、歩き出した阿坂の後をついていった。
「へえ、ここが阿坂んちなのか。てっきり教会に住んでるのかと思ってたよ」
父親の持ち物だという家は教会の裏手、墓地を挟んだ場所にあって、阿坂が研究所に入り浸りなのにもかかわらず、隅々まできちんと整えられていた。
「手入れと言っても簡単に掃除をするだけですが、今でも時々こうして戻ってきますので……ああ、そういえば、友人をお招きするのは初めてかもしれませんね。八尋さん、砂糖は?」
「あ、いえ―――」
玄関も廊下も客間も確かに綺麗だったけれど、生活に必要な物が置いてあるだけで「家庭」という印象は少しもない。
犬の首輪がある分だけ研究所の部屋の方がマシな気がした。
「なーんか、殺風景だよな。写真とか飾ってみれば?」
外国の家庭といえば家族や友人の写真だろうと映画のワンシーンを思い出しながら何気なく提案してみたけれど。
どうやら阿坂にはそういう発想がなかったようで。
「何の?」
まるっきり何を言われているのか判らない様子で聞き返されてしまった。
「何のって……家族とか、さっきの墓の主とか」
それだってなんとなく答えただけなのに。
牧師がふっと目を逸らせるのを見て、俺はまたしても地雷を踏んだことに気付いた。
でも、阿坂だけは別に気にした様子もなくて。
「霧生のこと、だったよな」
紅茶のカップを置くと淡々と話し始めた。
それによれば、墓の主―――霧生和仁(きりゅう・かずひと)は、タヌキ教授と阿坂の父親の大学の後輩。
その関係で母親の死後しばらくの間阿坂の面倒を見ていたらしいが、持病のせいで若くして亡くなったという。
当時は阿坂も母親と同じ病気を患っている可能性があると言われて研究所付属の医療施設に隔離されており、その頃の記憶といえば、そいつのことしかないのだと話してくれた。
「それって、どれくらいの間?」
「母親が死んだ後、感染していないと正式に判定されるまでの2年間だ」
「そんなにかかるのかよ?」
俺は驚いていたんだけど、阿坂はそれでも短い方だと思っているらしくて。
「伝染性があった場合、いろいろと厄介だからな」
「……ふうん」
とにかく白判定が出るまでの間は人と接触することさえ禁じられていて、自分から手を伸ばして触れることができたのはその霧生という男だけだったらしい。
「じゃあ、そいつも同じ病気だったってことか?」
絶対にそうだろうと思っていたのに。
墓の主は別の病気で余命一年と宣告され、最後くらいは好きなことをしたいからと言って自ら志願して阿坂の元に来ただけだと説明された。
それにしても。
「どうせ死ぬんだからいいやってことでおまえの世話係になったわけ? なんか酷い話じゃないか?」
もちろんその他にも事情はあったのだろうけど、今となっては知る術もない。
とにかくその後は隔離された状態で二人きりの生活。
まだ小さかった阿坂にとってそいつがどれほど大切な存在だったかは推し量るまでもない。
亡くした時の気持ちなんて俺には想像もできないけれど。
「一緒にいたのって二年だけなのか」
墓に刻まれた没年がはっきりと脳裏に焼きついていて、なんだか酷く悲しい気分にさせられた。
「そうだ」
何を聞いても普段と同じ。
まるでもうすっかり過去になったことだからと言うように淡々と答えるけど。
阿坂が一番安心して眠れる場所は、今でもそいつの元。
「……そっか」
大変だったんだな、とか。
残念だったな、とか。
そんな言葉でくくれるはずもなくて。
俺はただぼんやりとテーブルを眺めていた。
沈黙と。
無意味に過ぎていく時間。
それから、手の中で冷めていくティーカップ。
阿坂があいつの名前を呼んだ時、こみ上げた感情に押されて墓の主との関係を尋ねた。
ただそれだけのことといえば確かにそうなんだろうけど。
今は少し後悔していた。
「……悪い。自分で聞いたくせに、何にも言えなくて」
何分も経って、ようやくそれだけを吐き出した時。
阿坂はやっぱり温度のない顔で「別に」と呟いただけだった。
重苦しい気持ちになりかけた時、牧師が俺にお茶のおかわりを持ってくるからポットを運ぶのを手伝って欲しいと声をかけてきた。
客にさせるようなことじゃないからと言って阿坂も一緒に立ち上がったけれど。
その瞬間にまた少しふらついて、大人しく座ってるようにと言い渡された。
「すみません。なんか気を遣わせてしまって……」
キッチンに入ってから謝ってみたけれど、牧師は穏やかに微笑んだだけだった。
「私はもう教会に戻りますが、どうぞ自由に使ってください」
食器の場所とかガスの使い方とか、そんなことを一通り説明した後、牧師は紅茶を入れたポットをトレーに乗せて俺に渡した。
「八尋さん、お差し支えなかったら今夜は泊まっていってください。彼もきっと喜ぶと思いますから」
急な誘いに少々面食らって、ついでに、阿坂が喜ぶわけないだろうと心の中で突っ込みつつも、
「ありがとうございます。じゃあ、遠慮なく」
そう答えたのは多分もう少し一緒にいたかったからなんだろう。
こんなことならホテルを引き払ってくればよかったと思いながら時計を見たが、もう夕方近くになっていた。
「それではごゆっくり」
笑顔と共に去っていく牧師にペコリと頭を下げて後ろ姿を見送った。
「悪い、遅くなって」
ドアを開けながら声をかけたけれど。
「阿坂?」
やっぱり、というか。
阿坂はまたしてもすっかり寝入っていた。
昨日は一睡もしてないはずだから無理もないが、それにしても。
「……よく寝るよなぁ」
やわらかい夕暮れ間近の陽光が差し込む窓辺。
聖書を持ったままソファにもたれて。
俺が戻ってきたことにも気付かずに寝息を立てていた。
光のせいなのか顔色も随分まともに見えて安堵しながらも、気持ちのどこかが波を立てる。
ゆるく開きかけた唇に手を伸ばすと指先からやわらかな温度が伝わって、体の中に熱が溜まるのを感じた。
「……阿坂―――」
無意識だったと思う。
いつの間にかソファの背に手をついて、眠っている阿坂を見つめたまま、そっと顔を寄せた。
近づけた鼻先にふわりと体温を感じて。
あと少しで唇が触れるという時―――
突然、バサッという音がして我に返った。
体中に心音が響き渡るほど焦りまくったが、阿坂の膝に置かれていた聖書が俺の靴の上に落下しただけだと分かり、ホッとすると同時に汗が流れた。
―――何やってんだ、俺……
阿坂がまだ眠っていることを確認してから、熱を吐き出すようにフッと息を抜く。
心臓はまだ高鳴ったままだったけれど、平静を装って足元の聖書に手を伸ばした
その時。
「あれ……?」
ページの間に挟まっているものに気付いた。
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