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 「……これって」
 差し出し人は霧生和仁。
 もちろん阿坂宛だ。
 内容は箇条書きの短文が並んでいるだけで手紙という感じではなかったけど。
 「子犬を飼う、小学校入学、友達ができる……? なんだ、これ―――」
 数枚に渡って書き出されていたのは、多分、まだ小さかった阿坂がこれから経験していくであろうたくさんのこと。
 最初のデート、ファーストキス、生涯のパートナーと出会う。
 そんな事柄に交じって、「友達とピクニックに行く」なんて可愛らしいものまで並べられていた。
 箇条書きにされた文章の先頭には日付を入れる空欄があって、叶った日を入れていくのだろうということもすぐにわかった。
 
 最初に埋められていたのは子犬をもらってきた日。
 7歳の阿坂の文字は小さな欄に収まり切れていない子供らしい筆跡で、本当ならもっと微笑ましく映ってもよかったはずなのに。
 「……こんなにあるのに、叶ったのって二つだけなのかよ?」
 最初だけ埋まっていたなら、後は面倒になって書き込まなかったのだろうと思ったかもしれない。
 でも、二つ目の日付は便箋の最後の方にあった大学入学の欄。
 そこにはもうすっかり大人びた文字が並んでいた。
 それだって何年か振りにたまたま手紙を見つけて、懐かしさのあまりに書いてみただけなのかもしれないと思わないわけじゃないけど。
 『できることなら、八尋のように育ちたかった』
 いつだったか、阿坂はそう言っていた。
 あの時は馬鹿にされてるのかもしれないと思ったけど。
 「……あれって、そのまんまの意味だったのかよ」
 父親は有名な学者で、その血を受け継いだ阿坂は世間ではどこでも天才扱いで。
 凡人がどんなに努力しても持ち得ないものを易々と掴んだ人間の手には、もっと傲慢な幸せがあるのだろうと思っていた。
 なのに。
 
 すり切れた折り目にはテープが貼られていて、それさえ時間の経過に変色していた。
 所々に滲んだ文字。
 墓の前で眠り込んで雨にでも当たったのか、それとも―――
 
 
 歪んだ視界が零れ落ちた時、俺の頬に触れたものがあった。
 「八尋、どうしたんだ?」
 冷たいような、温かいような、不思議な温度で。
 阿坂の指先が頬を伝う涙を拭う。
 「ごめ……勝手に見た」
 俺の手の中でカサリと乾いた音を立てた紙を阿坂は何も言わずに受け取った。それから、二つに折って聖書に挟むと、「何かあったのか」とまた少し心配そうな顔で問い直した。
 「……別に……何でもないよ」
 どうやら本気で涙の理由がわかっていない様子に少しだけ安堵して。
 一方で、遠い過去に死んだ男のことを思った。
 
 こいつはきっと分かっていたんだろう。
 この先の阿坂がどんな生活をしていくのかを。
 それから。
 自分は側にいてやれないってことも。
 
 その時、少しでも希望になれば…―――
 並んだ文字にそんな思いが見えるような気がした。
 
 どんな気持ちでこれを書いたのだろう。
 どれほど阿坂を大切にしていたのだろう。
 いくら考えても俺に分かるはずなどないのに。
 それでも―――
 
 「……墓の主ってさ、優しいヤツだったんだな」
 
 そう告げた時、阿坂の瞳がふっと窓の外に視線を投げた。
 まるで誰かがそこに立っているかのように、かすかに微笑む横顔を見ながら。
 傍らに突っ立ったまま、俺はグレーの墓石に妙な敗北感を抱いた。
 
 
 
