X-10
(エクス・テン)

<24>




その後はさすがに不用意なことを口にできず、軽い世間話だけで時間を潰した。
牧師も交えて早めの夕食を済ませた後、阿坂に案内されてゲストルームに入ったが、そこでも「明日、牧師がホテルまで送っていくから」という素っ気ない言葉があっただけ。
「おまえは?」
「エディが迎えに来る」
「……あ、そう」
もう苛立つ気力さえなく、「おやすみ」と告げた後、廊下に阿坂を残してドアを閉めた。


耳に響いたのはバタンという少し乱暴な音。
「そっと閉めたつもりだったのにな」と誰にも聞こえない言い訳をしながら、靴を脱ぎ散らかすとだだっ広いベッドに突っ伏した。
夕べよく眠れなかったせいで、頬にシーツが当たった瞬間に疲労感が押し寄せてきたが、ダルいのはそのせいばかりではないんだろう。
「……好きかもしれないって思った瞬間に振られるのって、どうなんだよ」
夕食の時も阿坂は何もなかったかのように振舞ってくれたけど。
やっぱりどこか気分は重くて、ふうっと息を吐き出すとベッドに身体が沈み込んでいくような気がした。
「なんだかなぁ……」
我ながらバカだと思った。
今にして思えば編集長はとっくに気付いていたんだろう。
「けど、相手は男なんだから、そういう方向には考えないのが普通だよな」
今更どんな解釈をしたところで事実は変わらない。
現に俺の頭の中はまだ阿坂の唇や舌の感触に占領されていて、自分に対して言い訳できる状態ではなかった。
「仕事で来てるはずなのに何やってんだよ―――」
こんな問いかけももう何度目だろう。
ひっくりかえったまま深い溜め息をついて、このまま寝てしまおうかと思ったが。
その時、不意にコンコンという軽いノックが聞こえた。
「あ……後で枕と毛布をお持ちしますとか言ってたな」
牧師の穏やかな口調を思い出しつつ、そっとドアを開けたが。
「持っていくように言われた」
そこに立っていたのは阿坂だった。
「サンキュ」
阿坂はまったく子供の使い状態で、必要最低限の言葉しか口にしなかったが、気まずそうな様子は少しもなかった。
「あー……そうだ、寝るには早いし、中でちょっと話さないか?」
この期に及んで誘おうとする俺って、相当鬱陶しいんじゃないだろうか……なんて心配もしてみたが、阿坂はさっさと部屋に入ってきて、ごく当たり前のようにベッドに腰を下した。
座る所といえばデスクの前に椅子が一つだけという部屋だから、それも当然だとは思うが、夕方あっさりと俺を振ったことなんて覚えていないかのような態度が不思議でならなかった。
「阿坂ってさ、本当に何を考えてるのかわからないよな」
そんな愚痴をこぼしながら、突っかけていた靴を脱いでベッドに上がって。
そのまま一番端まで進んでから壁に寄りかかった。
「背中に向かって話しかけるのも何だから、おまえも靴脱いでベッドに上がれよ」
二人で並んで壁際に寄りかかりながら話すっていうのも少々変かもしれないと思ったのは、阿坂が隣に座った後だったけど。
そんなことより。
「八尋」
「んー?」
「一日何の仕事もしてないだろう?」
いきなり痛い所を突かれて、むせかえりそうになってしまった。
「あー、うん……でも、今日は仕事で来てるわけじゃないから、それはまた今度」
「大丈夫なのか?」
「……多分」
というか、阿坂を日本に連れて帰れたら、それが一番いいんだけど。
今日の自分の言動を振り返るとあまりに怪しいヤツっぽくて、さすがにそれを言う勇気はなかった。
「な、阿坂って転職しようって思ったことはないのか?」
ならば遠回しの打診を……と思って何気なく尋ねたけど。
これが実は重いテーマだったということには後から気付いた。
「したくてもできないからな」
阿坂の返事はいつもと同じで何の感情も含んではいなかったけど。
「なんで?」
「保護者がいないところでは働けない」
「へ? もう成人してるのに保護者ってどういうことなんだ?」
その問いの後だけ、妙な間があって。
次に告げられた言葉に愕然とした。
「精神障害という位置付けだ。病院の担当医からはそう言い渡されている」
それだって普段と変わらない口調と表情だった。
けど。
思い出したのは、最初に二人で食事をしたあの日のこと。
突然、阿坂の声が出なくなったのは、今と同じ質問を投げかけた時だった。