 その後は二人して無言のまま、窓の外が夕暮れの風景に変わるのを見ていたけど。
 沈黙に飽きて会話を探し始めた時、阿坂が不意に口を開いた。
 「立ってないで座れよ」
 「え……ああ、うん」
 曖昧な返事をしていると、阿坂が自分のすぐ隣に投げ出されていた聖書を自分の膝の上に置き直した。
 片付けられた場所に遠慮なく座ると、阿坂との間は今にも腕が触れそうなくらいの距離しかなくて。
 ちょっと横を向くと目の前に顔があるんだろうな……と、少し不謹慎な考えが過ぎった時、またあの手紙の文面を思い出した。
 「あのさ、阿坂……今度一緒に出かけないか?」
 土曜でも日曜でもいいんだけど、と付け足したら、阿坂は少し怪訝そうな目をしたけど、それでも今週の予定を教えてくれた。
 「土日は多分会議が入る。明日なら昼以降は個人の研究時間に充てられているから、少しくらいなら出かけることも可能だと思う」
 その後、真面目な顔で「どこへ行くつもりだ」と聞き返されて俺は言葉に詰まった。
 「えっと……ピクニック」
 もちろん阿坂は露骨に「え?」という表情を浮かべて。
 ついでに、その後何分待ってもそれについてのコメントは返ってこなかった。
 「あのさ、ダメならダメって言ってくれれば……」
 俺だって無理にとは言わないよ、と半分愚痴のような口調で投げかけてみたが、阿坂はもはや俺の言葉なんて聞いてはいない様子で。
 しかも、視線はなぜか俺のパンツのポケット部分に注がれていた。
 擦り切れて穴でも開いているのかと思ったが、そこにあったのは小さな、でも不自然な出っ張り。
 なんだろうと思って手を突っ込んでみたら、覚えのあるカサッとした感触。
 「あー……これか」
 何のことはない、阿坂の部屋から無断で持ってきたキャンディーだった。
 「な、ちょっと手出して」
 小さな包みを握ったままポケットから手を出し、グーの状態で阿坂の胸元に差し出す。
 阿坂は少し不思議そうな顔をしていたけど、中味が何なのかを問うことなく言われた通りに片手を広げた。
 「今朝、部屋に入ったんだ。そんで、勝手に持ってきた」
 ごめんと謝った後、手の上に置かれた緑色のキャンディーを見て、阿坂は何故かほんの少し口元を緩めた。
 「……ここって笑う場面か?」
 微笑の理由くらいは教えてくれるんじゃないかと期待していたら、ゆっくりと視線が向けられて。
 それから。
 「八尋、体温が高いんだよな」
 また不意にそんなことを言われた。
 「え?」
 阿坂の手の中。
 キャンディーは少し溶けかけていて。
 透明の袋にペタッと貼り付いているのが分かった。
 「……悪い。ずっとポケットに入れてたから。それと……俺、今日はいつもよりあったかいかもしれない」
 実際、今も身体には変な熱があって、時折フッと吐き出しておかないとどんどん何かが溜まっていくような気がするほどだ。
 もちろん阿坂がそんなことに気付くはずもなく、おもむろに透明ビニールを破くと鮮やかな緑色の粒を口に含んだ。
 開いた唇。そこから覗く舌が指先を舐める。
 そんな所作がやけに気になってしかたない。
 本当は無邪気な気分なんてカケラも残っていなかったけど、気を紛らわせるためにあえて暢気な質問をした。
 「それ、何味?」
 まったくもってどうでもいいこと。
 けど、阿坂はやっぱり真面目な顔で答えを返した。
 「キウィ」
 「え? キャンディーなのにキウィ味? 確かに緑色だけど……でも、普通はメロンとかマスカットとか青りんごとか、そういうヤツじゃないのか?」
 「少なくともメロンやマスカットではないと思う」
 なんと言うか。
 いい大人が論じるようなことでもないんだけど。
 でも、ひどく真剣な顔でそんな話をする阿坂がなんだかやけに可愛く思えて、多分その辺りから俺の中で何かが外れてしまったんだろう。
 「けど、キウィはないだろーよ?」
 少なくとも日本ではそんなキャンディーは見たことないと力説しながら、阿坂の口元に顔を近づけた。
 「ってか、匂いも微妙だな。けど、確かにメロンやマスカットじゃないような……」
 クンクンと鼻を動かしながらも気になるのは目の前にある阿坂の唇。
 これってちょっとヤバイんじゃないのか、と自問自答している最中に、問題のそれが緩く開いて、舌先に乗せられたグリーンの粒が目の前に現れた。
 
 フッと香る、やけに甘い空気。
 それと同時に初めて自分と阿坂の唇の間の距離が10センチもないことに気付いた。
 
 「……阿坂、あのさ」
 この至近距離でも阿坂は真っ直ぐに俺の顔を見ていて、それも大概どうなんだろうって感じだったが。
 それ以上に。
 「……ちょっとだけ舐めてみてもいいか?」
 普通なら速攻で罵倒されそうな申し出にも阿坂は少しも慌てることなく頷いた。
 あまりにも互いの気持ちの温度の差を感じさせる反応に、俺の中で何かがプツッと切れた。
 
 ―――俺が言ってる意味、ちゃんとわかってるのかよ?
 
 思った時点で確認しておく余裕があれば、もうちょっと何かが違っていたのかもしれない。
 けど、俺はもう自分の言動に対してでさえまともな処理ができなくなっていたらしい。
 「じゃあ、遠慮なく」
 たったそれだけの前置きで。
 その次の瞬間には思いきり普通にキスしていた。
 
 重ねられた唇。
 俺は心臓の音が外まで聞こえそうなくらいバクバクしていたのに、やっぱり阿坂は涼しい顔で、戸惑いなんて少しもないように見えた。
 普段と同じように無表情気味の瞳を向けたまま、本当にどうってことない様子で俺の口の中にキャンディーを押し込むと、
 「キウィだと思わないか?」
 真面目な口調でそう尋ねた。
 
 口の中に甘さが広がるより先に味わったのは軽い失望。
 「……あー……うん、っていうか、キウィってこういう味か?」
 阿坂にとって俺は何なんだろう。
 というか、この扱いってどういう位置づけなんだろう。
 なんで俺はこんなことにこだわっているんだろう。
 全てがぐちゃぐちゃで、整理できない自分に苛立ちが募っていく。
 「あのさ、阿坂……こういう時って普通は他のこと言わないか?」
 「たとえば?」
 「たとえば、っていうか……この状況に対して何か疑問に思ったこととか」
 阿坂はしばらくの間考え込んでいたけど。
 突然、俺の予想の範疇を軽く超えた質問をしてきた。
 「八尋、血液型は?」
 今までそれほど強く思ったことはなかったんだけど。
 「……は?」
 阿坂はやっぱりどこかがズレている。
 「血液は……A型だけど。それって今の話と何の繋がりが……」
 というか。
 ぜんぜん繋がってないのは明らかだ。
 もうちょっと追求しておくべきなのか少し迷ったが、説明されたところで俺には理解できないような気がしたので、あえて触れずに通り過ぎた。
 「えーと……じゃあ、話を戻すけど。よく考えたら、俺、あんまりキウィ食ったことなくて。だから―――」
 それが正解なのかわからないよ、と言葉を足してから、真面目な顔でこっちを見ている阿坂の頬に手をかけた。
 「明日、カフェのおばちゃんにでも聞いてみるよ。阿坂、ちょっと口開けて」
 そう言ってから、もう一度ゆるく唇を合わせた。
 中途半端なフルーツ味と、柔らかい感触。
 眩暈さえ感じてしまいそうな甘い空気の中、阿坂はその行為を避けるでも拒むでもなく、やっぱり普通に口移しのキャンディーを受け取った。
 本当になんとも思っていないのか、あるいはわざと平静を装っているのか。
 もともと全てが顔に出にくい性格だから、確かな判断はできそうにないけど。
 この様子じゃ本当になんとも思ってないんだろうな、と勝手に決めかけたのに。
 「八尋、牧師の前では言動に気をつけろよ」
 「え?」
 「迂闊なことをすると、軽く一時間は説教される」
 どうやら全てを承知した上で無反応を決め込んでいるらしいってことを悟らされて。
 「阿坂、あのさ―――」
 思わずこの状況にピリオドを打つようなことを言ってしまったのだ。
 「……俺、もしかしたらおまえのこと―――」
 けど。
 勢いだけで吐き出された言葉はすぐに遮られてしまった。
 「八尋」
 「え……あ、何?」
 俺の顔なんて少しも見ないまま。
 「早く日本に帰った方がいい」
 阿坂が告げたのはそんな言葉だった。
 
 
 
 
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