―――思い出すのが遅いんだよ……

今更自分の記憶力の悪さを嘆いても仕方ないけど。
「あ……けどさ、病院の診断が全てってわけじゃないんだろ? タヌキオヤジは何て言ってるんだよ?」
一瞬でも「相談してみたらいいんじゃないか」と思った俺は相当馬鹿だったかもしれない。
「別に何も。所詮は他人事だからな」
タヌキは俺の印象どおりの人間らしく、阿坂も当てにはしていないんだってことが分かった。
それどころか二人の間柄は普通より険悪なんだろう。
言葉の端々にそれを感じた。
「そっか……」
父親とか親戚とか。
まともな身内がいたら、もう少し何かしてくれたのかもしれない。
良い医者を探すとか、給料なんてもらわなくても生活していかれるだけの環境を用意してやるとか。
阿坂が少しでも嫌な思いをしなくて済むように。
「な、病院を変えてみたらどうだ?」
「あまりあちこち調べられたくない」
「……そっか。だったら―――」
言いながら、少しでも役に立ちそうな情報はないかと記憶の中を漁ってみたけど。
結局、俺の頭では良い解決策はみつけられなかった。
だったら、せめて……そんな気持ちで。
「父親に会いたくないか? 失踪してるだけで死んだわけじゃないんだろう?」
まだ可能性があるなら、自由になる時間で手がかりくらいは探してやれるかもしれない。
そう思ったけど。

「―――死んでいたらいいのに……と、思うことはあるけどな」

阿坂から返ってきたのはそんな答えだった。
でも。
言葉とは裏腹に、それは冷たい口調ではなくて。
むしろ苦しそうで、寂しそうで。
だからこそ聞き返さずにいられなかった。
「それって、どういう――――」
けれど。
阿坂はその話もたった一言で終わらせてしまった。
「失言だったな。忘れてくれ」

天才科学者と言われる父親の名前が重いのか。
それとも、他に理由があるのか。
それさえ問えるような空気じゃなくて。

「うん……まあ、それはおまえと父親のことだから……」
そんな言葉で流すことしかできなかった。


その後は、また沈黙。
もう慣れたと思っていたのに。
今はそれがやけに重く感じた。

自分のつま先を見つめたまま何分も過ごして。
それから、ようやく無理に探した話題をわざとらしいほど明るく切り出そうとしたけど。
口を開いたその時、肩にコツンと何かが当たった。
「……阿坂?」
そろっと首を動かすと、阿坂の髪が頬をくすぐった。
「もしかして寝たのか?」
声をかけても答えはなく、代わりに聞こえてくるのはかすかな寝息。
「不眠とか言って、俺には所構わず寝てるようにしか見えないんだけどな」
手当ての途中で寝て、墓石の前で寝て、話してる途中で寝て。
少なくとも俺はまだ眠れずに困っている阿坂を見たことがない。
「……まあ、いいか。大人が寝る時間ではないとは思うけどな」
起こさないようにそっとその身体を抱き支えて横たえた。
「それで、俺もここで寝ていいのかよ?」
他人の家だから、勝手にどこかの部屋を使うのは良くないだろう。
リビングのソファでも普通に寝られる自信はあったが。
「まあ、いいか。おやすみ、阿坂」
見つかったら牧師に三時間くらい説教されそうな気がしつつも、せっかくなので堂々と一枚の毛布で寝ることにした。




眠っている時間は長いようで、とても短い。
何かが見えそうで、大切なことは何も見えない、そんな夢のもどかしさにふと目が覚めたのは朝にはまだ遠い時間。
阿坂はまだすぐ隣で眠っていて。
その寝顔はとても穏やかだった。
けど。
「阿坂……それってさ」
枕の横に投げ出された俺の手をそっと握って、静かに寝息を立てている。
しかも、指先にはやわらかな唇が触れていた。
「……俺が先に握ったわけじゃないよな……?」
やわらかい呼吸がやけにくすぐったくて、無意識のうちに手を動かしそうになるのを堪えながら、また少し甘い気持ちが蘇る。
「っていうか、振ったばっかの相手にあんまり期待させるなよな」
眠ったまま無意識で手近にあったものを掴んだだけなんだろうか。
それとも、一度目が覚めて、俺の手を握ってからまた眠ったんだろうか。
「……別にどっちでもいいんだけど」
できれば後者であって欲しい。
口付けているようなその光景に、都合の良すぎる錯覚をしそうだった。
手と指先に感じる温度。
昨夜が寝不足でなければ、何もせずにここにいることがつらかったかもしれない。
けれど、睡魔はまたすぐに襲ってきて。
朝方に阿坂がベッドを離れたことに気付かないほど俺を深い眠りに落とした。



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